郊外の豪邸で理想的な老後を過ごしていた元木さん(仮名)。現役時代の最高年収は1,400万円で、年金も月に30万円あり、一見暮らしには申し分ありません。しかし、立て続けに起きた「2つの出来事」をきっかけに、思わぬ「老後破産危機」に陥ってしまいました……元木さんにいったいなにがあったのでしょうか。ファイナンシャルプランナーの辻本剛士氏が事例をもとに、老後生活で起こり得るリスクについて解説します。
名古屋市中心部から車で数十分の静かな住宅街。その一角に、ひときわ存在感を放つ家があります。
元木寛さん(仮名・70歳)は現役時代、名古屋市内の総合商社に勤めていました。営業職として長年活躍し、顧客からの信頼も厚く、年収は1,400万円に達しました。
65歳で退職し、現在は妻と2人、月30万円の年金で暮らしています。「老後だから質素に」という考えはなく、ゴルフや車といった趣味はいまでも継続中です。
妻の明子さんは、寛さんと同い年の70歳で、豪快な夫とは対照的に、昔ながらの“三歩下がって歩く”性格。若い頃から専業主婦として家庭を支え続けてきました。
そんな寛さんですが、近ごろは自宅の「維持管理費」に頭を悩ませています。
自宅は4LDKで、30畳近いリビング、ルーフバルコニー、10m四方の庭、駐車場3台分と、ゆとりある造りが魅力。しかし、その分コストもかかります。固定資産税や火災保険、庭木の手入れや外壁・設備のメンテナンスなど、年間で数十万円単位の出費が発生しているのです。
加えて、高級家具やインテリアの維持にも手間と費用がかかり、毎月約10万円の赤字となっています。それでも元木さんは「老後くらい好きに過ごしたい」と、あくまで節約には消極的です。
資産は70歳時点で4,500万円あり、「90歳までならなんとかなる」と楽観的な見方を崩していませんでした。
そんなある日、元木さんのもとに思いがけない来訪者がありました。インターホン越しに聞こえた声は、40歳になる息子・賢人さん(仮名)のものでした。
「父さんごめん、ちょっと話があって……」
連絡もせず久々に現れた息子の姿に、寛さんも一瞬驚きました。賢人さんは名古屋市内で居酒屋を経営しており、性格は寛さんよりも明子さん似。もの静かで、心配性な一面があります。
賢人さんは広いリビングで、深刻な表情で事情を語りました。
「借金があってさ……1,000万円、なんだけど……」
「なに!? 1,000万円!?」
聞けば、開業時に1,500万円の融資を受けたものの、コロナ禍や物価高騰、人件費の増加で経営が悪化。返済が滞り、最終的に1,000万円もの借金を残して廃業することとなったのです。
息子の話を黙って聞いていた寛さんは、聞き終えてひと言、こう言いました。
「わかった、俺がなんとかする」
息子の失敗は辛いですが「家族を守るのが父親の務め」と考える寛さんは、迷いなく借金の肩代わりを決断しました。
息子・賢人さんのために肩代わりした1,000万円は、元木さんの資産にとっては大きな痛手です。4,500万円あった資産は、一気に3,500万円に減少。このまま毎月10万円の赤字が続けば、20年後に残る資金はわずか1,100万円になります。寛さんの胸に、不安が広がりました。
「このままじゃギリギリだな……」
年金だけでは赤字を埋められず、豪邸の維持費もかかり続ける。なにか収入の足しがほしい……そんな思いが芽生え始めたころ、昔の知人から1本の電話が入りました。
「新興国の不動産投資なんだけど、利回り20%で毎年300万円の収益が見込める。数年後には売却益も期待できるぞ」
聞けば、物価の安い現地では、2,000万円で物件を一棟購入できるといいます。
「収益が出れば、赤字が解消されるどころか、息子の借金分も取り戻せる……」
元木さんは、この話に強く惹かれました。
「その話、乗った!」
投資を決断した元木さんは、家族に相談することもなく2,000万円を指定口座に振り込みました。「20%」という高い利回りに少し怪しい気持ちがあったものの、最初の3ヵ月は毎月25万円の家賃収入が入り、徐々にその気持ちも薄れていきます。
「このままうまくいけば、車をもう1台買ったっていいかもしれないな」
寛さんは夢見心地です。
しかし4ヵ月目、突然振込がストップ。知人に連絡を試みるも応答はなく、しだいに嫌な予感がしてきます。
調べてみると、同様の被害がネット上で多数報告されていることが発覚。元木さんはついに、「これは詐欺だ」と認めざるを得ませんでした。
現役時代に積み上げた大切な資産は、わずか数ヵ月で消失。赤字と息子への援助、詐欺被害が重なり、資産は4,500万円から1,500万円へと激減しました。
――その日、元木さんは大好きなルーフバルコニーで通帳を見つめたまま立ち尽くしていました。ページをめくる手は止まり、ただ冷たい風が吹き抜けていきます。
「まさか、こんなはずじゃなかったのに……」
詐欺被害からしばらく経ったある日、息子の賢人さんが再び実家を訪れました。自分のせいで父の資産が減ったことに責任を感じていた賢人さんは、「信頼できるファイナンシャルプランナーがいるから、一度話を聞いてみてほしい」とFPを紹介してくれたのです。
息子と妻とともに事務所を訪ねると、穏やかな口調のFPは、現実的なアドバイスをくれました。
「退職金や年金があっても、支出を管理しなければ老後破産に陥ることもあります。老後に必要なのは『増やす力』よりも、『減らさない力』です」
FPはまず、自宅にかかる年間の固定資産税や光熱費、修繕費などを可視化し、住み替え(売却)による維持費削減と資産の再構築を提案。売却益を老後資金に充てることで、暮らしを立て直せると説明しました。
「いや、申し訳ないが、あの豪邸は俺の人生そのもの。手放すなんて絶対にできない!」
感情的に否定する寛さんに、隣で黙って聞いていた妻・明子さんは静かに声を上げました。
「……あなた、いい加減にしてください。いつまでそんな幼稚なことを言ってるの? この問題はあなただけじゃなく、私の生活にも関わってくるのよ」
まっすぐに夫を見つめながら、明子さんは続けました。
「これ以上自分勝手なことを言うようなら、離婚を考えます」
その言葉に、元木さんは黙り込みました。豪快な性格の夫も、長年寄り添い支えてくれた妻には頭が上がりません。ましてや、明子さんの手料理は寛さんのなによりの楽しみです。
「家よりも、妻を失うほうが嫌だ……」
やがて、観念したように息を吐き、寛さんは言いました。
「……わかった。売ろう」
その後、元木さんは無事に住み替えを果たしました。購入したのは、市内にある交通の便がいい2LDKのマンションです。高齢になっても暮らしやすい環境を第一に選び、万が一のことを考え息子の住まいにも近い場所にあります。購入方法は現金で、一括購入しました。
以前の家を売却したことで得られた売却益と相殺すると、手元には1,500万円が残り、資産は3,000万円に回復。豪邸時代に比べて住宅維持費が大幅に軽減されたことで、毎月の赤字も解消され、家計は大きく安定しました。
現在は、この静かな2LDKの部屋で2人、穏やかな日々を送っています。
「うまい話には乗らず、見栄も張らず、これからは粛々と生きていこう」
そして、寛さんは今日も、妻の作る夕飯を心待ちにしているのでした。
辻本 剛士神戸・辻本FP合同会社代表