偶然で片付けることのできない怪異を、人は「障り」や「祟り」と呼びます。怪談蒐集家の響洋平さんは、これまで15年以上にわたって怪談に携わり、さまざまな怪異体験談を蒐集してきました。そこで今回は、そんな響さんの著書『触れてはいけない障りの話』から抜粋し、お届けします。
【書影】語るたびに何かが起きてきた曰くつきの怪談「障り」を解禁!タブーへ挑む著者渾身の怪奇取材録。響洋平『触れてはいけない障りの話』
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大村さんという住職から聞いた話である。
千葉県で僧侶をしている温厚な男性だが、彼は20代の頃、その宗派でも特に厳しいとされる修行を経験していた。その界隈では有名な荒行である。
真冬の3ヶ月間、極寒の山中にある行堂にてその修行は行われる。朝3時から夜11時まで何度も水行を行い、喉を潰すほどの大声でひたすら読経を続ける。食事は朝夕2回、わずかな粥と副菜のみ。睡眠は2時間ほどしか取れない。酷烈を極める荒行だが、無事成満したあかつきには、その宗派でも特別とされる加持祈祷の資格を得ることができる。
大村さんは、かつてこの荒行を無事に終えた。
今ではその加持祈祷を請け負う僧侶として務めている。
そんな彼が荒行を終えて程なくした頃、ある事件があったという。
「本物の悪霊に取り憑かれた人というのを見たことがありますか? それはもう、壮絶なものですよ。厳しい荒行を終えて、もしかしたら自分に過信や驕りがあったのかもしれません。大抵の霊は祓えるだろうと思っていた自分は、きっとまだ若かったんでしょうね」
そう語る大村さんの表情は、自責と後悔の陰りを帯びていた。
当時、大村さんは20代後半。
千葉県某所の寺院で僧侶として務めていた頃、その依頼の電話があった。
「すみません。うちの親戚の叔母にあたる人なんですけどね。最近どうも様子がおかしいんですよ。歳も歳だし、旦那さんを亡くして精神的に参っていたのかなとも思ったんですけどね……。あれはそんな類のものじゃないですよ」
電話をしてきたのは、千葉県のある集落に住んでいる中年の男性だった。
彼の親族に、70歳を超えた老女がいるという。
数年前に夫を亡くし、今は一人暮らしをしているそうだ。夫が生きていた頃は、隣近所でも評判の仲の良い夫婦で、人当たりも良く社交的な人物だった。夫婦ともに猫が好きで、家には何匹も猫を飼っており、楽しそうに猫を溺愛する姿は周りから見ても微笑ましい様子だったという。
ところが――。夫が他界して程なくした頃、老女の様相は一変する。
「まるで人が変わったんです。目つきも顔つきも。あれは叔母ではない。別人です」
男性が言うには、老女は突然、周囲に対して険悪な態度を見せ始めた。温厚だった性格は嘘のように豹変し、近隣住人や親族に対して言葉を交わすことがなくなった。それどころか理由もなく悪態や暴言を吐くようになった。老女は家に引きこもるようになり、周囲がその姿を見ることも減ったという。
夫を亡くした精神的ダメージが大きかったのだろうか。男性はそう考えたりもしたが、葬儀の後しばらくは平穏な様子だったため、それが原因という訳でもなさそうだった。
ある日、男性が老女の家を訪れた時のこと。
老女が廃人のように廊下を歩きながら、ブツブツと何かを呟き始めた。
「死んだ主人が家の中にいる。ずっと出ていってくれないの」
「うちにはね、顔のない人がたくさんいるの。だからいつか私の顔もなくなるの」
その様子に、彼はただならぬ違和感を覚えた。
はじめは精神的な疲弊による症状だと思い、療養させながら時間が解決するのを待とうと軽く見ていた節があったのかもしれない。しかしその異常な言動には、そんな楽観的な考えを打ち砕くような重みがあった。事実、その後病院へ連れていってみたが、状態が快方に向かうことはなかったという。
「私もどうしたらいいのか、途方に暮れてしまいまして……。とにかく一度、叔母の所へ行って御祓いしてもらえませんか」
それが男性からの相談だった。
大村さんは荒行を経た後、何度も加持祈祷や除霊を行ってきた。
「いつもの儀式を粛々と進めればよいだけだと思っていましたからね。もちろんその除霊の依頼を引き受けたんですよ。ただその後、ちょっと良くない話を聞きましてね」
大村さんが除霊に行く日までの間のことである。
たまたま知人の僧侶に会う機会があり、この事案の話をすることがあった。
