【真鍋 厚】スシローが「ペロペロ少年」に賠償請求しても、「回転寿司テロ」が終わらない本質的な理由

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「寿司テロ」が日本を揺るがせています。
1月29日、回転寿司大手チェーン「スシロー」で迷惑行為を撮影した動画が拡散され、SNS上で炎上しました。動画には、少年がテーブルの醤油差しの注ぎ口に直接口をつけたり、レーンの上の棚に積んである湯のみを手に取って舐めまわして元に戻したり、レーンを回っている寿司にわざと指で唾液を付着させたりする様子が映っていました。
「スシロー」は31日に警察へ被害届を提出し、「迷惑行為を行った当事者と保護者から連絡があり、お会いして謝罪を受けましたが、当社としましては、引き続き刑事、民事の両面から厳正に対処してまいります」と発表。事の重大性を強調しました。
報道によれば、「スシロー」の運営会社の株価が一時暴落し、時価総額がおよそ100億円以上も下がる事態になったといいます。また、現在、岐阜県警が迷惑行為者などについて偽計業務妨害の疑いで捜査していることなどが明らかになっています。
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週刊誌などを問わず使われていた「スシローペロペロ事件」という身も蓋もない通称は、すでに「寿司テロ」というインパクトのある略称にとって代わられたようです。確かに、飲食チェーン店における衛生上の不安を巻き起こし、外食上場企業を一本の動画で震撼させたという意味において、「テロ」というパワーワードはあながち間違いではありません。この点SNSユーザーは適切なスラングを創出したともいえるでしょう。とりわけ面白いのは、英紙ガーディアンが「日本の外食産業を襲った『寿司テロ』の波」(Wave of ‘sushi terrorism’ grips Japan’s restaurant world)というタイトルで報じたことです。しかも、Twitterで4000万回近く再生された少年の動画について、「最も凶悪な食べ物の犯罪の映像」(A clip of the most egregious culinary crime)と論評するほどでした。「テロ」とは何か?厳密にいえば、「テロ」「テロリズム」という用語は、政治的・宗教的目的のために行使される暴力全般を指しており、暴力を行使する側にとって成功とは、敵対勢力に対して心理的な脅威を抱かせることです。当然ながら「寿司テロ」は、この定義には当てはまっておらず、言葉のインフレという感じは拭えません。けれども、効果という面では検討に値します。仮に何の政治的・宗教的目的がなかったとしても、ある人物が引き起こした暴力的事象が「社会の正常性に衝撃を与え、人々の心にさざ波を広がらせる」機能を持つのであれば、それは「テロ」「テロリズム」によって誘発される反応に近いといえるからです。加えて、「テロ」「テロリズム」は人々の関心の最大化を狙った劇場型犯罪の性格もあるからです。 とはいえ、人間は意外に無目的な行為はしないものです。すぐに思い浮かぶのは、SNSで注目されてバズりたいという「承認欲求」でしょう。2010年代以降のバカッター文化の興隆から見れば、「バイトテロ」と「寿司テロ」は、行為主体がアルバイトから客に移行しただけに過ぎません。「バカッター」は、Twitterとバカを組み合わせた造語として産声を上げ、「ネット上でウケを狙ってバカな行為をする者」を総称するようになりました。特にそのような投稿が多発した2013年には、その年の「ネット流行語大賞」の4位にランクインするほどでした。2019年以降、InstagramやTikTokなどに主戦場がシフトし、「バカスタグラム」「バカトック」という新語が現れましたが、その本質は若者たちの「承認欲求」をあおる「アテンション・エコノミー」(関心経済)の高まりです。「寿司テロ」報道以降、類似の動画が続々とSNSなどでアップされ、拡散された理由はこれによるところが大きいといえます。浸透していく「関心経済」「アテンション・エコノミー」(関心経済)とは、1997年に社会学者のマイケル・ゴールドハーバーが提唱した概念です。世界経済という大舞台で活躍するグローバル企業から、小商いをやり始めた個人事業主に至るまで、「どれだけ耳目を集められるか」が最も重大な局面となる中で、人々の注意を瞬時に方向付けたり、持続させたりする技術にその覇権が移り変わることを指しています。いわばアテンション=関心の争奪戦です。