「とぜん」の意味、分かる? 東北・九州に残る猜唇卒のことば瓠 屬箸犬Г鵑海澄廖屬箸爾鵑覆」も

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その方言を聞くと、今は亡き祖父が口にしていたことを思い出します。「とぜん」です。初めて聞く人もいるのでは? 意味は「寂しい」「退屈だ」。漢語の「徒然(とぜん)」に由来します。出身の東北内で使われているとばかり思っていました。ところが、新聞に載った読者の投稿を見てびっくり。思いがけない地域にもあったのです。(朝日新聞校閲センター・佐藤司)【画像】方言コスプレ、新方言、ネオ方言… 平成になって復権した理由とは?北と南で共有された「徒然」への驚き朝日新聞の投稿欄「声」に昨年、熊本の方言「とぜんなか」が載っていました。「娘さんがお嫁に行ってしまって、とぜんなかね」。こんな一例を挙げた投稿者(掲載時60代)は、古文の授業で「徒然草」を学んだとき、「とぜんなか」の「とぜん」は漢字で「徒然」と書くと教わったそうです。人がいなくなって寂しいときに使いますが、とても好きだったとありました。

この「とぜんなか」に対し、東北ゆかりの読者から投稿が寄せられました。まずは生活面の投稿欄「ひととき」(大阪本社版)に載った「秋田弁の『徒然』」から。投稿者(掲載時70代)は、秋田で通った高校の古文の授業を思い出したそうです。「徒然」に由来する地元の方言「とじぇね」について、先生がこう話しました。「京都でも使われていない言葉が秋田でまだ生きている。奇跡だ」次は「声」欄の「岩手で聞いた『とじぇんこだ』」。投稿者(掲載時50代)は中学生のとき、国語の先生から暇なことや手持ちぶさたを「とじぇんこだ(徒然こだ)」と言うのを聞いたそうです。この「徒然」が日本の北と南で共有されていたのが新鮮な驚きだったと言います。熊本出身の投稿者も東北ゆかりの投稿者も、学校の授業で古文に登場することばが方言に残っていることを学んだようです。「とじぇね」「とぜんだ」「とぜんなか」宮城出身の私(50代)も中学生のとき、「徒然草」の「徒然」を音読みにした「とぜん」が、地元で使われていると教わりました。祖父が話し相手もいない退屈なときに「とぜんだなー」とつぶやいていました。ほかの地域にも「とぜん」に似た方言があるかもしれません。全国の方言を都道府県別に収録した複数の辞典を数冊めくってみました。<東北では「とじぇね」(秋田)、「とじぇんこだ」(岩手)、「とぜんだ」(宮城)。 九州では「とぜなか」(福岡)、「とじぇんなか」(佐賀)、「とぜんなか」(熊本)、「とぜんね」(宮崎・鹿児島)。>いずれも意味は「寂しい」「退屈だ」です。生き残った「とぜん」 いつかは消えてしまう?なぜ遠く離れた東北と九州の両地域で使われているのでしょうか。次に手に取った「県別 方言感情表現辞典」に手がかりがありました。「寂しい」を各地で何と表現するのかを示した分布図です。関東・甲信越から中国・四国にかけては、主に「さびしい」類と「さみしい」類が分布。この周縁に東北と九州の「とぜん」類の方言があります。この方言の分布について、辞典の編者の一人、真田信治・大阪大名誉教授(社会言語学)は「まさに方言周圏論のモデルとも言えるでしょう」と話します。方言周圏論とは民俗学者の柳田国男が唱えた説です。柳田が戦前に著した「蝸牛考(かぎゅうこう)」で、カタツムリを何と呼ぶかについて、各地の方言を分類して解説しています。東北北部と九州西部でナメクジ類、東北と九州の一部でツブリ類、関東や四国などでカタツムリ類、中部や中国などでマイマイ類、近畿ではデデムシ類という国内の分布状況を明らかにしました。ことばが文化の中心地・京都を軸に同心円状に広がっていく場合、遠く離れた地域ほど古語が残る考え方ができます。これが方言周圏論です。日本国語大辞典をみると、「徒然」は平安時代の漢詩文や日記の文章のほかに辞書にも登場し、「とぜん」と読んでいたことがわかります。