どだい廃線や廃駅というモノは、ほとんど人が暮らしていないような地方のローカル線で発生すると相場が決まっている。
【写真多数】雑草だらけの空き地に痕跡が…名鉄“幻のターミナル駅”「堀川」の跡地を写真で一気に見る
地方では鉄道を使って通勤する人など滅多におらず、事実上通学の学生専用列車と化す。で、卒業すれば地元を出てしまうか、とっとと免許を取得してマイカーを駆るか。そして肝心の人口もどんどん減っているから、ますます駅も列車も閑古鳥。そうして廃線や廃駅が生まれるのである。
だから、裏を返せば誰もが電車で通勤しているような大都市では、廃線・廃駅などは滅多に生まれない。ごく一部の特殊な例を除いては……。
そんな特殊な例のひとつが、かつて名古屋市のど真ん中にあった堀川駅である。
名鉄“幻のターミナル駅”「堀川」には何があったのか? Gengorou/イメージマート
堀川駅があったのは名古屋市中区三の丸だ。
すぐ南に外堀通りが東西に走り、北には県立図書館や愛知県庁舎、県警本部などの官公庁街。外堀通りを挟んだ南側は「丸の内」と呼ばれる名古屋屈指のオフィス街。
西には堀川という小さな川が南北に流れ、渡った先には四間道という古い町並やアーケードの架かる円頓寺商店街などがある下町だ。
つまり堀川駅は名古屋という230万都市のど真ん中、その心臓部にありながら、ひっそりと地図から消え去った駅なのだ。まるで、幻のターミナル。いったい、どんな駅だったのか。
まずはその跡地を訪れてみることにしよう。
名古屋のど真ん中にあった堀川駅なのだから、名古屋駅からも遠くない。歩く……のはさすがにムリがあるが、名古屋駅から地下鉄桜通線に乗ってふたつ目の丸の内駅で下車。
伏見通を北に向かって歩き、頭上に名古屋高速の高架が横たわる外堀通りを渡ったら、左に曲がって外堀沿いを進んでゆく。
丸の内駅から歩くこと10分ほどで、堀川駅跡だ。
官公庁街とオフィス街に挟まれた一角だから、繁華街のように人通りが絶えないような町とは少し違う。それでもクルマ通りが絶えることはなく、周囲を見渡せばビルまたビル。そういう一等地の中の一等地に、堀川駅があったのだ。
しかし、その駅が置かれていたとされる場所は、すっかり何もかもが消え失せている。1976年に廃止されてから半世紀近く経ったのだからムリもなかろうが、そこにあるのはフェンスやチェーンで区切られただだ広い空き地と、小さな公園だけだ。
まるで大都会の中にふっと現れたエアポケットのようなその一角。何も知らずに連れてこられたら、ここに駅があったなど誰が想像できようか。
それでも、端っこに小さな説明書きが立っていた。「名鉄瀬戸線終点旧堀川駅」とある。
堀川駅は名鉄瀬戸線の消えた終着駅だったのだ。
名鉄瀬戸線は、栄町駅と尾張瀬戸駅を結ぶ名古屋鉄道の郊外路線だ。
栄町駅はその名の通り名古屋最大の繁華街で知られる栄のターミナル。尾張瀬戸駅は名古屋近郊、「せともの」の由来でも知られる陶磁器の町だ。
かつて、瀬戸線は栄町駅ではなく堀川駅を名古屋方のターミナルにしていたことがある、というわけだ。
さらに説明書きを読み進めると、瀬戸線はその昔、外堀通りに沿っている名古屋城の外堀の中を電車が走っていたという。
堀川駅跡の空き地の奥を眺めると、確かにいかにもお城らしい石垣が両脇に屹立している。
人呼んで、“瀬戸電のお堀電車”。なんとも牧歌的な響きだが、往時この駅は実に大きな役割を持っていたという。
そもそも名鉄瀬戸線は、瀬戸の窯業者によって設立、建設された鉄道だった。
古代から始まっていた瀬戸の窯業は、江戸時代後期に尾張藩の保護もあって再興。明治に入ってからはヨーロッパでの万博に出品するなど、海外に販路を求めていた。
だから、名古屋の中心部、また輸出拠点となる港湾部との輸送ルートの確保は焦眉の課題。
そこで自ら瀬戸自動鉄道(のち瀬戸電気鉄道)を設立し、外堀の中に線路を敷いて大正初期に堀川駅まで開業させたのである。
なぜ外堀の中などという、一風変わったところに線路を敷いたのか。それは堀川駅の西を流れる堀川の水運と連絡するためだ。
いくら名古屋の都心に乗り入れたところで、それが栄であってはあまり意味がない。まだまだ都市部でも水路を用いた水運が盛んだったその時代、堀川の水運との連絡はいちばんの優先事項だった。