シリコンバレーの企業家で作家のアンドリュー・キーンは、「ナルシシズムと覗き見趣味の時代には、まさに理想的なお楽しみである――個人化(パーソナライズ)され、カスタマイズされ、簡単に使えるそのアプリが、自分のことで嘘をつくよううながすのである」(*1)と言いましたが、この「嘘」には、「注目を得るために行なうありとあらゆる行為」が含まれています。画像の加工・修正から、誇張された表現、ジョーク、捏造、悪ふざけ、演技等々、不特定多数の視聴を意識したすべての振る舞いです。かつて仲間内で行なわれていた公共における迷惑行為は、あくまで秘密を共有し仲間であることを確かめる手段という場合が多く、後年失敗談のように語られるたぐいのものでした。そのため、それを記録して公けにする動機は乏しかったといえます。しかし、「アテンション・エコノミー」(関心経済)の浸透と、それを実現してくれる夢の装置であるSNSの魔力も手伝って、ただの迷惑行為を「自分たちを売り込むためのコンテンツ」に変質させたのです。市場のゲームに身を任せると、「そこでは商品の売り手になるか商品のそのものになるかの二つの選択肢しかない」と述べたのは、社会学者のジグムント・バウマンでした(*2)。社会学者のジグムント・バウマン[Photo by gettyimages] バカッター文化は、「アテンション・エコノミー」(関心経済)下における商品に進んでなろうとすることであり、その商品価値を上げるのはアテンション=関心の争奪戦に掛かっているというわけです。そうして「その世界にいる人々を、個人が所有し経営する売店に商品を並べる商店主の集合体とみなさざるをえなくなるか、あるいは実際にそういう立場に置かれることになる」(同上)のです。つまり、それらの不埒なコンテンツ自体がメッセージなのです。「一億総コンテンツ社会」への過剰適応肝心のメッセージの中身はといえば、「行き場のない自意識」で満たされています。これは犯罪分析においても非常に重要なテーマであり、劇場型犯罪と比較することでバカッターの特徴を明確にしてくれます。アメリカにおける銃乱射事件について、社会科学雑誌「ニュー・アトランティス」の編集長アリ・N・シュルマンは、乱射犯の目的は「政治的主張を除いたテロリズム」であるとし、「こうしたことは乱射事件がある種の演劇であることを示唆している」と指摘しました。「乱射犯の目的は、その行為を通じてメッセージを伝えることにあるのだ。世の中がいかにして、自分をその犯行に駆り立てたかという物語を作り、それが真実だと自らを納得させなければならない。最終段階は、その物語を他人用に練り上げ、口頭での事前警告、犠牲者たちへの挑発的な言葉、報道機関向けに作られた声明文などを通じて伝えるのである」(*3)アメリカの乱射犯と異なり、バカッターには「ある種の演劇」の要素はありますが、世の中に広くアピールする「物語」はありません。あるとすれば、社会の隅々までもが市場化され、自己を消費者として定義することに慣れっこになり、自己を価値ある存在として演出しようと躍起になる「一億総コンテンツ社会」への過剰適応の「物語」です。自己という商品をとことんまで粉飾するインスタ映えはその典型ですが、バカッターもコンテンツとして大いに消費されることを期待しているという点でまったく同じなのです。Photo by iStock 言い方を変えれば、コンテンツ化された人間は、アメリカの乱射犯のようなハイリスクで死を伴う冒険に飛び込むことはせず、飲食チェーン店で共有物に唾液を付着させ、食品衛生レベルで人々を不快にさせるようなしょぼいプチテロで自らの自意識を満足させようとしているといえるかもしれません。バカッター文化が平成の時代に胚胎したことも象徴的です。もはや経済成長の恩恵に与ることはできず、さりとて社会の崩壊を免れる安全地帯に避難することも困難で、それゆえ将来の展望をまともに描くことすらできない――そんなムードの只中で気晴らしもまたインスタントで散漫なものにならざるを得ません。「いびつな祭り」と化したそう、これら一連の騒動は、祝祭なき時代の徒花でもあるのです。古来、わたしたちは日常のつまらなさを祭りという非日常の狂宴を繰り広げることによってしのいで来ました。「ケ」→「ケガレ」→「ハレ」というよく知られたサイクルです。日常生活を送るために必要なエネルギーの枯渇が「ケガレ(気枯れ)」であるとされ、祭り=「ハレ」の時空によって回復するといわれています(*4)。祭りの時空では、通常は許されない数多の逸脱行為がむしろ推奨され、それによって日常性が強制的に停止させられるのです。Photo by iStock 今やそのような民俗学の教科書に登場するような共同体の残照すら消え失せました。あるのは、狭い仲間内という世間における空騒ぎだけであり、その空騒ぎも動画共有アプリでブーストされることを望むほど面白味のないものになっているのです。