クマの出没や人身被害が急増する昨今。どうすれば危険を回避できるのだろうか。『日本クマ事件簿』『ドキュメント クマから逃げのびた人々』(ともに三才ブックス)の編集・執筆を手掛けた風来堂が、当事者や識者を取材して得た、クマの生態や命を守るためにできる知識を紹介する。取材・文=風来堂
クマに襲われそうになった際に、命を守るのが「クマ撃退スプレー」だ。唐辛子由来のカプサイシンが主成分であり、鼻や目に向けて噴射すれば、その強力な刺激でクマをその場から退かせる。
東北地方を中心にクマによる被害が過去最多ペースで関心が高まる一方で、日本にはクマ撃退スプレーの統一規格がなく、十分な性能を満たさない製品が流通しているとの指摘もある。つまり、クマ用をうたった“もどき”が出回っているのだ。関係者は「見極めを誤れば命に直結する」と警鐘を鳴らしている。
2025年8月、北海道・羅臼岳で登山者がクマに襲われて死亡した事故では、同行者が持っていたスプレーがヒグマに有効ではない商品だった可能性が高いことが明らかになった。なお、同行者は使用を試みたが噴射はできなかったという。
「日本では“クマ撃退スプレー”と名乗って販売しても罰則も基準もないのが現状です。そのため効果のない類似品や、ただの催涙スプレーをクマ用として売る業者も出てきてしまった。需要が高まるたびに、そうした商品が増えていった印象があります」と話すのは、1990年に、日本で初めて「クマ撃退スプレー」を輸入したアウトバックの藤村正樹さんだ。
クマ撃退スプレーとは、1986年に、世界で初めてアメリカで商品化された「カウンターアソールト」を指す。アメリカでは、環境保護庁(EPA)が正式に「クマ撃退スプレー」として登録した製品だけが、その名称で製造・販売を認められている。
さらに、EPAと、販売される各州の二つの登録番号を製品ラベルに明記することが義務づけられており、この番号がない製品は「クマ撃退スプレー」として販売することができない。
EPAの認可条件は、カプサイシン濃度1~2%、容量7.9オンス(224g)以上。いずれもアメリカのクマ研究者や専門家グループが長年の実験と検証を重ねて定めたものだ。
「噴射を受けると、目や鼻、のどなどの粘膜が強く刺激されて焼けつくような痛みが生じ、呼吸がしづらくなります。私も誤って自分にかけてしまったことがありますが、痛みと熱感で数時間は目を開けられませんでした。ただし、天然の唐辛子由来のカプサイシンは非殺傷性なので、時間が経てば回復します。この非殺傷性という点はとても重要で、クマ撃退スプレーはそもそも、“クマを殺さずに人を守る”ための手段として開発されたんです」(藤村さん)
日本にはまだ公的な認可制度がないため、EPAの基準が実質的な世界標準になっているというクマ撃退スプレー。しかし通販サイトなどでは、1本数千円台のものや“手のひらサイズ”の商品など、クマに対する効果が確認されていない製品がクマ撃退スプレーとして販売されているのが現状だ。
では、どうすれば効果が担保された製品を見分けられるのか。
もっとも確実な方法は、EPAの登録番号が記載されているかどうかを確認することだ。
北海道・知床では旅行者や登山者のために、「クマ撃退スプレー(カウンターアソールト)」のレンタルが行われている。
スプレーは航空機への機内持ち込みや預けることができないため、利用者にとってはありがたい仕組みだろう。
「レンタルを始めたのは約20年前。当時は国内でも珍しかったと思います」と話すのは知床財団の山本幸さん。貸し出し本数は、2024年度の490件に対し、2025年度は11月22日時点で543件に達している。なお、8月の事故以降、いまだすべての登山道は閉鎖中だ。
貸し出し本数が伸びるなか、実際に使用された報告は、直近10年で1件のみという。
「風向きや距離などの詳細な状況は不明ですが、至近距離で接近したクマに少量噴射し、退いたという内容でした」(山本さん)
知床半島は長さ約70km、幅約20km。この範囲に400~500頭ものヒグマが生息しているとみられ、一帯は世界有数の高密度なヒグマ生息地として知られている。ルートや季節にもよるが、1回の登山で1頭は目にすることも珍しくない。
ツキノワグマ同様、ヒグマは基本的に臆病であり、人間を襲うことは極めて稀だ。
「私の感覚では、出会ったからといって必ず突進してくるわけではありません。もともとそういう性質はもっていない。ただし、至近距離で鉢合わせた場合は別で、状況次第です」(山本さん)
ヒグマとの“軋轢”を生まないためには、そもそも至近距離で遭遇しないことが大前提。山本さんは「早く気づき、距離を取る、冷静に対処することが何より重要」と強調する。
理想は、クマ鈴をつける、手を叩く、笛を吹くなどして人間の存在を音で知らせ、「クマに避けてもらう」こと。しかし、ばったり遭遇してしまったら…。そんな時にクマ撃退スプレーは、心強い“最後の防御手段”となる。
クマに遭遇してしまったら、ゆっくり後ずさりしながらスプレーを準備する。使用できる距離は製品によって異なるが、クマ撃退スプレーの噴射距離の目安は約9.6m、有効射程距離は5~6mだ。そして安全装置を外し、有効射程距離に入ったら、クマの顔、とくに目と鼻の間を目がけて噴射する。
「動作そのものは単純ですが、実際の場面ではパニックに陥りやすい。レンタル時には空のスプレーをお渡しして、持ち方などを体験してもらいます。風向きも重要で、風下に立って使用しないように気を付けなければなりません」(山本さん)
巨大なヒグマが走って向かってくる場面で、冷静に構え、狙いを定めるには、事前の練習が必要不可欠であることは想像に難くない。
「スプレーは、EPAが認可した製品、もしくはそれに準ずる確かなものを選んでください」。藤村さんは強く訴える。
繰り返すが、日本にはまだ公的な認可制度がないため、性能の担保がない“もどき”が市場に紛れやすい。もし効かない製品が使われれば、命にかかわるだけでなく「本物の価値まで疑われる」ことを藤村さんは懸念する。だからこそ、EPA番号の確認と信頼できる販売ルートの選択が不可欠だ。
同時に、国や自治体がクマ撃退スプレーの基準を明確に定め、流通を規制する仕組みも急がれる。基準の空白が粗悪な選択肢を生み、現場の安全を損ないかねないからだ。適切な製品を安心して選べる環境を整えることは、人とクマとの距離を適切に保ち、双方を守るための現実的な安全対策となる。
風来堂(ふうらいどう)旅、歴史、アウトドア、サブカルチャーが得意ジャンルの編集プロダクション。『クマから逃げのびた人々』、『日本クマ事件簿』(以上、三才ブックス)など、クマに関する書籍の編集制作や、雑誌・webメディアへの寄稿・企画協力も多数。