瀬戸の町で作られた陶磁器は瀬戸電気鉄道の電車に乗って堀川駅まで運ばれて、船に積み替えて堀川を下って名古屋の港まで。
大正時代、瀬戸電気鉄道の貨物輸送のうち8割までが窯業関係だったという。
ただ、いくら当時が文化財保護など一顧だにされない時代であっても、外堀の中に電車を走らせるには苦労もあったようだ。何しろ外堀の北側は陸軍の管理地だった。だから軍部との折衝を重ねることになった。
陸軍が“お堀電車”を許可したのは、沿線の守山に歩兵連隊が置かれていたことと関係しているのかもしれない。
ともあれ、開業したお堀電車は八面六臂の活躍で製品や原材料を運び、瀬戸の窯業の隆盛に貢献した。
瀬戸という都市が陶磁器の都市として押しも押されもせぬ地位を築いた背景には、お堀電車と堀川駅というターミナルの存在が欠かせなかったといっていい。堀川駅は、“せともののターミナル”だったのである。
さらに堀川駅の近くに路面電車の停留場ができると、交通結節点としての役割も持つようになる。
堀川を渡った西側には旧美濃路、古い蔵造りが残る四間道や円頓寺の商業地が発達してゆく。大正から昭和にかけての堀川駅は、紛うことなき名古屋の町のターミナルだった。
しかし、戦後になって水運が衰退して陸運、それもトラック輸送が中心になってくると、お堀電車の貨物輸送は廃れていった。
路面電車も廃止されれば、交通結節点としての存在感も失われる。この間、栄などを中心とする名古屋の中心繁華街は焼け野原からの復活を遂げた。
そうなれば、繁華街から離れて貨物も運ばなくなったお堀電車と堀川駅は、ただ不便なだけの駅になってしまったのである。
そうして1976年には瀬戸線が繁華街のど真ん中、栄まで乗り入れるための工事がはじまった。新たに建設される地下線と入れ替わるようにして、お堀電車と堀川駅など4駅が廃止されたのだ。
ではその廃線跡はというと……外堀の中を走っていたのだから、実にわかりやすい。並行する外堀通りと外堀の間は小さな公園のようになっているし、外堀を跨いで御園橋や本町橋、大津橋などが架かっている。そこから外堀の中を見下ろせば、そこがまさしく名鉄瀬戸線、お堀電車の廃線跡だ。
まるで並木道のように両脇に木々が生い茂り、真ん中だけがぽっかりと空いている。線路も何も残っているわけではないけれど、そこに電車が走っていたことが手に取るようにわかる。目をつぶれば、古い電車がゴトゴトと……とまではさすがにいかないですが。
ちなみに、お堀はだいたい中を電車が走ることなど考えて造られたはずもない。だから南東で外堀は直角に曲がっている。直角90度のカーブなど、鉄道ではおよそ不可能なお話。
お堀電車はそこを半ば強引に曲がっていた。その半径60mの急カーブは、「サンチャインカーブ」などと呼ばれていたという。
お堀の中には、堀川駅の他に本町駅・大津町駅という駅もあった。堀川駅は道路と直接繋がっていたが、本町駅と大津町駅はお堀の中に降りた先のホームから電車に乗るというあんばい。
ホームや駅舎は跡形もないが、お堀端からホームに降りていく階段などの設備は一部が残っている。外堀脇の公園の柵や大津橋の上からも、そうした設備を間近に見ることができる。
50年前に消えた駅と鉄道の、数少ない面影である。
さすがにいまでは文化財保護などもあって簡単な話ではなかろうが、もしも当時のままにお堀の中を電車が走っていたら。ちょっとした観光地になっていたことは間違いないだろう。
窓の外にはお堀の中の木々が茂り、見上げた向こうにオフィス街に官公庁街、そして金のシャチホコ名古屋城。
堀川駅と結ばれていたかつての水運の大動脈・堀川は、江戸時代初めに清洲からこの地に城下町ごと引っ越してきた“清洲越し”の折、物資を運ぶために福島正則によって掘られたものだとか。江戸時代には尾張藩主御用達のあれこれの荷揚をしていたのが、ちょうど堀川駅のあったあたりだ。
そして堀川を渡った先は、清洲越しの昔から続く美濃路が通る。その先の円頓寺商店街や四間道は、空襲被害が軽微だったこともあって戦前からの名古屋の雰囲気がいまも残る。
堀川駅は、名古屋という都市を支えた歴史が幾重にも折り重なる場所に現れた幻のターミナルだったのである。
写真=鼠入昌史
(鼠入 昌史)