ここで注意すべきは、マイクロな逸脱行為がマイクロな祭り機能を果たしているところです。そう考えると、彼らもまた適当な気晴らしの方法を見付けることができていないのかもしれません。「寿司テロ」は結局のところ、世の中に瞬間的な狂騒状態をもたらし、SNSを通じて過剰なバッシングへと発展しました。これも幾度となく反復されて来たいびつな祭りといえます。社会的な制裁と正義の完遂を求めて、どこからともなく湧き上がった有志たちが電子的な祭壇を設え、不品行な少年という生贄(いけにえ)を捧げているのです。これもマスメディアの便乗にブーストされた空騒ぎであり、わたしたちも似たような祭り機能に飛び付き、多少なりとも溜飲を下げようとしているのです。先のサイクルを踏まえれば、祭り=「ハレ」によって「ケガレ」が回復され、人々は「ケ」の日常生活へと戻ります。要するに、わたしたちはまるで何事もなかったかのように「寿司テロ」を忘れてしまうのです。*1 アンドリュー・キーン『インターネットは自由を奪う “無料”という落とし穴』中島由華訳、早川書房*2 ジグムント・バウマン『退行の時代を生きる 人びとはなぜレトロピアに魅せられるのか』伊藤茂訳、青土社*3 大量殺人犯の目的とは――その理解が再発防止に/2013年11月12日/WSJ*4 桜井徳太郎、谷川健一ほか『共同討議 ハレ・ケ・ケガレ』青土社
週刊誌などを問わず使われていた「スシローペロペロ事件」という身も蓋もない通称は、すでに「寿司テロ」というインパクトのある略称にとって代わられたようです。確かに、飲食チェーン店における衛生上の不安を巻き起こし、外食上場企業を一本の動画で震撼させたという意味において、「テロ」というパワーワードはあながち間違いではありません。この点SNSユーザーは適切なスラングを創出したともいえるでしょう。
とりわけ面白いのは、英紙ガーディアンが「日本の外食産業を襲った『寿司テロ』の波」(Wave of ‘sushi terrorism’ grips Japan’s restaurant world)というタイトルで報じたことです。しかも、Twitterで4000万回近く再生された少年の動画について、「最も凶悪な食べ物の犯罪の映像」(A clip of the most egregious culinary crime)と論評するほどでした。
厳密にいえば、「テロ」「テロリズム」という用語は、政治的・宗教的目的のために行使される暴力全般を指しており、暴力を行使する側にとって成功とは、敵対勢力に対して心理的な脅威を抱かせることです。当然ながら「寿司テロ」は、この定義には当てはまっておらず、言葉のインフレという感じは拭えません。けれども、効果という面では検討に値します。
仮に何の政治的・宗教的目的がなかったとしても、ある人物が引き起こした暴力的事象が「社会の正常性に衝撃を与え、人々の心にさざ波を広がらせる」機能を持つのであれば、それは「テロ」「テロリズム」によって誘発される反応に近いといえるからです。加えて、「テロ」「テロリズム」は人々の関心の最大化を狙った劇場型犯罪の性格もあるからです。
とはいえ、人間は意外に無目的な行為はしないものです。すぐに思い浮かぶのは、SNSで注目されてバズりたいという「承認欲求」でしょう。2010年代以降のバカッター文化の興隆から見れば、「バイトテロ」と「寿司テロ」は、行為主体がアルバイトから客に移行しただけに過ぎません。「バカッター」は、Twitterとバカを組み合わせた造語として産声を上げ、「ネット上でウケを狙ってバカな行為をする者」を総称するようになりました。特にそのような投稿が多発した2013年には、その年の「ネット流行語大賞」の4位にランクインするほどでした。2019年以降、InstagramやTikTokなどに主戦場がシフトし、「バカスタグラム」「バカトック」という新語が現れましたが、その本質は若者たちの「承認欲求」をあおる「アテンション・エコノミー」(関心経済)の高まりです。「寿司テロ」報道以降、類似の動画が続々とSNSなどでアップされ、拡散された理由はこれによるところが大きいといえます。浸透していく「関心経済」「アテンション・エコノミー」(関心経済)とは、1997年に社会学者のマイケル・ゴールドハーバーが提唱した概念です。世界経済という大舞台で活躍するグローバル企業から、小商いをやり始めた個人事業主に至るまで、「どれだけ耳目を集められるか」が最も重大な局面となる中で、人々の注意を瞬時に方向付けたり、持続させたりする技術にその覇権が移り変わることを指しています。いわばアテンション=関心の争奪戦です。