多くの人間が行き交う駅はドラマの宝庫だ。
1935年には、電車に胴体を切断されながらも身の上話をはじめた女性の存在が、当時の新聞で報道されている。
この事件の詳細は、前編記事〈電車に下半身を潰されたのに「ねえ、タバコちょうだい」…そのまま5時間生きた荒川区の女性が懺悔「悲しい浮気癖」〉で解説している。
本稿では、ビッグターミナル・JR新宿駅が舞台となった「貰い子殺し」について、猟奇事件に造詣が深いライターの穂積昭雪氏が迫る。
日本で最も利用者の多い駅として知られるJR新宿駅。一日の列車本数は2000本以上、利用客は1日300万人を超えるとされている。
そんな新宿駅で世にも恐ろしい殺人事件が発覚したのは、昭和恐慌で日本経済が荒れはじめていた1930年(昭和5年)5月31日のことであった。
新宿駅は1885年(明治18年)の開業以来、増築が続き現在も「未完成」の状態であるという。事件の舞台となった1930年当時の新宿駅は俗に「三代目」と呼ばれる関東大震災後に建造された駅舎で、鉄筋コンクリート二階建ての近代的な建造物であった。
事件が起こったのは5月30日午後10時頃。20代後半と思われる女性が「ちょっと、そこまで行ってくるので預かっておいてくれ」と大型トランクひとつと石油箱ひとつを新宿駅のポーター(手荷物運搬係)に預けた。その際、彼女は「小石川区・内田よしえ」と書かれた紙きれを渡して立ち去った。
だが、待てど暮らせど「内田よしえ」は新宿駅に帰ってこなかった。
さらに預けた荷物からは何か腐敗臭のようなものが漂っていたため、怪しんだポーターは駅前派出所の警察官立ち合いのもと、荷物を開封してみることにした。
しかし次の瞬間、二人は言葉を失った。
トランクと箱の中には、産まれたばかりと思われる赤ん坊の死体が計7体も入っていたのである。腐敗臭の正体は赤ん坊の死体だったのだ。まさかの「預け物」に夜の新宿駅はパニックに陥った。
手がかりとして残っているのは、女性が残した「内田よしえ」というメモと、受け付けたポーターの記憶だけだった。ポーターによると「内田よしえ」は20代後半で黒地の羽織を着た上品な印象だったという。
警察関係者はすぐに赤ん坊の死体が「貰い子殺し」の被害者である、と直感した。「貰い子殺し」とは、何らかの事情で育てられなくなってしまった子どもを金銭と引き換えに業者が預かり、育てずに殺害してしまうという犯罪のことで、昭和初期には同様の犯罪が相次いで発生し大きな社会問題となっていた(最も有名な貰い子殺し事件に「西郷山公園事件」がある)。
その後、貰い子の新聞広告を見て、内田よしえなる女性に問い合わせた人物を警察が突き止め、内田よしえこと、中島しずおよび、しずの夫である中島伊八郎の2名を死体遺棄の疑いで逮捕した。
殺しの主犯である中島伊八郎は逮捕当時35歳の見た目は冴えない男性であったが、その半生には関係者も驚いた。なんと彼は警察署勤務の元巡査だったのだ。
中島は神田の旧制中学校を卒業した後、旧制の日本大学専門部で法律を学んでいた。当時の大学出身者はいわゆる「エリート階級」が多く、中島も当時は将来を期待された若者であったようだ。
卒業後は日本統治時代の朝鮮へ渡り警察署勤務をはじめたが、しばらくして辞職。中国を転々とした後、電気店などを開いていたという。妻のしずと知り合ったのもこの時期であるが、中島は浮気性で複数人の女性と関係を持っていたとされ、交際費などで家計は常に火の車だったようだ。
やがて、中島は生活苦から詐欺などを働くようになり、最終的には妻のしずと協力し「貰い子殺し」に手を染めてしまう。
中島夫婦が殺した子どもの数は不明だが、トランクおよび石油箱から出てきた赤ん坊に関しては偽名を使って有料で引き取り、次々に殺害していったようだ。おそらく警戒心を抱かれぬよう、引取時は柔和な笑顔で対応していたのだろう。
その後、中島伊八郎は殺人罪で起訴、妻のしずは証拠不十分で免訴となっている。
実はこの事件には後日談がある。
新宿駅西口から徒歩6分の常圓寺という寺に「淀橋七地蔵」と呼ばれる地蔵が建立されている。その名の通り七つの立派なお地蔵様が祀られているのだが、実はこの地蔵こそ中島伊八郎による貰い子殺しの被害者を供養するために建てられたものなのだ。
常圓寺の歴史などを記録した「福聚山史」(福聚山史編纂委員会編、2012年8月発行)には以下の記述がある。
〈淀橋七地蔵は、昭和の初め惨酷を極めた大久保町の貰子殺し夫婦の手により哀れな死を遂げた男女七児の霊を弔うため、当時の淀橋警察署長や同町長等が相談の上常円寺住職の及川真能師が施主となられて、昭和五年六月七日同寺に葬り「弔男女七児之墓」の墓標と「弔生年月日死亡年月日不明男女子之霊」と記された七本の卒塔婆を建てて懇ろに供養されました〉
事件が発覚して1週間後には警察関係者や地元の有力者、常円寺住職らが協力してこの「淀橋七地蔵」を建てたという。
淀橋七地蔵の標柱には7人の子ども達が仲良く遊ぶ様子が彫られており、わずかな金銭のため意味もなく殺されてしまった子どもたちの霊を今も祀っている。
「貰い子殺し」は当然、負の歴史ではあるが、その背景には昭和恐慌をはじめとする日本の不景気が黒い影を落としている。
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【さらに読む】〈親友の目の前で生きたまま右足を潰され、胴体も切断…21歳宝塚女優が味わった「13秒間の地獄」〉もあわせてお読みください。
【参考文献】
・読売新聞
・国民新報
・福聚山史(福聚山史編纂委員会編、2012年8月発行)
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