80年前の七夕の夜、思い出したくない「地獄絵図」…語り継ぐ平和への思い「戦争はとんでもないこと」

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太平洋戦争末期に千葉市の中心市街地が狙われた「七夕空襲」から7日で80年となる。
米爆撃機「B29」が約1時間半の間に900トン近い焼夷(しょうい)弾や爆弾を投下し、1204人が死傷した。当時を知る人が年々減る中、体験者たちは次世代に戦争の恐ろしさを伝えようと、懸命に声を振り絞る。(渋谷功太郎)
「ヒューン、ヒューンって、焼夷弾が雨あられと降ってきた。当たらなかったのは運が良かっただけだよ」
千葉県四街道市の中央大名誉教授高橋治男さん(88)は、80年前の忌まわしい光景が今も忘れられない。
陸軍少佐の父親の下で育った軍国少年で、クレヨンで戦闘機の絵ばかり描いていた。当時、千葉市に住んでいて、富士見国民学校(現・新宿小学校)では竹やり訓練に励んだ。「特攻隊になることが誉れ。絶対に日本が勝つ」と信じていた。そんな世界が一夜で一変した。
7日未明、空襲警報のサイレンでたたき起こされた。毎晩枕元に置いていたリュックを慌てて背負い、靴を履こうとしたところで父親から「そんな暇ないぞ」と急(せ)かされた。靴下で家を飛び出すと、背後で自宅が燃え始めた。
間もなく大雨が降り出した。出洲海岸を目指したが、「ヒューン」と音がするたびに火の手が上がり、焼け落ちた家のせいで道路が通れない。都川にかかる鉄道用の鉄橋を家族で1列になって渡り、必死で海岸まで逃げた。
2歳上の姉とともに、雨水でどんどん重くなる布団をかぶってぼう然と立ち尽くした。雨がやみ、夜が明けると、海岸のあちらこちらに焼夷弾の筒が突き刺さっているのに気付き、ぞっとした。
焦げ臭い街を歩いて自宅に向かった。あちこちで煙が上がり、人が倒れていた。遺体にすがりついてわんわんと泣いている人がいた。自宅だった場所は、溶けて固まったガラスと、熱で真っ赤になった軍刀やミシンの脚などがあるだけだった。「思い出したくないほどの地獄絵図。だいぶ戦局が悪いんだろうと思った」。39日後に日本は降伏した。
戦後は高校、大学を出て、中央大で教べんを執った。学生たちに自身の空襲体験を語り、平和を説いたこともある。
「人が命を奪い合うなんて、そんなバカなことはない。戦争はとんでもないことだ」。そう語気を強めた。
千葉市若葉区の栃木実子さん(87)は、本町国民学校(現・本町小学校)2年の時に空襲に遭った。
空襲警報のサイレンを聞き、兄や姉と一緒に庭に掘られた半地下の防空壕(ごう)に飛び込むと、間もなく数メートル先の隣家から真っ赤な炎が上がった。熱くて怖くなった栃木さんは思わず、防空壕から這(は)い出した。消火活動をしていた両親が気付き、隣接する田んぼの水路に放り投げられて命をつないだ。
避難しようと向かった友人宅は満員で入れてもらえず、自宅に戻るとそこは火の海だった。ぬれていたはずの服は火災の熱であっという間に乾き、その後、親戚宅に逃げ延びた。
数日後に学校の様子を見に行くと、校舎は焼失し、黒い物体が置かれていた。炭化した遺体だと気付き、言葉を失った。学校から約1キロ離れた千葉駅が見渡せるくらい、辺り一面焼け野原だった。
「飛行機が低く飛ぶ音は今も好きじゃない」と語る栃木さん。80年たっても、大きな音を聞くたびに当時の凄惨(せいさん)な体験を思い出すからだ。
ロシアによるウクライナ侵略など、海外の戦争報道を見るたびに平和への思いを強くする。「もう戦争は嫌だ。やめてもらいたいよ」

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