シリコンバレーの企業家で作家のアンドリュー・キーンは、「ナルシシズムと覗き見趣味の時代には、まさに理想的なお楽しみである――個人化(パーソナライズ)され、カスタマイズされ、簡単に使えるそのアプリが、自分のことで嘘をつくよううながすのである」(*1)と言いましたが、この「嘘」には、「注目を得るために行なうありとあらゆる行為」が含まれています。画像の加工・修正から、誇張された表現、ジョーク、捏造、悪ふざけ、演技等々、不特定多数の視聴を意識したすべての振る舞いです。かつて仲間内で行なわれていた公共における迷惑行為は、あくまで秘密を共有し仲間であることを確かめる手段という場合が多く、後年失敗談のように語られるたぐいのものでした。そのため、それを記録して公けにする動機は乏しかったといえます。しかし、「アテンション・エコノミー」(関心経済)の浸透と、それを実現してくれる夢の装置であるSNSの魔力も手伝って、ただの迷惑行為を「自分たちを売り込むためのコンテンツ」に変質させたのです。市場のゲームに身を任せると、「そこでは商品の売り手になるか商品のそのものになるかの二つの選択肢しかない」と述べたのは、社会学者のジグムント・バウマンでした(*2)。社会学者のジグムント・バウマン[Photo by gettyimages] バカッター文化は、「アテンション・エコノミー」(関心経済)下における商品に進んでなろうとすることであり、その商品価値を上げるのはアテンション=関心の争奪戦に掛かっているというわけです。そうして「その世界にいる人々を、個人が所有し経営する売店に商品を並べる商店主の集合体とみなさざるをえなくなるか、あるいは実際にそういう立場に置かれることになる」(同上)のです。つまり、それらの不埒なコンテンツ自体がメッセージなのです。「一億総コンテンツ社会」への過剰適応肝心のメッセージの中身はといえば、「行き場のない自意識」で満たされています。これは犯罪分析においても非常に重要なテーマであり、劇場型犯罪と比較することでバカッターの特徴を明確にしてくれます。アメリカにおける銃乱射事件について、社会科学雑誌「ニュー・アトランティス」の編集長アリ・N・シュルマンは、乱射犯の目的は「政治的主張を除いたテロリズム」であるとし、「こうしたことは乱射事件がある種の演劇であることを示唆している」と指摘しました。「乱射犯の目的は、その行為を通じてメッセージを伝えることにあるのだ。世の中がいかにして、自分をその犯行に駆り立てたかという物語を作り、それが真実だと自らを納得させなければならない。最終段階は、その物語を他人用に練り上げ、口頭での事前警告、犠牲者たちへの挑発的な言葉、報道機関向けに作られた声明文などを通じて伝えるのである」(*3)アメリカの乱射犯と異なり、バカッターには「ある種の演劇」の要素はありますが、世の中に広くアピールする「物語」はありません。あるとすれば、社会の隅々までもが市場化され、自己を消費者として定義することに慣れっこになり、自己を価値ある存在として演出しようと躍起になる「一億総コンテンツ社会」への過剰適応の「物語」です。自己という商品をとことんまで粉飾するインスタ映えはその典型ですが、バカッターもコンテンツとして大いに消費されることを期待しているという点でまったく同じなのです。Photo by iStock 言い方を変えれば、コンテンツ化された人間は、アメリカの乱射犯のようなハイリスクで死を伴う冒険に飛び込むことはせず、飲食チェーン店で共有物に唾液を付着させ、食品衛生レベルで人々を不快にさせるようなしょぼいプチテロで自らの自意識を満足させようとしているといえるかもしれません。バカッター文化が平成の時代に胚胎したことも象徴的です。もはや経済成長の恩恵に与ることはできず、さりとて社会の崩壊を免れる安全地帯に避難することも困難で、それゆえ将来の展望をまともに描くことすらできない――そんなムードの只中で気晴らしもまたインスタントで散漫なものにならざるを得ません。「いびつな祭り」と化したそう、これら一連の騒動は、祝祭なき時代の徒花でもあるのです。古来、わたしたちは日常のつまらなさを祭りという非日常の狂宴を繰り広げることによってしのいで来ました。「ケ」→「ケガレ」→「ハレ」というよく知られたサイクルです。日常生活を送るために必要なエネルギーの枯渇が「ケガレ(気枯れ)」であるとされ、祭り=「ハレ」の時空によって回復するといわれています(*4)。祭りの時空では、通常は許されない数多の逸脱行為がむしろ推奨され、それによって日常性が強制的に停止させられるのです。Photo by iStock 今やそのような民俗学の教科書に登場するような共同体の残照すら消え失せました。あるのは、狭い仲間内という世間における空騒ぎだけであり、その空騒ぎも動画共有アプリでブーストされることを望むほど面白味のないものになっているのです。