実はこんな依頼があって、近々その老女の元へ行くんだけど――と、大村さんがことの概要について話をすると、知人の僧侶は「もしかしてそれ、千葉県××町のSさんのこと?」と言い出した。老女の名前を言い当てた知人に対して大村さんが驚きを隠せないでいると、知人は「それは絶対にやめたほうがいい」と言った。
「これまでも何人かの僧侶が、そのお婆さんの除霊を試みたことがあるんだよ。もちろん皆、加持祈祷のプロだよ。修行も経て資格も持っている。ただ……」
ことごとく失敗している――。
それどころか除霊を試みた後、精神を病んだ者、不慮の事故に遭う者、極度の体調不良に苛まれる者が続出。知る人の間では、その老女Sさんの除霊については相当な人数と準備、覚悟を持って対応しなければならないという話だった。
「今考えたら、そこで一度お断りして、知人の僧侶に相談しておけば良かったんです」
大村さんに不安がなかった訳ではない。その老女の事態が重度であり、除霊が困難であることも理解していた。しかし、あの荒行――身命を賭して成就した修行を経て、大村さんの中に「自分なら、あの老女を救えることができるだろう」という思いがあったのも事実だった。
1週間後、除霊の当日。
大村さんは指定された住所――山間の集落にある老女が住む家の前に着いた。
その家は、集落から少し外れた山裾に建っている。近隣にいくつか住居があるが、静かで人影はない。町からも離れた場所で閑散としていた。
時刻は夕刻。本来なら依頼をしてきた男性も来る予定であり、彼の都合で夕方に最寄り駅で待ち合わせをするという話だったのだが、直前になり「急用があって行けない」と連絡があった。仕方なしに大村さんは、一人でその家まで辿り着いたという次第である。
現場に着いた大村さんは、その場に立ち尽くして息を呑んだ。
「これは一筋縄ではいかないな……」
その家の佇まいを目にした時、思わず大村さんはそう呟いた。
枯れ木に囲まれた敷地に立つ木造家屋。塀に囲われており、錆びついた門をくぐった先の敷地の中は、膝ほどの高さまで雑草が伸びていた。所々に茶色くなったゴミ袋や鉄屑が散乱している。とても人が住んでいるようには思えない様相だった。
時刻は昼から夜へと移ろいつつある。
薄暗い景色の中で、その家は異様な威圧感を放っていたという。
ガサガサと雑草を踏み分けて大村さんは玄関へと向かった。
呼び鈴は鳴らない。壊れているのだろう。
「すみません。御親族の方から御祈祷の依頼を受けて参りました、大村と申します」
返事はなかった。
「すみません。どなたかいらっしゃいますか」
何度か声を掛けた時である。玄関の奥から「どうぞ」と低い声がした。
大村さんは意を決して、玄関の扉を開けた。
「失礼します」
扉が軋む音がする。開いた扉の向こうは暗い。外から差し込む光の中に、霧のような埃が舞っている。
「うっ!」
凄まじい悪臭に鼻腔の奥を殴られたような衝撃を覚えた。
「これは、酷い……」
内臓を掻き回されるような吐き気に襲われ、大村さんは思わず口に手を当てた。
家の中は、床も見えないほどに大量のゴミで埋め尽くされている。蓄積されたゴミ袋やボロ切れの山が、廊下の奥まで続いていた。おそらく電気は止められているのだろう。廊下にある窓から淡い光が滲んでいるが、家の中は暗かった。
廊下の奥に、背を曲げた老婆が立っている。
顔は影になって見えないが、こちらをじっと見ている様子だった。
「御親族の方から御祈祷の依頼を受けて参りました。大村と申します」
大村さんがあらためて挨拶をすると、老婆はしゃがれた声で「ああ、そうですか」と言った。そして老婆はゆっくりと廊下の左側にある襖を指差し、
「それでしたら、主人の仏壇に御経でもあげてください」
と言った。
――この家には耐えられない。とにかく早く除霊して帰ろう。
大村さんは「失礼します」と言い、履き物を脱いで廊下へと上がった。
ブーンと大量の蝿が舞う音がした。足を動かすたびにガサガサとゴミ袋の音が響く。
ぐちゃ……、ぐちゃ……。と、足の裏に湿った柔らかい物体の感触があった。おそらく床には濡れた衣類か雑巾のようなものが散乱しているのだろう。
カサカサ……と、足元に大きな虫が這い回る音が聞こえた。
おそらく常人なら耐えられないだろう。大村さんは、荒行の時に比べれば――と自らを鼓舞し、気を確かに保ちながら歩みを進めた。
廊下を進むと、右側に食卓と台所が見えた。換気扇の隙間から、微かな光が差し込んでいる。調理台の上には湿った雑巾が乱雑に置かれていた。流し台には大量の汚れた食器が山積みになっており、ガスコンロには錆びついた寸胴鍋が置かれている。鍋の中には、何かの肉塊が溢れんばかりに入っていた。
大村さんは目を逸らし、反対側にある襖を開けた。
