「キモい」「バイオハザード」身体中にカフェオレ斑がある少女が教室で浴びた言葉 指定難病・大河内愛美(31)が明かす、孤立した小中学校時代

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名古屋市在住のガラス作家・大河内愛美さんは、レックリングハウゼン病(神経線維腫症1型)という指定難病とともに生きてきた。主な症状には、肌にあらわれるカフェオレ斑と呼ばれるしみと良性の柔らかい腫瘍。大河内さんはその症状のため、小中学校でひどいいじめを受けたという。また、成人してからは合併症を併発し、背骨にボルトを入れるという大手術を受けることにもなった。
【画像】同級生から「バイオハザード」と…背骨にボルト7本、体には斑点と腫瘍がある大河内愛美さん(31)の水着やドレス姿を見る
長くレックリングハウゼン病であることを人に話せなかったという大河内さんだったが、ある時期から、SNSなどを通して積極的にこの病気について発信するようになった。そんな大河内さんのこれまでについて、3回にわたりお話をうかがった。第1回は、レックリングハウゼン病とともに生きた思春期までのお話。(全3回の1回目/つづきを読む)
大河内愛美さん
――ご自身の体の変化に、いつ頃から気づいていましたか。
大河内愛美さん(以下、大河内) ものごころついたとき、最初はたくさんあるカフェオレ斑が気になっていました。だんだん神経線維腫(良性の腫瘍で柔らかいドーム上のしこり)も増えていくし……。でも両親はあまり気にしていない様子で、私が「これ何?」と聞いても「生まれつきだから」と言われるだけで。だから、病気だなんて夢にも思っていなかったです。
病名を知ったのは高校1年生、携帯電話を初めて持ったときでした。肌の症状について、ずっと気になっていたので「カフェオレ斑」でキーワード検索をしたら、一番上に出てきたのが「レックリングハウゼン病」「難病」という言葉で「自分はこの病気なのかな?」と思って。それで初めて知りました。

――いじめを受けた話はおつらいと思うのですが、少し聞かせてください。著書のタイトルに『バイオハザードと呼ばれていた私がドレスや水着を堂々と着るなんて』とありますが、実際にそんなふうに呼ばれたんですか?
大河内 はい。小学生の頃はずっと男子から「バイオ」と言われてました。カフェオレ斑が、顔や首のあたりに見えていたからだと思います。
中学校でも入学して2日後くらいには、もう他の小学校から来てた男子にまで「キモい」「死ね」と言われるようになって。誰かが話して広めたんだろうな、と。そこからどんどんそういうことを言う男子が増えていきました。
――ひどいですね。ほとんど男子だったんですか。
大河内 直接言ってくるのは男子でした。女子は、2人きりなら話してくれるけど、男子の前では無視される感じ。人の多い場所では距離を置かれていました。
――仲のいい女子の友だちはできませんでしたか?
大河内 できなかったですね。陰では話せても、みんなの前で避けられると、やっぱり信用できなくて。
――当時、メイクで隠したいと思ったことはありませんか。
大河内 なかったです。隠す、という発想がなかったですね。

――一番つらかったのは、いつ頃ですか。
大河内 中学ですね、人数が増えたこともあるし。同級生の兄弟とか、下級生からも言われるので。中学校の頃学習塾にも行っていたので、その学習塾でも違う学校の男子に言われるし。どこに行っても何か言われて。毎日「キモい」「死ね」と挨拶みたいに言われていました。言われすぎて、それが普通みたいになっていました。
――言い返したりせず?
大河内 何も言わなかったですね。無視してました。
――耐える日々だと、自己肯定感が下がってしまいそうですね。不登校になったりはしなかったですか。

大河内 なかったです。学校は、行かなきゃいけないものだと思っていましたから。
――ご両親にいじめの相談は?
大河内 いじめに関しては親にもちゃんと相談したことはなかったです。家族を心配させたくないので。なんとなく察していたとは思うんですが、私が何も言わなかったので……。
――ガラス工芸に出会ったのはいつごろでしょう。
大河内 小学校6年生でテレビで見て。その後、中学生1年生のとき、吹きガラス体験をして「楽しい!」って。そこから「ガラスをやりたい」という気持ちがずっとありました。

――つらい学校生活のなかで、ガラス工芸をやる夢は支えになっていたのでしょうか。
大河内 そうですね。この人たちを見返したい、という気持ちはあったと思います。「あなたたちとは住む世界が違うんだ」って思っていました。
――放課後はどのように過ごしてましたか。
大河内 帰ったら宿題をやったり……でも勉強はあんまり頑張ってなかったんです。小中学校の知り合いがいない高校に行きたい、という気持ちはありましたけど「高校はどこでもいいや」「赤点を取らなきゃいいか」という感じで。でもガラスをやるために美大に行きたかったので、デッサンはちゃんと勉強していました。
――ご家族も芸術系ですか。
大河内 いいえ。でも両親から反対されるようなことはなくて「やりたいようにやれば」という感じでした。小学生の頃「将来ガラスやりたい」って言い出したときは「ちょっと体験すれば、満足して収まるだろう」と思っていたみたいです。

――大学進学は順調に?
大河内 調べたら、ガラスを専門的に学べる大学は全国に10校ほどしかなくて。実家から通えるのが名古屋芸術大学でした。デッサンもある試験を受けて、ストレートで入学しました。
――大学生活はどうでしたか?
大河内 やっとガラスができる、って。水を得た魚みたいでした。
――大学の学園祭では実行委員に入って、ステージで「おジャ魔女どれみ」のコスプレもされたとか。元来の性格としては活発だったんでしょうか。
大河内 どうですかね。やっぱり、人前に出るのはあんまり得意ではなかったです。小中学校のいじめの影響か「自分が目立つことをしたら変な目で見られるんじゃないか」とか、そういう勝手な思い込みがあって。「自分がこういうことしてるのって変なんじゃないかな」とか。自分の見え方というのを常に気にしていてはいましたね。


いじめの傷を抱えるなか、ガラスという光が進む道を照らしてくれるようになっていった大河内さん。「ガラス作家として活躍したい」という思いは、やがて別のかたちで、大河内さんの人生を動かしていくことになります。(第2回につづく)
写真=細田忠/文藝春秋
〈背骨にボルト7本、体には斑点と腫瘍が…難病のガラス作家・大河内愛美(31)がドレスをまとい“隠すことをやめた日”〉へ続く
(市川 はるひ)

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