ここで注意すべきは、マイクロな逸脱行為がマイクロな祭り機能を果たしているところです。そう考えると、彼らもまた適当な気晴らしの方法を見付けることができていないのかもしれません。「寿司テロ」は結局のところ、世の中に瞬間的な狂騒状態をもたらし、SNSを通じて過剰なバッシングへと発展しました。これも幾度となく反復されて来たいびつな祭りといえます。社会的な制裁と正義の完遂を求めて、どこからともなく湧き上がった有志たちが電子的な祭壇を設え、不品行な少年という生贄(いけにえ)を捧げているのです。これもマスメディアの便乗にブーストされた空騒ぎであり、わたしたちも似たような祭り機能に飛び付き、多少なりとも溜飲を下げようとしているのです。先のサイクルを踏まえれば、祭り=「ハレ」によって「ケガレ」が回復され、人々は「ケ」の日常生活へと戻ります。要するに、わたしたちはまるで何事もなかったかのように「寿司テロ」を忘れてしまうのです。*1 アンドリュー・キーン『インターネットは自由を奪う “無料”という落とし穴』中島由華訳、早川書房*2 ジグムント・バウマン『退行の時代を生きる 人びとはなぜレトロピアに魅せられるのか』伊藤茂訳、青土社*3 大量殺人犯の目的とは――その理解が再発防止に/2013年11月12日/WSJ*4 桜井徳太郎、谷川健一ほか『共同討議 ハレ・ケ・ケガレ』青土社
とはいえ、人間は意外に無目的な行為はしないものです。すぐに思い浮かぶのは、SNSで注目されてバズりたいという「承認欲求」でしょう。2010年代以降のバカッター文化の興隆から見れば、「バイトテロ」と「寿司テロ」は、行為主体がアルバイトから客に移行しただけに過ぎません。「バカッター」は、Twitterとバカを組み合わせた造語として産声を上げ、「ネット上でウケを狙ってバカな行為をする者」を総称するようになりました。
特にそのような投稿が多発した2013年には、その年の「ネット流行語大賞」の4位にランクインするほどでした。2019年以降、InstagramやTikTokなどに主戦場がシフトし、「バカスタグラム」「バカトック」という新語が現れましたが、その本質は若者たちの「承認欲求」をあおる「アテンション・エコノミー」(関心経済)の高まりです。「寿司テロ」報道以降、類似の動画が続々とSNSなどでアップされ、拡散された理由はこれによるところが大きいといえます。
「アテンション・エコノミー」(関心経済)とは、1997年に社会学者のマイケル・ゴールドハーバーが提唱した概念です。世界経済という大舞台で活躍するグローバル企業から、小商いをやり始めた個人事業主に至るまで、「どれだけ耳目を集められるか」が最も重大な局面となる中で、人々の注意を瞬時に方向付けたり、持続させたりする技術にその覇権が移り変わることを指しています。いわばアテンション=関心の争奪戦です。
シリコンバレーの企業家で作家のアンドリュー・キーンは、「ナルシシズムと覗き見趣味の時代には、まさに理想的なお楽しみである――個人化(パーソナライズ)され、カスタマイズされ、簡単に使えるそのアプリが、自分のことで嘘をつくよううながすのである」(*1)と言いましたが、この「嘘」には、「注目を得るために行なうありとあらゆる行為」が含まれています。画像の加工・修正から、誇張された表現、ジョーク、捏造、悪ふざけ、演技等々、不特定多数の視聴を意識したすべての振る舞いです。
かつて仲間内で行なわれていた公共における迷惑行為は、あくまで秘密を共有し仲間であることを確かめる手段という場合が多く、後年失敗談のように語られるたぐいのものでした。そのため、それを記録して公けにする動機は乏しかったといえます。
しかし、「アテンション・エコノミー」(関心経済)の浸透と、それを実現してくれる夢の装置であるSNSの魔力も手伝って、ただの迷惑行為を「自分たちを売り込むためのコンテンツ」に変質させたのです。
市場のゲームに身を任せると、「そこでは商品の売り手になるか商品のそのものになるかの二つの選択肢しかない」と述べたのは、社会学者のジグムント・バウマンでした(*2)。
社会学者のジグムント・バウマン[Photo by gettyimages]
