《“ヨーロッパ最後の独裁国家”で「日本人の撮り鉄」が200日超の獄中生活》本人が語った恐怖の取り調べ「『テロリスト!』と怒鳴られ、手錠をかけられて…」

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「ヨーロッパ最後の独裁国家」といわれるベラルーシ。かつてソビエト連邦の構成国だった同国はソ連崩壊に伴い1991年に独立し、現在もロシアと深い関係にある。ロシアによるウクライナへの軍事侵攻において、ベラルーシは表向きには中立を表明しているが、限りなく戦争当事国に近い立場だ。3月25日より、大統領による初めての北朝鮮訪問も話題となっている。
【写真を見る】照井さんが拘束される直前に撮影した鉄道の写真
一方でベラルーシは、第2次トランプ政権発足以降、定期的にアメリカと会談の機会を持ち、制裁解除と引き換えに収監中の政治犯らの大規模な恩赦を決定してきた。3月19日には、250人の釈放を発表したばかりである。
実は、こうしたベラルーシの動向は日本とも無関係ではない。2025年6月に行われた第2次トランプ政権発足以降初めての恩赦の際、釈放された人々の中には日本人2人が含まれていた。そのうちの1人であり、ベラルーシで拘束、投獄され、釈放されるまでの日々を綴った『ベラルーシ獄中留学記』筆者の照井希衣さん(25)に、当時の話を聞いた。
「幸いにも200日程度の拘束で済んだこと、無事に生きて帰国できたことは、すべて外務省、在ベラルーシ日本国大使館をはじめとした関係者の方々に尽力いただいたおかげです。ご迷惑をおかけしたことを、本当に申し訳なく思っています」(照井さん、以下同)
照井さんがベラルーシに入国したのは2024年11月末のことだった。ベラルーシへの渡航は初めてで、目的は「鉄道の撮影」。趣味の延長線上だったという。
「当時、私は旧ソ連の鉄道を撮影するために各国を回ることに夢中になっていました。旧ソ連の鉄道の、共産主義の遺物のような独特の雰囲気にどうしても心惹かれてしまって。他の国の鉄道とは一味違うんです。
ソ連時代、鉄道は軍事施設と同等の扱いであり、撮影が禁止されていたことは知っていました。言い訳に聞こえてしまうかもしれませんが、ソ連崩壊後は違法ではなくなったと認識していたんです。実際、ロシアやウクライナでは、撮影をしていても特に問題は起きなかったので」
拘束されたのは、翌日に出国予定を控えた2024年12月1日のことだった。この日、照井さんは早朝からベラルーシ南西部の都市・カリンコヴィチで鉄道の撮影を試みていたという。ところが何者かに通報され、現地の警察から取り調べを受けることになってしまった。もっとも、この時点ではそれほど危機感は抱いていなかったそうだ。
「簡単な注意を受けたり、少しの間取り調べを受けたりする可能性はゼロではないと思っていたので、それほど焦りませんでした。見つかったら面倒なことになりそうなアプリを削除する余裕もあったくらいです。取り調べの担当者とは、Google翻訳でやりとりをしました。鉄道の撮影を禁止する法律はないようで、取り調べの理由については《隣国の戦争のせいで》と説明を受けました」
ところが、状況が一変する。スマートフォンのサブ端末を警察に渡し忘れていたこと、さらに、その端末で友人に鉄道の写真を送っていたことが知られ、照井さんはあっという間に手錠をかけられてしまった。
「首根っこをつかまれて貨物コンテナのようなところに体ごと押し付けられ、怒鳴られました。『テロリスト!』と言っていたと思います。手錠をかけられたときには信じがたい思いでした。確かに、ベラルーシで鉄道を撮影して、それを友人にリアルタイムで送っていたことは、疑いをかけられても仕方なかったかもしれません。
でも、自分はあくまでただの旅行者ですから、きちんと説明をすればわかってもらえると信じていました。まさか拘束され、そのまま半年ほど獄中生活を送ることになるとは夢にも思っていませんでした」
警察に連行された照井さんを待ち受けていたのは、執拗な尋問だった。
「警察は、私の友人をスパイだと疑い始めたようで、繰り返し尋ねてきました。ただ、友人も私と同じで、海外の、特に旧ソ連の鉄道を愛好している人間なんです。リアルタイムで情報を送っていたのは、少しでも友人の役に立てたらという気持ちからでした。友人はスパイではないので、当然、何か指示があったわけではありませんでした。
でも、何度そう説明しても、信用してもらえない。彼らの筋書きに沿った内容を私が認めるまで、尋問は永遠に続くのではないかと錯覚しそうになりました。悪魔の証明はできないと、頑なに否定する私にしびれを切らしたのか、『嘘をついたら、8年間牢獄ですよ』と脅しのような言葉をかけてくる場面もありました」
尋問は平行線をたどり、照井さんは翌日、ついに一時拘置所に入れられてしまう。
「自分は何の罪に問われて投獄されたのか、いつ解放されるのか、そういった説明がまったくない状況のなかで拘置所に入れられて、ただただ不安でした。自分の行いには確かに軽率な部分も多々ありましたが、それでも、これほどの仕打ちを受けることなのだろうかという疑念は拭えませんでした」
解放の見通しは不明瞭のまま、結局、照井さんは200日超を獄中で過ごした。獄中生活の終わりは唐突だったという。
「ある日、看守が突然『荷物をまとめろ!』と。連れて行かれたのはミンスクで、その翌日にはリトアニア国境で釈放されました。その際に、アメリカの外交官を名乗る男性が『あなたたち14人はファーストグループ。いずれはベラルーシ国内で不当に拘束されている人全員を解放したい』というようなことを話していて、そこで初めてアメリカのはたらきかけによって自分が釈放されたことを知りました」
その後、在リトアニア日本国大使館職員らの協力のもと、照井さんは日本に無事帰国した。照井さんは自戒の念を込めてこう語る。
「自分が入れられたのは一時拘置所だったからか、幸い、苛烈な強制労働や日常的な暴力はありませんでした。それでも、書き続けていた日記を没収されたことに抗議した際には容赦ない平手打ちを受けました。また、同時に釈放された14人の中の、特に政治犯として拘束されていた人たちからは、悪質な懲罰や暴力を受けていたという話を聞きました。日本よりも暴力に対するハードルが低いことは確かだと思います。自分は2000年生まれなので、これまでの人生で暴力というものに触れてこなかった。カルチャーショックを受けました。
関係者の方々の尽力や、家族、友人、知人の支えがあって、いまこうして日本で生活ができていますが、自分はたまたま運が良かっただけだと心底感じています。起こしてしまったことについては反省し、生き直すつもりで、日々を過ごしていきたいと考えています」

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