時代が下って室町時代以降になると、真田さんは「話し言葉としても『とぜん』が使われるようになったようです」と話します。この「とぜん」が広まり、今の東北と九州に方言として残っていると考えています。京都から伝わってきたと考えられる「とぜん」類の方言は、時空を超えて生き続けてきたのは奇跡かもしれません。しかし、国立国語研究所名誉所員の佐藤亮一さんが著した「滅びゆく日本の方言」によると、「かたつむりの方言は大部分が消滅し、デンデンムシとカタツムリのみが生き残っている」と指摘します。そうすると「とぜん」類の方言もいずれは消えていくのでしょうか。土俵際に追い込まれても、何とか残っていてほしいです。「つれづれ」と「とぜん」方言「とぜん」の漢字を「徒然」と紹介しました。この漢字で思い浮かべるのが、古文でおなじみの「徒然草」。「つれづれなるままに」の書き出しでよく知られる鎌倉期の随筆です。「つれづれ」は「手持ちぶさたで所在ないさま」を表します。「とぜん」の意味は「寂しい」「退屈だ」。どちらも意味が似ています。「つれづれ」と「とぜん」の関係は? 平安末期の辞書「色葉字類抄(いろはじるいしょう)」にありました。「徒然」の読み方に「つれづれ」と「とぜん」を既に示しています。「つれづれ」が和語で、「とぜん」が漢語です。九州大学大学院の川平敏文教授(国文学)の著書によると、「とぜん」は元々「むなしい」という意味でした。それが平安中期ごろから「することがなくて、つまらない」意味でも使われるようになったと指摘。「つれづれ」と「とぜん」は「本来まったく別の言葉であったが、意味が似ている部分があるので合体した」と説明します。
その方言を聞くと、今は亡き祖父が口にしていたことを思い出します。「とぜん」です。初めて聞く人もいるのでは? 意味は「寂しい」「退屈だ」。漢語の「徒然(とぜん)」に由来します。出身の東北内で使われているとばかり思っていました。ところが、新聞に載った読者の投稿を見てびっくり。思いがけない地域にもあったのです。(朝日新聞校閲センター・佐藤司)
【画像】方言コスプレ、新方言、ネオ方言… 平成になって復権した理由とは?北と南で共有された「徒然」への驚き朝日新聞の投稿欄「声」に昨年、熊本の方言「とぜんなか」が載っていました。「娘さんがお嫁に行ってしまって、とぜんなかね」。こんな一例を挙げた投稿者(掲載時60代)は、古文の授業で「徒然草」を学んだとき、「とぜんなか」の「とぜん」は漢字で「徒然」と書くと教わったそうです。人がいなくなって寂しいときに使いますが、とても好きだったとありました。

この「とぜんなか」に対し、東北ゆかりの読者から投稿が寄せられました。まずは生活面の投稿欄「ひととき」(大阪本社版)に載った「秋田弁の『徒然』」から。投稿者(掲載時70代)は、秋田で通った高校の古文の授業を思い出したそうです。「徒然」に由来する地元の方言「とじぇね」について、先生がこう話しました。「京都でも使われていない言葉が秋田でまだ生きている。奇跡だ」次は「声」欄の「岩手で聞いた『とじぇんこだ』」。投稿者(掲載時50代)は中学生のとき、国語の先生から暇なことや手持ちぶさたを「とじぇんこだ(徒然こだ)」と言うのを聞いたそうです。この「徒然」が日本の北と南で共有されていたのが新鮮な驚きだったと言います。熊本出身の投稿者も東北ゆかりの投稿者も、学校の授業で古文に登場することばが方言に残っていることを学んだようです。「とじぇね」「とぜんだ」「とぜんなか」宮城出身の私(50代)も中学生のとき、「徒然草」の「徒然」を音読みにした「とぜん」が、地元で使われていると教わりました。祖父が話し相手もいない退屈なときに「とぜんだなー」とつぶやいていました。ほかの地域にも「とぜん」に似た方言があるかもしれません。全国の方言を都道府県別に収録した複数の辞典を数冊めくってみました。<東北では「とじぇね」(秋田)、「とじぇんこだ」(岩手)、「とぜんだ」(宮城)。 