バカッター文化は、「アテンション・エコノミー」(関心経済)下における商品に進んでなろうとすることであり、その商品価値を上げるのはアテンション=関心の争奪戦に掛かっているというわけです。そうして「その世界にいる人々を、個人が所有し経営する売店に商品を並べる商店主の集合体とみなさざるをえなくなるか、あるいは実際にそういう立場に置かれることになる」(同上)のです。つまり、それらの不埒なコンテンツ自体がメッセージなのです。「一億総コンテンツ社会」への過剰適応肝心のメッセージの中身はといえば、「行き場のない自意識」で満たされています。これは犯罪分析においても非常に重要なテーマであり、劇場型犯罪と比較することでバカッターの特徴を明確にしてくれます。アメリカにおける銃乱射事件について、社会科学雑誌「ニュー・アトランティス」の編集長アリ・N・シュルマンは、乱射犯の目的は「政治的主張を除いたテロリズム」であるとし、「こうしたことは乱射事件がある種の演劇であることを示唆している」と指摘しました。「乱射犯の目的は、その行為を通じてメッセージを伝えることにあるのだ。世の中がいかにして、自分をその犯行に駆り立てたかという物語を作り、それが真実だと自らを納得させなければならない。最終段階は、その物語を他人用に練り上げ、口頭での事前警告、犠牲者たちへの挑発的な言葉、報道機関向けに作られた声明文などを通じて伝えるのである」(*3)アメリカの乱射犯と異なり、バカッターには「ある種の演劇」の要素はありますが、世の中に広くアピールする「物語」はありません。あるとすれば、社会の隅々までもが市場化され、自己を消費者として定義することに慣れっこになり、自己を価値ある存在として演出しようと躍起になる「一億総コンテンツ社会」への過剰適応の「物語」です。自己という商品をとことんまで粉飾するインスタ映えはその典型ですが、バカッターもコンテンツとして大いに消費されることを期待しているという点でまったく同じなのです。Photo by iStock 言い方を変えれば、コンテンツ化された人間は、アメリカの乱射犯のようなハイリスクで死を伴う冒険に飛び込むことはせず、飲食チェーン店で共有物に唾液を付着させ、食品衛生レベルで人々を不快にさせるようなしょぼいプチテロで自らの自意識を満足させようとしているといえるかもしれません。バカッター文化が平成の時代に胚胎したことも象徴的です。もはや経済成長の恩恵に与ることはできず、さりとて社会の崩壊を免れる安全地帯に避難することも困難で、それゆえ将来の展望をまともに描くことすらできない――そんなムードの只中で気晴らしもまたインスタントで散漫なものにならざるを得ません。「いびつな祭り」と化したそう、これら一連の騒動は、祝祭なき時代の徒花でもあるのです。古来、わたしたちは日常のつまらなさを祭りという非日常の狂宴を繰り広げることによってしのいで来ました。「ケ」→「ケガレ」→「ハレ」というよく知られたサイクルです。日常生活を送るために必要なエネルギーの枯渇が「ケガレ(気枯れ)」であるとされ、祭り=「ハレ」の時空によって回復するといわれています(*4)。祭りの時空では、通常は許されない数多の逸脱行為がむしろ推奨され、それによって日常性が強制的に停止させられるのです。Photo by iStock 今やそのような民俗学の教科書に登場するような共同体の残照すら消え失せました。あるのは、狭い仲間内という世間における空騒ぎだけであり、その空騒ぎも動画共有アプリでブーストされることを望むほど面白味のないものになっているのです。ここで注意すべきは、マイクロな逸脱行為がマイクロな祭り機能を果たしているところです。そう考えると、彼らもまた適当な気晴らしの方法を見付けることができていないのかもしれません。「寿司テロ」は結局のところ、世の中に瞬間的な狂騒状態をもたらし、SNSを通じて過剰なバッシングへと発展しました。これも幾度となく反復されて来たいびつな祭りといえます。社会的な制裁と正義の完遂を求めて、どこからともなく湧き上がった有志たちが電子的な祭壇を設え、不品行な少年という生贄(いけにえ)を捧げているのです。これもマスメディアの便乗にブーストされた空騒ぎであり、わたしたちも似たような祭り機能に飛び付き、多少なりとも溜飲を下げようとしているのです。先のサイクルを踏まえれば、祭り=「ハレ」によって「ケガレ」が回復され、人々は「ケ」の日常生活へと戻ります。要するに、わたしたちはまるで何事もなかったかのように「寿司テロ」を忘れてしまうのです。*1 アンドリュー・キーン『インターネットは自由を奪う “無料”という落とし穴』中島由華訳、早川書房*2 ジグムント・バウマン『退行の時代を生きる 人びとはなぜレトロピアに魅せられるのか』伊藤茂訳、青土社*3 大量殺人犯の目的とは――その理解が再発防止に/2013年11月12日/WSJ*4 桜井徳太郎、谷川健一ほか『共同討議 ハレ・ケ・ケガレ』青土社
バカッター文化は、「アテンション・エコノミー」(関心経済)下における商品に進んでなろうとすることであり、その商品価値を上げるのはアテンション=関心の争奪戦に掛かっているというわけです。そうして「その世界にいる人々を、個人が所有し経営する売店に商品を並べる商店主の集合体とみなさざるをえなくなるか、あるいは実際にそういう立場に置かれることになる」(同上)のです。
