《潜入ルポ》「正直言うとね、手放したい」キャバクラが入る繁華街のビルで営業していた“ナゾの銭湯”…内部を探索してわかった“しびれる歴史”

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昭和世代には馴染みの深い銭湯。現在では、銭湯に行かなくなった人や、そもそも銭湯に行ったことがない人も多いのではないだろうか。家にお風呂があるのが当たり前になり、さらにはコロナ禍や燃料費の高騰も追い打ちをかけ、銭湯は年々減り続けている。昭和40年頃には日本国内に2万軒ほどの銭湯があったが、現在は3000軒を切るまで減少している。
【画像】 日本一シャッター率が高い商店街のビル2階に存在した“ナゾの銭湯” 現在は廃ビルになった同地に潜入してみると…まさかの光景が
私が住む岐阜県で明治時代から営業を続けていた“柳ヶ瀬浴場”も平成15年に閉業してしまった。今回、柳ヶ瀬浴場を経営されていた方とご縁をいただき、閉業した後もそのままの状態で残っている銭湯を見せていただき、当時の話を伺うことができた。
柳ヶ瀬浴場は、岐阜県下最大の繁華街である柳ヶ瀬商店街のメインストリート沿いにある。柳ヶ瀬商店街の中でも西柳ヶ瀬と呼ばれるエリアだ。
柳ヶ瀬浴場が入っている4階建ての柳五ビル
この西柳ヶ瀬は以前、日本で最もシャッター率が高い、つまり閉店した店が多い商店街としてテレビ番組で紹介されたことがある。閉店しても新たな店が開業しないため、キャバレーなども閉店したまま放置されているのだ。歓楽街としては衰退しきった雰囲気の中に、柳ヶ瀬浴場はあった。

柳ヶ瀬浴場が入る柳五ビルは、銭湯のほか多くの飲食店が入居するビルで、キャバクラの派手な看板が目につく。現在は全く使われておらず、廃ビルの状態になってしまっている。
オーナーからお借りした鍵でシャッターを開け、電気がつかない真っ暗なビルの中を懐中電灯で照らしながら進んでいく。

柳ヶ瀬浴場はビルの2階にあった。

“柳ヶ瀬浴場”の表示に誘われ階段を上がると、非常に事務的なアルミ製のドアが2つあり、それぞれに“男湯”“女湯”と書かれている。

少々拍子抜けしたが、男湯のドアを開けて中に入ると、驚愕した。木製の下駄箱と脱衣箱、それに番台。キャバクラの看板を掲げる雑居ビルの2階とは思えない、昔ながらの銭湯そのものといった光景が広がっていた。
男湯と女湯は番台で仕切られており、左右対称の造りをしている。

さらに奥に進むと、昔ながらのマッサージチェアや、お一人様用の小型サウナ、そこに貼られているオウム真理教信者の指名手配写真なども目を引く。

扉を開けると、そこは浴室だ。
左側にはカランが並び、右側に大きな浴槽が見える。浴槽は1メートルほどの深さがあり、お尻をつけると溺れてしまう。多くの人が立った状態で同時に入れる立ち湯になっており、繁華街の中心部に位置する銭湯であったことがうかがえる。

浴槽の下部には蛍光灯があり、ちょっとお洒落な雰囲気だったのだろう。銭湯では定番の黄色いケロリンの湯桶も置かれたままだ。

大きな浴槽の奥には、一人か二人しか入れない小さな浴槽が3つ並んでいた。電気風呂と水風呂、それに泡風呂だった。こぢんまりとしているが、必要なものは一通り揃っている。また、4階建てビルの2階であるにも関わらず、自然光が差し込んでいるのが少々不思議だった。

浴室の奥に金属製の扉があり、バックヤードに進入する。営業している銭湯であれば入ることができないエリアだ。

足元に気を付けながら狭い通路を進むと、巨大なボイラーが鎮座していた。

ビルの2階に銭湯があるというだけでも大変なのに、重量物かつ燃料の補給やメンテナンスが必要なボイラーまで2階にあるというのは、非常に珍しく、驚いた。
重油式のボイラーからは、多くの配管が伸びている。配管には男湯、女湯、電気風呂などと手書きで書かれていて、浴槽ごとに調整ができたようだ。
また、ボイラーの周辺には多くの備品が置かれているのだが、その入れ物がすごい。銭湯で売っていただろうヨーグルトの木箱が使われている。

いったいいつの時代の代物なのだろうか。精力剤の空き箱が多く使われているのも、歓楽街ならではの光景だ。
その後、女湯側にも入ってみたが、カランの樹脂製カバーの色が違うだけで、男湯と同じ造りで大きさも全く同じだった。
オーナーからは銭湯以外にも、ビル全ての鍵を預かっていたため、可能な限り各フロアを見て回った。

1階は飲み屋街になっており、7軒のスナックや居酒屋が入っていた。奇麗に片づけている店もあれば、営業していた当時のまま時間が止まってしまっているような店もあった。

2階は銭湯のほか中国エステがあり、3階はワンフロアを使ったキャバクラが入居していた。

ビルの正面に看板が掲げられていた、あのキャバクラだ。“リーマンから後期高齢者まで”というキャッチコピーが印象に残る。

4階は半分が店舗で半分は住居になっており、オーナーがご家族と暮らしていたようだ。
結局、ビル一棟の探索に丸一日以上かかってしまった。
後日、お借りしていた鍵を返しがてら、オーナーである稲垣義博さん(71歳)に話をうかがった。

