広島・京都の修学旅行の引率から帰宅→心肺停止に…「精神的にも肉体的にも強い人」だった男性教師(40)に同僚が発した「驚きの一言」

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近年、教員の労働環境がクローズアップされることが増えてきた。過労死ラインを大幅に超えて働くといった長時間労働にとどまらず、学校内のいじめやモンスターペアレンツの対応といった精神的にも負担の大きい業務などによって、うつ病をはじめとする精神疾患で休職を余儀なくされたり、過労死に追い込まれる事案が頻繁にニュースで報じられるようになった。
【画像】修学旅行の引率から帰宅→心肺停止に…義男さんは亡くなった当時40歳で、2人の子供はまだ小中学生だった
今回は、横浜市の公立中学校で保健体育の教員として働き、遺族の計算では1ヶ月に最長で144時間もの時間外労働の結果亡くなった工藤義男さん(当時40)のケースをみながら、真の「教員の働き方改革」について考えたい。(全2回の1回目/後編に続く)
写真はイメージ beauty_box/イメージマート
◆ ◆ ◆
「神奈川過労死等を考える家族の会」代表の工藤祥子さんが横浜市立中学校の教員であった夫・義男さんを過労死で亡くしたのは2007年。義男さんは当時40歳で、二人の子供はまだ小中学生だった。
義男さんは1990年に横浜市の中学の保健体育の教員として働き始めた。大学時代はアメリカンフットボールの選手として活躍し、卒業後も1年間、社会人チームでプレーするほど、祥子さんいわく「精神的にも肉体的にも強い人」だった。中学校教員になるという夢を追いかけて倍率約20倍の試験に合格したのち、横浜市の中学校で生徒指導を担った。祥子さんによれば、熱血な先生として、同僚からも、生徒からも慕われていたという。

ただ、仕事そのものはかなり負担の大きいものであった。第3学年の学年主任だけでなく生徒指導専任も兼任し、不登校やいわゆる問題生徒の対応を任されるだけでなく、これまでプレーしたこともなかったサッカーの部活指導の担当となり、朝練から放課後練習まで指導することで、毎朝7時30分から早くても19時まで学校で仕事に追われていたという。さらに、生徒指導の保護者面談は20時から始まることも珍しくなく、生徒指導などで真夜中まで帰宅できないこともしばしばあったという。休日も部活動の指導で埋まり、端的にいって「激務」であった。
2007年4月に新たな中学校に転勤となってからは、引き続き生徒指導専任やサッカー部の顧問などを担当し、慢性的な長時間労働の状態は変わらなかった。赴任直後から、生徒、保護者対応などが頻発し、それらへの対応に義男さんは奔走していた。
その結果、当時の校長も「工藤先生が着任し、生徒指導専任教諭を担当されてすぐに生徒が良い方向に変化してきたことを感じました(他の多くの教職員も同じ評価でした) 」と述べるなど義男さんの仕事ぶりは上司や同僚だけでなく生徒からも評価されていたことがうかがえるが、家では4月半ばから徐々に元気がなくなり、「仕事と責任を引き受け過ぎたようだ。忙しくてどこから手をつけてよいか分からない」と祥子さんに話すなど、身体的、精神的な負担は限界に近い状態になっていたようだ。しかも、家でも授業準備や資料作成などの仕事を行い、祥子さん曰く「午前3時就寝目標と言っていたこともあった」という。
亡くなる2週間前には広島と京都への修学旅行の引率に行き、夜中まで生徒指導や巡回などを行い、睡眠時間は1日わずか1時間半。修学旅行から帰宅後は体調不良が続き、病院で診てもらおうと医者に行ったが、その病院の待合室で倒れて心肺停止となり、2007年6月25日、くも膜下出血で帰らぬ人となった。

自分の足で病院に向かう直前まで自宅で普通に会話していたことから「まさか倒れるとは思わなかった」(祥子さん)とあまりに突然の出来事だった。亡くなる前年の健康診断や脳ドックの検査では異常はなく、「なんで亡くなったのか、原因をとにかく知りたいという思いが強かった」と祥子さんは話す。そのような状況のなか、葬儀の際に義男さんの生徒から「自分たちのせいで疲れさせてしまって申し訳ない」と言われたことがショッキングで印象に残ったという。
実は祥子さん自身、義男さんと同じ大学の教育学部出身だが、教育学部では労働法も過労死についても勉強したことはなく、義男さんが倒れるまでニュースでそのようなことを見た記憶もなかった。これまで過労死がどういうものかイメージも特になかったという。そのため、たしかに義男さんが夜中まで働いていたのをみていたものの、すぐに「過労死だ」とは思わなかった。
教え子が言うほど疲れている様子だったのであれば、「仕事が原因かもしれない」とそこから徐々に思い始めた祥子さんの元を義男さんと仲の良かった前任校の先生が訪問し、そこで「過労以外考えられない」「公務災害を申請したらどうか」と告げられ、公務災害(教員を含めた地方公務員のための労働災害制度)を申請することに決めた。祥子さんいわく、「もし元同僚の先生が言ってくれなかったら、公務災害の申請は絶対にできなかった」。
公務災害の申請を決めた祥子さんは、義男さんが亡くなる前の過労状態を示すために、前任校の同僚の先生が中心となって呼びかけた結果、亡くなった際に勤務していた学校の先生も協力してくれ、勤務実態の記録や予定表を入手することができた。当時は、明らかに過労なのだから、元同僚の教員を含めて自分たちで申請書を作れば絶対に認定されるだろう、わざわざ弁護士など専門家に相談するまでもないだろうと考えていたという。毎晩午前2時まで自宅でパソコン作業しているのをみていた祥子さんからすれば、そう思うのは当然だろう。
しかし、結果以前に、そもそも申請自体困難を極めていた。民間企業で働く人であれば「とりあえずなにかあったら労働基準監督署に行こう」と思うかもしれないが、教員の過労死の認定を受けるための「公務災害申請をそもそもどこにすればいいのか知らなかった」(祥子さん)という。同じような状況に置かれている地方公務員やその家族は少なくないだろう。
実は、公務災害は地方公務員災害補償基金という各都道府県に設けられた団体に申請することになる。ただし、労災の場合であれば書類を労働者もしくは遺族が提出することができるが、教員の公務災害の場合は、所属長(学校長)と任命権者(教育委員会)を通じて行うこととなっている。過労死の場合、遺族が校長に書類を提出し、校長が教育委員会に書類をまわし、その上で教育委員会が地方公務員災害補償基金に提出して初めて申請となる。
しかし、ここには大きな問題がある。校長とは上司であり、その学校の労務管理の責任者である。また教育委員会は採用決定などの人事権を持ち、教員に給料を支払う文字通り「経営者」である。つまり、以下の図をみていただければ一目瞭然だが、民間の場合は遺族が会社の意向とは関係なく直接労災申請できるのに対して、公務災害の制度上は「上司」と「経営者」が同意しなければ、申請書類を地方公務員災害補償基金に提出することが原則できないことになっている(ただし、「校長等(所属部局の長)において災害の発生状況等の把握が困難であり、認定請求書等の記載内容について証明できない箇所がある場合は、当該箇所が証明困難である旨を記載して提出できます」とされている。(東京都公立学校における公務災害・労働災害請求の流れ[東京都教育委員会任用教職員の場合]より)しかしその場合でもその後のやり取りは学校長を通じて行うため、結局「上司」を通じて公務災害の手続きを行うことになる)。

