1981年、不慮の事故でこの世を去った向田邦子。人気作家は亡くなる直前、どのような話をしていたのだろうか。実妹の和子氏が死の前日に話した電話の内容を振り返った。(初出・「文藝春秋」2025年1月新年特大号)
【画像】不慮の事故でこの世を去った向田邦子の実妹、和子氏
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向田邦子(1929~1981)は『寺内貫太郎一家』(TBS系、昭和49年)、『阿修羅のごとく』(NHK、昭和54年)などテレビドラマの脚本家として名を馳せたのち、エッセイや小説も手掛け、第83回(昭和55年上期)直木賞を受賞した。それからおよそ1年後、51歳のとき旅行先の台湾で飛行機の墜落事故のために亡くなった。
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邦子は4人きょうだいの長女だった。9歳離れた末の妹が、向田和子氏だ。
邦子は家族思いで面倒見がよく、いかにも長女らしい姉でした。末っ子の私は、小さいころは字も満足に書けず、小学校に入っても勉強についていけなかったので、特に目をかけてくれました。
作文の宿題が出ると、実践女子専門学校の学生だった姉は、代わりに書きたがりました。算数の宿題をやってあげるなんて言われたことはなく、作文だけ。ところが姉の代筆は上手すぎて、いつバレるかとヒヤヒヤでした。
向田邦子 文藝春秋
よく覚えているのは、3年生くらいの夏休みの日記です。真っ白のままなので困っていたら、姉は涼しい顔で全ページを埋めてくれました。苦労していたのは、日ごとの天気の欄だけです。
いつもそんなふうでしたから、私には何かお返ししたい気持ちがあったんでしょう。姉を観察して南京豆(落花生)が好きだとわかったので、自分がおやつにもらった南京豆を少しずつ瓶に入れて溜めておきました。
あれは、姉が期末試験の時期だったと思います。昔の家ですから、欄間から灯りが漏れていました。「お姉ちゃん、夜遅くまで勉強するんだな」と思った私は、一握りの南京豆を「あげるね」と手渡しました。
それから30年も経って、
「あなたはとってもいい奴だって、私、思ってるよ」
と言うので、わけを聞いたら、
「南京豆くれたこと、覚えてるよ」
ほんの小さな出来事を、ずっと忘れずにいてくれたんです。
そんな話になったのは、昭和50(1975)年頃、乳がん、肝炎と、40代半ばだった姉に大病が続いたときでした。
姉と2人で赤坂に「ままや」という小料理屋を出したのは、昭和53年です。姉自身が寛げる場所を欲しがったのと、嫁ぐ気配のない私の、自分がいなくなったあとの身を案じてのことでした。
連作短編「花の名前」「かわうそ」「犬小屋」の3作(のちに『思い出トランプ』に所収)で直木賞をいただいたのは、その2年後です。まだ雑誌に連載中の作品が受賞するのは異例らしく、本人も意外で嬉しかったようです。だいぶたってから、こんなことを言われました。
「あなたね、人生捨てたもんじゃないわよ。50になって、直木賞いただいて、スタートラインに立った。人間、80の力しかないって思ってても、何かの拍子で120に評価されると、120の力になっちゃう。だから、あなただって頑張れ」
話の落ち着き先は、やはり私の心配でした。
姉が亡くなったのは、ままやの開店から3年後。直木賞を受賞してからわずかに1年後です。作家としてはこれから、というときでした。
前の日に不思議なことがあったんです。台湾に着いた翌朝でしたけれど、姉が国際電話をかけてきたのです。旅先から電話があること自体珍しく、せっかちな人だから通話はいつも短いのに、あの日に限ってゆっくりでした。
「人生バランス説だからね。いつも奢ってもらってばかりだから、もうこの辺で、奢り返させてよ」
私がそんな話をしたら、
「はいはい。奢ってもらいます」
という返事でした。そのあと電話を代わった母とも、長い時間喋っていました。でも「台湾ではこんな物が美味しい。今度みんなで一緒に来よう」なんていう話は、日本に帰ってからでもできます。「電話は短くしなさい」と言っていたくせに、なかなか切ろうとしないのです。
私は「こんな姉ちゃん、初めてだな」と思ったのですが、母も勘のいい人だったので「いつもの邦子じゃない」と感じたらしいです。そのときは、お互い口に出しませんでしたけれど。
姉が亡くなったあとも私はままやの営業を続けましたが、60歳を機に閉店しました。他の人に引き継ぐ考えはありませんでした。姉と2人で作った店ですから、私の手を離れて続けることは姉の意思にそぐわないと考えたのです。
(向田 和子/文藝春秋 2025年1月号)