柳ヶ瀬浴場の歴史は深く、この場所で銭湯を始めたのは、なんと明治16年。当時はもちろんビルではなく、木造平屋の銭湯だった。柳ヶ瀬商店街や岐阜市政の礎となった金津遊郭が開設されるよりも、もっと前のことだ。屋号は“金津温泉”だったが、明治22年に金津遊郭が開設されると、銭湯のすぐ近くに遊郭の入り口である大門(おおもん)が設置されたことから、“大門の湯”と呼ばれるようになった。

戦時中には飛行機が落ちてきて、入浴中の女性が亡くなることもあったという。戦争で岐阜市一帯が焼け野原となり、銭湯も焼けてしまったが、再建して銭湯を続けた。
日本が高度成長期に入ると、岐阜の繊維産業が盛んとなり、柳ヶ瀬商店街も大いに栄えた。銭湯の周辺は歓楽街の中心地で、平屋建ての銭湯は時代に取り残されてゆく。
昭和50年、先代の稲垣正信さんが4階建ての柳五ビルへと建て替えた。儲からない銭湯をやめて、全フロアを貸しビルにする案もあった。

そのほうが建築費は安く済むし、賃料収入も増える。だが、「銭湯のおかげでビルが建てられた。赤字でも銭湯を続ける」という覚悟で、柳ヶ瀬浴場は存続した。「銭湯を続けたのは、おやじの誠意だと思う」と稲垣さん。
銭湯ありきでビルが設計された。繁華街の1階はドル箱であるためテナントにし、銭湯は2階に上げた。多くの湯やボイラーを2階に設置するため、強度や防水には特に力を入れたという。湯気を逃がすために吹き抜けが設けられ、そのため2階なのに日が差していたのだ。閉業するまで、水漏れすることは一度もなかったという。

ビルを造っている間から、入居希望者からの問い合わせが殺到。オープンと同時に15全てのテナントが埋まった。多い時でひと月に300万円もの賃料が入ってきたが、銭湯は儲からなかったという。
木製の脱衣箱はケヤキで出来ており、建て替える前に使っていたものをそのまま利用した。戦争で焼けて建て替えられた時のものなので、戦後間もない頃に作られたものだ。どうりで年季が入っていると感じたはずだ。

稲垣さんが「もっと古い脱衣箱がボイラーの横にあるよ」と教えてくれた。物入れとして使われていたもので、私も探索していて気になっていた。さらに古いということは、少なくとも戦前であることは間違いない。戦争で焼け残った脱衣箱を、物入れとして使っていたのだろう。明治16年の開湯当時のものである可能性もあるが、稲垣さんもそこまではご存知ではなかった。

建て替える前の銭湯の写真などがないか稲垣さんに尋ねたが、残っていないという。私が柳五ビル内を探索していた時、住居部分の残留物の中から、銭湯の番台らしき場所に座る女性のモノクロ写真を見つけていた。

銭湯に関連しそうな写真はこれ一枚しか見つけられなかったため、稲垣さんにお見せすると「これは母親だと思います。平屋の頃の写真ですね」と少し驚いていた。
銭湯を建て替える頃、4代目となる稲垣さんは家業を継ぐため大学をやめて銭湯に専念する。近所の住民のほか、キャバレーのホステスさんや従業員さんも銭湯によく入りに来てくれていたという。
お店に出る前に銭湯に入り、お店が終わるともう一度銭湯に入ってから帰る人も多かった。飲み屋のお客さんは手ぶらできて、タオルを買って入っていた。そうした需要が多かったため、銭湯は深夜2時まで営業していた。

当初は毎日250人ぐらいのお客さんが来ていたが、岐阜の繊維産業が衰退すると柳ヶ瀬商店街の人通りも激減し、50人にまで減ってしまった。銭湯の赤字をテナントの賃料で埋める形で営業を続けてきたが、テナントも半分に減ってしまうと、それもできなくなった。そして平成15年11月、120年間続いてきた銭湯の火を落とさざるを得なくなった。
「いい時もあれば悪い時もある。でも、ここまでさびれるとは思わなかった」と稲垣さん。
その後もテナントは貸していたが、半分からさらに減り続けた。15年ほど前には1階のスナック1軒のみとなり、貸しビルとしても赤字になった。稲垣さんも郊外へ転居し、スナックが廃業すると、柳五ビルは完全に使われなくなった。

現在、柳五ビルが再び使われる予定はない。稲垣さんは「正直言うとね、手放したい」と本音を漏らす。
柳ヶ瀬に遊郭ができ、そのお金で岐阜市政が始まり、繊維産業とともに隆盛を極め、そして衰退する。その全てを見てきた柳ヶ瀬浴場には、岐阜の歴史と古き良き銭湯の魅力が詰まっている。
また、柳五ビルには、柳ヶ瀬が良かった時代に営業を終えて、そのまま放置されているテナント跡も多い。ドアを開けば、そこに昭和がある。まるでタイムカプセルのようだ。柳五ビルは使われなくなってしまったが、だからこその魅力といえるだろう。
昨年から、柳五ビルの内部を探索できるガイドツアーが不定期で開催されるようになった。僭越ながら、筆者もガイドを務めている。柳五ビルの現状が良いとは思わないが、ガイドツアーの収益の一部は、商店街の運営費にも充てられている。私は、柳ヶ瀬のこれまで光が当たらなかった部分の魅力を伝え、多くの方に実際に足を運んで頂きたいと思っている。
(鹿取 茂雄)

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