つまり、それらの不埒なコンテンツ自体がメッセージなのです。
肝心のメッセージの中身はといえば、「行き場のない自意識」で満たされています。これは犯罪分析においても非常に重要なテーマであり、劇場型犯罪と比較することでバカッターの特徴を明確にしてくれます。
アメリカにおける銃乱射事件について、社会科学雑誌「ニュー・アトランティス」の編集長アリ・N・シュルマンは、乱射犯の目的は「政治的主張を除いたテロリズム」であるとし、「こうしたことは乱射事件がある種の演劇であることを示唆している」と指摘しました。
「乱射犯の目的は、その行為を通じてメッセージを伝えることにあるのだ。世の中がいかにして、自分をその犯行に駆り立てたかという物語を作り、それが真実だと自らを納得させなければならない。最終段階は、その物語を他人用に練り上げ、口頭での事前警告、犠牲者たちへの挑発的な言葉、報道機関向けに作られた声明文などを通じて伝えるのである」(*3)
アメリカの乱射犯と異なり、バカッターには「ある種の演劇」の要素はありますが、世の中に広くアピールする「物語」はありません。
あるとすれば、社会の隅々までもが市場化され、自己を消費者として定義することに慣れっこになり、自己を価値ある存在として演出しようと躍起になる「一億総コンテンツ社会」への過剰適応の「物語」です。自己という商品をとことんまで粉飾するインスタ映えはその典型ですが、バカッターもコンテンツとして大いに消費されることを期待しているという点でまったく同じなのです。
Photo by iStock
言い方を変えれば、コンテンツ化された人間は、アメリカの乱射犯のようなハイリスクで死を伴う冒険に飛び込むことはせず、飲食チェーン店で共有物に唾液を付着させ、食品衛生レベルで人々を不快にさせるようなしょぼいプチテロで自らの自意識を満足させようとしているといえるかもしれません。バカッター文化が平成の時代に胚胎したことも象徴的です。もはや経済成長の恩恵に与ることはできず、さりとて社会の崩壊を免れる安全地帯に避難することも困難で、それゆえ将来の展望をまともに描くことすらできない――そんなムードの只中で気晴らしもまたインスタントで散漫なものにならざるを得ません。「いびつな祭り」と化したそう、これら一連の騒動は、祝祭なき時代の徒花でもあるのです。古来、わたしたちは日常のつまらなさを祭りという非日常の狂宴を繰り広げることによってしのいで来ました。「ケ」→「ケガレ」→「ハレ」というよく知られたサイクルです。日常生活を送るために必要なエネルギーの枯渇が「ケガレ(気枯れ)」であるとされ、祭り=「ハレ」の時空によって回復するといわれています(*4)。祭りの時空では、通常は許されない数多の逸脱行為がむしろ推奨され、それによって日常性が強制的に停止させられるのです。Photo by iStock 今やそのような民俗学の教科書に登場するような共同体の残照すら消え失せました。あるのは、狭い仲間内という世間における空騒ぎだけであり、その空騒ぎも動画共有アプリでブーストされることを望むほど面白味のないものになっているのです。ここで注意すべきは、マイクロな逸脱行為がマイクロな祭り機能を果たしているところです。そう考えると、彼らもまた適当な気晴らしの方法を見付けることができていないのかもしれません。「寿司テロ」は結局のところ、世の中に瞬間的な狂騒状態をもたらし、SNSを通じて過剰なバッシングへと発展しました。これも幾度となく反復されて来たいびつな祭りといえます。社会的な制裁と正義の完遂を求めて、どこからともなく湧き上がった有志たちが電子的な祭壇を設え、不品行な少年という生贄(いけにえ)を捧げているのです。これもマスメディアの便乗にブーストされた空騒ぎであり、わたしたちも似たような祭り機能に飛び付き、多少なりとも溜飲を下げようとしているのです。先のサイクルを踏まえれば、祭り=「ハレ」によって「ケガレ」が回復され、人々は「ケ」の日常生活へと戻ります。要するに、わたしたちはまるで何事もなかったかのように「寿司テロ」を忘れてしまうのです。*1 アンドリュー・キーン『インターネットは自由を奪う “無料”という落とし穴』中島由華訳、早川書房*2 ジグムント・バウマン『退行の時代を生きる 人びとはなぜレトロピアに魅せられるのか』伊藤茂訳、青土社*3 大量殺人犯の目的とは――その理解が再発防止に/2013年11月12日/WSJ*4 桜井徳太郎、谷川健一ほか『共同討議 ハレ・ケ・ケガレ』青土社