「とにかく、まともじゃないことはわかりました。何かが憑いている。それも一体や二体じゃありません。私ができることは御祈祷や除霊ですから、まずはそれをやり切ろうという一心でしたね」
仏間は6畳ほどの和室だった。暗くてよく見えないが、ここの床にも濡れたボロ切れのような雑巾が散乱している。足元に注意しながら部屋の奥へと進み、大村さんは仏壇の前に座った。
蝋燭に火を灯すと、ふっと淡い光が周囲を照らした。
仏壇を見ると、中央に位牌と遺影が置かれている。鈴と香炉があったが、それ以外に仏具はない。両脇には二つの高杯が置かれている。
――黒い『おはぎ』が二つ供えられていた。
いつ御供えしたものだろうか。仏壇には埃が積もっていた。おそらく長い間、手入れされていないと思われる。大村さんは、深呼吸をして除霊のための読経を始めた。不思議と読経に集中していると周囲の不快感が薄らいでゆき、ただひたすら仏間に反響する自分の声に集中することができた。
いつしか陽は落ちて、仏間には深い闇が訪れていた。
蝋燭の灯りだけが、唯一の命綱のように周囲を照らしている。
読経の節目に、ふと一呼吸置いた時だった。
「これは危ない……」
大村さんがその変化に気がついた時には、もう手遅れかもしれないという絶望感すら覚えたという。自分が唱えている御経は、厳しい荒行を経て習得したものだ。これまで何度も加持祈祷・除霊の経験がある。そうした作法に強い力があることも知っている。しかし、そんなことは関係なかった。
闇の中。
周囲を、何人もの人影が自分を取り囲んでいた。
顔は見えない。
暗いという理由ではない。
顔がないのだ。
『うちにはね、顔のない人がたくさんいるの。だからいつか私の顔もなくなるの』
依頼者から聞いた老婆の言葉を思い出した。
大村さんは精神力を振り絞り、気を張ってさらに大声で読経を続けた。経験上、ここで気持ちが負けてしまうと一気にやられてしまう――。それをわかっていた。
しばらくして、ふと視線を上げた時である。
「何だこれは?」
仏壇に供えられた二つのおはぎを見た時、その違和感に気がついた。
(写真提供:Photo AC)
おはぎの表面が、ぐねぐねとまるで生きているかのように動いている。
蝋燭の灯りでそう見えるのかと思ったが、どうも違う。ぶつぶつの小さな無数の黒い粒が、おはぎの表面にびっしりと張り付き、小刻みに動いている。
それは、何百とも知れない大量の蝿の群れだった。
そして動き回る群れの隙間から見えたもの。それは、おはぎではない。
――それは、切断された猫の首だった。
二つの腐敗した猫の頭が高杯の上に置かれており、その表面を大量の蝿が蠢いていた。
「うわっ!」
思わず声が漏れた。
空気が動き、蝋燭の炎が揺れる。
ブーン! と蝿が暴れ、黒い霧のように離散した。
ズズ……、と周囲の人影がこちらへ向けて距離を詰めてくるのがわかった。
大村さんは両手を後ろへ突き、座ったまま後退りした。
ドン! と背中に何かが当たった。
振り返ると、自分を見下ろす老婆が立っていた。
叫びそうになるのを堪え、大村さんは、
「あなた、何をお供えしているんですか」
と声を振り絞った。
老婆は嬉しそうに嗤っている。
「主人は、猫が好きですから。こうすると、主人は喜ぶんです」
老婆は嗤い続けた。
完全に取り憑かれている。
周囲の人影が、さらにこちらへと迫ってきた。
逃げようにも力が入らず、立ち上がれない。
後ろ手に床に着いた手を動かし、体勢を立て直そうとした時。
ぐちゃ……。
と、左手の下に濡れた柔らかい感触があった。
床に散らばっていた布切れだと思い、掴んでそれを目の前に持ってくると、それが剥ぎ取られた猫の毛皮であることに気がついた。血に塗れており、掴んだ指の隙間から液体が滴り落ちている。
来る時に見た台所の肉塊――。それが何かを想像して、凄まじい吐き気に襲われた。
老婆が顔を近づけてきた。
「主人は、猫が好きですから。喜ぶんですよ。だから、こうして御供えしているんです」
仏間の闇に、嗤い声が響いた。
大村さんは気がつくと、声の限り叫びながら家を飛び出していたという。
「その後、あの家がどうなったのかわかりません。少なくとも一人であの家を対処するのは無理です。もう私には、触れることはできません。今となっては、無事に御祓いされていることを祈るばかりです」
大村さんは、暗い表情でそう言った。
彼は今も千葉県で僧侶をしている。
その後、その家がどうなったのか、話を聞くことはなかった。
※本稿は、『触れてはいけない障りの話』(竹書房)の一部を再編集したものです。