〈三重県にあるナゾの島「売春島」を現地取材「ショート2万、ロング4万、女の子の部屋で…」〉から続く
三重県志摩市の離島・渡鹿野島。かつて“売春島”と呼ばれ繁華を極めたこの島は、2000年代以降、急速にその面影を失っていく。地図、古文献、報道資料をひもときながら、廃れていった本当の理由に迫る。
【衝撃グラビア】「これぞ“男女の営み”」色気ただよう下着姿のコンパニオンも…ナゾの島『三重県・売春島』で働く女性たち【裏にはヤクザ…】
ノンフィクションライターの高木瑞穂氏の新刊『ルポ 風俗の誕生』(清談社Publico)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/最初から読む)
観光客を出迎える渡鹿野島の看板(写真:筆者提供)
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現存していたもっとも古いものは、1968年。まずは居住者の名前や店舗の屋号をつぶさに調べてみた。1968年にはホテル、旅館、飲食店が1軒ずつ。あとは民家だけだ。しかし1977年になると、宿泊施設は6軒に増え、複数のスナックやアパートもあった。
1979年にはそれらが増えるばかりか、パチンコ屋「デンスケ」という記述も見られた。さらに1996年にはそのデンスケがなくなり、代わりに「再会」「ほうせん席」「平成」などの置屋と思しきスナックが乱立していた。
商店、喫茶店、美容院などの商業施設も格段に増えている。
その状況は2000年代初頭まで変わらず2003年、「わたかの島パールビーチ」がオープン。そして2016年には多くの宿泊施設が廃業し、置屋も数軒が残るのみとなっていた。
この作業により、島の成り立ちがおぼろげながら見えてきた。まず、スナックや置屋などの売春宿ができたのは1970年代のこと。それまでは、宿泊施設はあったものの、よくある寂れた離島だったということだ。
1980年代に入ると、パチンコ店が出現するなど飲み屋とギャンブル場が混在する繁華街の様相になる。以降、1990年代にかけて置屋が乱立し、文字通り「売春島」の様相を呈した。ホテルなど商業施設はスクラップ&ビルドを繰り返していた。
そして2000年代に突入すると、わたかの島パールビーチが整備されるなど売春島からの脱却が進められ、それに反比例するかのごとく現在に近づくにつれホテルや売春宿が廃業していくのである。
地図から見られない変遷は、過去の報道資料や関連書籍で補った。
まず古書店で見つけたのは、1949年に出版された中田政吉著の『志摩鳥羽の茶話』(中田郷土研究所)なる、渡鹿野島の歴史が記された古い文献だった。
この島は「風待ち港」で、帆船で物資を運搬していたその時代、物資の調達や船員の休息のため、船は売春島に停泊し、目的地に向けて進むのにほどよい風が来るのを待っていた。
本書には、こんな記述もあった。
〈名物は鳥羽の港に日和山 宿かりもする走りがねあり〉
走りがねとは、江戸時代から明治30年代(1897~1906年)ごろまで鳥羽で名物であった、船人相手の女郎のことである。女郎とは、遊女とも呼ばれる、遊廓で男性に性的サービスをする女性のこと。み砕けば売春婦だ。
また『全国花街めぐり』(松川二郎著/誠文堂)では、港の女のなかには、小舟に乗って沖へ出かけ、そこに停泊している船へ移って春をひさぐところの一種がある、とされている。
〈鳥羽はよいとこ 朝日をうけて 七ツ下れば 女郎が出る〉
そう唄われた鳥羽名物「はしりがね」は、主に船頭衆を客とする公娼であった。江戸時代、江戸と大坂を結ぶ航路上にこの島は位置していたことで、樽廻船や菱垣廻船といった商人の船から、肥料船、イワシを追いかけたアグリ船など小舟まで大小さまざまな船が入港し、この入り江を埋め尽くしたという。そして海が時化ると、船員たちは宿に泊まったり、島の女郎たちにしばしの安息を求めたりしたのである。
同書でははしりがねを、漢字で「把針金」と記していた。その字面から想像できるように、売春の他に船の帆や船員の衣服などを縫う仕事もした。
明治以降は把針金が禁じられたほか、汽船も登場し、風待ちの必要がなくなる。すると船の出入りが徐々に減り、把針金も姿を消していく。1940年ごろにはその姿を見なくなったという。
だが、把針金は遊廓へと形を変える。以降も終戦後の1958年の売春防止法完全施行まで女郎の文化は続いた。この女郎文化は、売春防止法の完全施行までは公的に認められた売春、つまり公娼であった。売春防止法が制定され、管理売春が罪となり女郎文化も建前上は消えることになる。
しかし赤線、青線と呼ばれる売春地帯がいまだに形を変えて続いているように、この島も、そうして秘密裏に売春が続いていたのである。
その後、脈々と受け継がれてきた売春史と並行して売春を浄化する動きが出はじめる。把針金から裏稼業として続いたこの島の売春産業は、その是非は別として、臭いものにフタをするかのごとく隠蔽され、そして衰退していく。
1989年の中日新聞によれば、自然を利用して開発する国際リゾート「三重サンベルトゾーン」構想で渡鹿野島が重点整備地区に入り、島の活性化のため海水浴場をつくったり、旅館組合が中心となって家族連れや婦人層の誘客イベントを展開したりするなどして、〈これまでの“歓楽”のイメージを打破し、クリーン観光地づくりと取り組む〉との記述があった。パールビーチが発端だと思っていた浄化の動きは、すでにこのころから芽を出していたことになる。
2013年の流通新聞では、三重県が「離島振興計画」を策定し、住民たちの生活基盤の整備はもちろん、水産業と観光の連携による地域産業の活性化を図るとされている。
これに付帯する動きとして2012年、大学生の感性や意欲を、観光振興や街づくりに生かそうとする試みがあった。学生20人が渡鹿野島を訪れて島の現状を調べ、地域住民と意見交換をしたという(中部読売新聞)。2013年、鳥羽署により交番や駐在所がない渡鹿野島に署員が防犯などの講話に出向く「移動交番」事業もはじまった(中日新聞)。
2015年には、風光明媚なこの島を広く知らせるため、島の形にちなんだ「ハートウォークラリー」をはじめる。島に点在する八重垣神社や渡鹿野公園、パールビーチなど五か所を巡るイベントだ。
そして2016年5月、賢島で開催されたサミット(G7=先進国首脳会議)だ。三重県警サミット対策課によると、サミット開催に向けた警備体制の規模は、全国から1万人を超える特別派遣部隊が三重県に送り込まれたという。
鵜方駅前のビジネスホテル従業員いわく、開催中の前後3か月は「周辺ホテルはどこも満室。サミット様々でした」とのことだが、売春島の置屋群はその余波を受け営業自粛を余儀なくされた。サミットは、さらに売春目的の客たちを遠ざける要因となり、いまに至るのだ。
(高木 瑞穂/Webオリジナル(外部転載))