言い方を変えれば、コンテンツ化された人間は、アメリカの乱射犯のようなハイリスクで死を伴う冒険に飛び込むことはせず、飲食チェーン店で共有物に唾液を付着させ、食品衛生レベルで人々を不快にさせるようなしょぼいプチテロで自らの自意識を満足させようとしているといえるかもしれません。
バカッター文化が平成の時代に胚胎したことも象徴的です。もはや経済成長の恩恵に与ることはできず、さりとて社会の崩壊を免れる安全地帯に避難することも困難で、それゆえ将来の展望をまともに描くことすらできない――そんなムードの只中で気晴らしもまたインスタントで散漫なものにならざるを得ません。
そう、これら一連の騒動は、祝祭なき時代の徒花でもあるのです。
古来、わたしたちは日常のつまらなさを祭りという非日常の狂宴を繰り広げることによってしのいで来ました。「ケ」→「ケガレ」→「ハレ」というよく知られたサイクルです。
日常生活を送るために必要なエネルギーの枯渇が「ケガレ(気枯れ)」であるとされ、祭り=「ハレ」の時空によって回復するといわれています(*4)。祭りの時空では、通常は許されない数多の逸脱行為がむしろ推奨され、それによって日常性が強制的に停止させられるのです。
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今やそのような民俗学の教科書に登場するような共同体の残照すら消え失せました。あるのは、狭い仲間内という世間における空騒ぎだけであり、その空騒ぎも動画共有アプリでブーストされることを望むほど面白味のないものになっているのです。ここで注意すべきは、マイクロな逸脱行為がマイクロな祭り機能を果たしているところです。そう考えると、彼らもまた適当な気晴らしの方法を見付けることができていないのかもしれません。「寿司テロ」は結局のところ、世の中に瞬間的な狂騒状態をもたらし、SNSを通じて過剰なバッシングへと発展しました。これも幾度となく反復されて来たいびつな祭りといえます。社会的な制裁と正義の完遂を求めて、どこからともなく湧き上がった有志たちが電子的な祭壇を設え、不品行な少年という生贄(いけにえ)を捧げているのです。これもマスメディアの便乗にブーストされた空騒ぎであり、わたしたちも似たような祭り機能に飛び付き、多少なりとも溜飲を下げようとしているのです。先のサイクルを踏まえれば、祭り=「ハレ」によって「ケガレ」が回復され、人々は「ケ」の日常生活へと戻ります。要するに、わたしたちはまるで何事もなかったかのように「寿司テロ」を忘れてしまうのです。*1 アンドリュー・キーン『インターネットは自由を奪う “無料”という落とし穴』中島由華訳、早川書房*2 ジグムント・バウマン『退行の時代を生きる 人びとはなぜレトロピアに魅せられるのか』伊藤茂訳、青土社*3 大量殺人犯の目的とは――その理解が再発防止に/2013年11月12日/WSJ*4 桜井徳太郎、谷川健一ほか『共同討議 ハレ・ケ・ケガレ』青土社
今やそのような民俗学の教科書に登場するような共同体の残照すら消え失せました。あるのは、狭い仲間内という世間における空騒ぎだけであり、その空騒ぎも動画共有アプリでブーストされることを望むほど面白味のないものになっているのです。
ここで注意すべきは、マイクロな逸脱行為がマイクロな祭り機能を果たしているところです。そう考えると、彼らもまた適当な気晴らしの方法を見付けることができていないのかもしれません。
「寿司テロ」は結局のところ、世の中に瞬間的な狂騒状態をもたらし、SNSを通じて過剰なバッシングへと発展しました。これも幾度となく反復されて来たいびつな祭りといえます。
社会的な制裁と正義の完遂を求めて、どこからともなく湧き上がった有志たちが電子的な祭壇を設え、不品行な少年という生贄(いけにえ)を捧げているのです。これもマスメディアの便乗にブーストされた空騒ぎであり、わたしたちも似たような祭り機能に飛び付き、多少なりとも溜飲を下げようとしているのです。
先のサイクルを踏まえれば、祭り=「ハレ」によって「ケガレ」が回復され、人々は「ケ」の日常生活へと戻ります。要するに、わたしたちはまるで何事もなかったかのように「寿司テロ」を忘れてしまうのです。
*1 アンドリュー・キーン『インターネットは自由を奪う “無料”という落とし穴』中島由華訳、早川書房*2 ジグムント・バウマン『退行の時代を生きる 人びとはなぜレトロピアに魅せられるのか』伊藤茂訳、青土社*3 大量殺人犯の目的とは――その理解が再発防止に/2013年11月12日/WSJ*4 桜井徳太郎、谷川健一ほか『共同討議 ハレ・ケ・ケガレ』青土社

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