九州では「とぜなか」(福岡)、「とじぇんなか」(佐賀)、「とぜんなか」(熊本)、「とぜんね」(宮崎・鹿児島)。>いずれも意味は「寂しい」「退屈だ」です。生き残った「とぜん」 いつかは消えてしまう?なぜ遠く離れた東北と九州の両地域で使われているのでしょうか。次に手に取った「県別 方言感情表現辞典」に手がかりがありました。「寂しい」を各地で何と表現するのかを示した分布図です。関東・甲信越から中国・四国にかけては、主に「さびしい」類と「さみしい」類が分布。この周縁に東北と九州の「とぜん」類の方言があります。この方言の分布について、辞典の編者の一人、真田信治・大阪大名誉教授(社会言語学)は「まさに方言周圏論のモデルとも言えるでしょう」と話します。方言周圏論とは民俗学者の柳田国男が唱えた説です。柳田が戦前に著した「蝸牛考(かぎゅうこう)」で、カタツムリを何と呼ぶかについて、各地の方言を分類して解説しています。東北北部と九州西部でナメクジ類、東北と九州の一部でツブリ類、関東や四国などでカタツムリ類、中部や中国などでマイマイ類、近畿ではデデムシ類という国内の分布状況を明らかにしました。ことばが文化の中心地・京都を軸に同心円状に広がっていく場合、遠く離れた地域ほど古語が残る考え方ができます。これが方言周圏論です。日本国語大辞典をみると、「徒然」は平安時代の漢詩文や日記の文章のほかに辞書にも登場し、「とぜん」と読んでいたことがわかります。時代が下って室町時代以降になると、真田さんは「話し言葉としても『とぜん』が使われるようになったようです」と話します。この「とぜん」が広まり、今の東北と九州に方言として残っていると考えています。京都から伝わってきたと考えられる「とぜん」類の方言は、時空を超えて生き続けてきたのは奇跡かもしれません。しかし、国立国語研究所名誉所員の佐藤亮一さんが著した「滅びゆく日本の方言」によると、「かたつむりの方言は大部分が消滅し、デンデンムシとカタツムリのみが生き残っている」と指摘します。そうすると「とぜん」類の方言もいずれは消えていくのでしょうか。土俵際に追い込まれても、何とか残っていてほしいです。「つれづれ」と「とぜん」方言「とぜん」の漢字を「徒然」と紹介しました。この漢字で思い浮かべるのが、古文でおなじみの「徒然草」。「つれづれなるままに」の書き出しでよく知られる鎌倉期の随筆です。「つれづれ」は「手持ちぶさたで所在ないさま」を表します。「とぜん」の意味は「寂しい」「退屈だ」。どちらも意味が似ています。「つれづれ」と「とぜん」の関係は? 平安末期の辞書「色葉字類抄(いろはじるいしょう)」にありました。「徒然」の読み方に「つれづれ」と「とぜん」を既に示しています。「つれづれ」が和語で、「とぜん」が漢語です。九州大学大学院の川平敏文教授(国文学)の著書によると、「とぜん」は元々「むなしい」という意味でした。それが平安中期ごろから「することがなくて、つまらない」意味でも使われるようになったと指摘。「つれづれ」と「とぜん」は「本来まったく別の言葉であったが、意味が似ている部分があるので合体した」と説明します。
北と南で共有された「徒然」への驚き朝日新聞の投稿欄「声」に昨年、熊本の方言「とぜんなか」が載っていました。「娘さんがお嫁に行ってしまって、とぜんなかね」。こんな一例を挙げた投稿者(掲載時60代)は、古文の授業で「徒然草」を学んだとき、「とぜんなか」の「とぜん」は漢字で「徒然」と書くと教わったそうです。人がいなくなって寂しいときに使いますが、とても好きだったとありました。
この「とぜんなか」に対し、東北ゆかりの読者から投稿が寄せられました。
まずは生活面の投稿欄「ひととき」(大阪本社版)に載った「秋田弁の『徒然』」から。投稿者(掲載時70代)は、秋田で通った高校の古文の授業を思い出したそうです。「徒然」に由来する地元の方言「とじぇね」について、先生がこう話しました。「京都でも使われていない言葉が秋田でまだ生きている。奇跡だ」