これがいかに問題含みかは少し考えてみてもわかるだろう。もし校長がパワハラをしておりそのパワハラ被害者の教員が亡くなった場合、校長が公務災害の申請に同意するだろうか?「働き方改革」で成果を出すことが求められている教育委員会が、積極的に公務災害の申請を認めるだろうか? むしろ、公務災害の申請を拒否して実態をもみ消すモメントのほうが圧倒的に強くなると考えるほうが自然だろう。
実際、校長によるパワハラが原因で自死に至ったケースは珍しくない。秋田県仙北市立生保内中学校の男性職員が2019年7月に自死した件では、同校の校長による自死した男性職員を含めた複数の教職員に大声で怒鳴るなどのパワハラがあり、それが自死に影響があったと認定されている。このケースは申請書類が提出され公務災害と認定されているが、報道もされずに埋もれているケースは枚挙にいとまがないだろう。
(校長パワハラ、中学校の40代職員自殺 公務災害に認定 https://www.digital.asahi.com/articles/ASNDK1SSLNDJULUC00M.html)
工藤さんのケースでは、上司である学校長は、周囲からのプレッシャーもあってか、書類の提出に協力し無事書類は申請となった。しかし、「もし隠蔽体質の校長や教育委員会にあたってしまったら終わり」と祥子さんは話す。公務災害は労災と同様に本来無過失責任であるため、認定されたからと言って直ちに上司に責任があるとはならないが、それでも認定を受けて責任を問われることを避けるために最初から協力を拒否する校長がいても不思議ではない。
実際に祥子さんの周りでも少なくとも5人の教員が亡くなっており、過労が原因だと考えられるものの、公務災害の申請に至ったのは祥子さん一人だったという。祥子さんは妹尾昌俊氏との共著『先生を、死なせない。(教師の過労死を繰り返さないために、今、できること)』(教育開発研究所、2022年)で、「私の周りには、申請すらできなかった先生がたくさんいらっしゃいます。しかも、そのご遺族は申請をしてもらえなかっただけでなく、一緒に働いていた所属長、同僚から一切味方もしてもらえず、逆に悪者のように扱われるという許し難い状況をたくさん見てきました」(p81)と述べている。
文部科学省の「2022年度教員勤務実態調査」によれば、過労死ラインを超えて働く公立中学校教員は全体の36.6%、小学校教員は14.2%と、教員の間で長時間労働が蔓延していることがわかる(https://news.ntv.co.jp/category/society/bcd16bdba937413f830ba40905c37603)。過労死裁判も全国で起こっており、富山県滑川市の中学校教員が過労死した件では、市や県に対して約8300万円を遺族に支払うよう命じた判決がくだされている。
文部科学省「学校教員統計調査」によれば、2009年度は557人が、2021年度は329人の教員が雇用期間中に亡くなっている。もちろん、ここには病死や事故死など勤務とは無関係のケースも含まれるため、これらすべてが過労死や勤務に原因があるとは言えないが、過労死に関わるケースは一定数存在すると考えられる。
にもかかわらず、脳・心臓疾患を原因とした公立の小中学校教員の労災(公務災害)申請件数は、2022年度は11件(認定は5件)、2023年度は7件(認定は7件)と極端に少ない(地方公務員災害補償基金「令和5年度過労死等の公務災害補償状況について」)。なぜこれほどにまで申請件数が少ないのだろうか。その背景には、公務災害と呼ばれる、民間企業で働く労働者向けの労災制度とは別に設けられた公務員のための労災制度の特殊性に加えて、公立学校で働く教員が公務災害を申請する際には、学校長と教育委員会といういわば「上司」と「経営者」の承認を得なければそもそも申請ができないという二重の制度的ハードルの存在がある。
〈「二度目の死刑宣告を受けたようでショックだった…」“過労死ライン”を超えた男性教師(40)の死は「公務外」“冷酷な対応”が起きたワケ〉へ続く
(今野 晴貴)

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