次は「声」欄の「岩手で聞いた『とじぇんこだ』」。
投稿者(掲載時50代)は中学生のとき、国語の先生から暇なことや手持ちぶさたを「とじぇんこだ(徒然こだ)」と言うのを聞いたそうです。この「徒然」が日本の北と南で共有されていたのが新鮮な驚きだったと言います。
熊本出身の投稿者も東北ゆかりの投稿者も、学校の授業で古文に登場することばが方言に残っていることを学んだようです。
「とじぇね」「とぜんだ」「とぜんなか」宮城出身の私(50代)も中学生のとき、「徒然草」の「徒然」を音読みにした「とぜん」が、地元で使われていると教わりました。
祖父が話し相手もいない退屈なときに「とぜんだなー」とつぶやいていました。
ほかの地域にも「とぜん」に似た方言があるかもしれません。全国の方言を都道府県別に収録した複数の辞典を数冊めくってみました。
<東北では「とじぇね」(秋田)、「とじぇんこだ」(岩手)、「とぜんだ」(宮城)。 九州では「とぜなか」(福岡)、「とじぇんなか」(佐賀)、「とぜんなか」(熊本)、「とぜんね」(宮崎・鹿児島)。>
いずれも意味は「寂しい」「退屈だ」です。
生き残った「とぜん」 いつかは消えてしまう?なぜ遠く離れた東北と九州の両地域で使われているのでしょうか。次に手に取った「県別 方言感情表現辞典」に手がかりがありました。「寂しい」を各地で何と表現するのかを示した分布図です。
関東・甲信越から中国・四国にかけては、主に「さびしい」類と「さみしい」類が分布。この周縁に東北と九州の「とぜん」類の方言があります。
この方言の分布について、辞典の編者の一人、真田信治・大阪大名誉教授(社会言語学)は「まさに方言周圏論のモデルとも言えるでしょう」と話します。方言周圏論とは民俗学者の柳田国男が唱えた説です。
柳田が戦前に著した「蝸牛考(かぎゅうこう)」で、カタツムリを何と呼ぶかについて、各地の方言を分類して解説しています。東北北部と九州西部でナメクジ類、東北と九州の一部でツブリ類、関東や四国などでカタツムリ類、中部や中国などでマイマイ類、近畿ではデデムシ類という国内の分布状況を明らかにしました。
ことばが文化の中心地・京都を軸に同心円状に広がっていく場合、遠く離れた地域ほど古語が残る考え方ができます。これが方言周圏論です。
日本国語大辞典をみると、「徒然」は平安時代の漢詩文や日記の文章のほかに辞書にも登場し、「とぜん」と読んでいたことがわかります。
時代が下って室町時代以降になると、真田さんは「話し言葉としても『とぜん』が使われるようになったようです」と話します。この「とぜん」が広まり、今の東北と九州に方言として残っていると考えています。
京都から伝わってきたと考えられる「とぜん」類の方言は、時空を超えて生き続けてきたのは奇跡かもしれません。
しかし、国立国語研究所名誉所員の佐藤亮一さんが著した「滅びゆく日本の方言」によると、「かたつむりの方言は大部分が消滅し、デンデンムシとカタツムリのみが生き残っている」と指摘します。
そうすると「とぜん」類の方言もいずれは消えていくのでしょうか。土俵際に追い込まれても、何とか残っていてほしいです。
「つれづれ」と「とぜん」方言「とぜん」の漢字を「徒然」と紹介しました。この漢字で思い浮かべるのが、古文でおなじみの「徒然草」。「つれづれなるままに」の書き出しでよく知られる鎌倉期の随筆です。「つれづれ」は「手持ちぶさたで所在ないさま」を表します。「とぜん」の意味は「寂しい」「退屈だ」。どちらも意味が似ています。
「つれづれ」と「とぜん」の関係は? 平安末期の辞書「色葉字類抄(いろはじるいしょう)」にありました。「徒然」の読み方に「つれづれ」と「とぜん」を既に示しています。「つれづれ」が和語で、「とぜん」が漢語です。

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