バブルの残り香がまだ色濃く残っていた1990年代前半、『君とピアノと』でデビュー。明るくポップな曲『君は僕の勇気』を歌いヒットさせた東野純直さん(53、あずまの・すみただ)。爽やかなイメージの一方、ラーメン店の経営も成功させ、現在は新たな生活を始めていた。アップダウンの激しい人生を生き抜いてきた東野さんの最終的な夢とは──。【全3回の第3回。第1回から読む】
【写真】現在53歳の東野純直さん、デビュー当時の姿や撮り下ろしカット他
ラーメン店を閉じた後、東野さんは音楽の拠点として埼玉県の川越にスタジオを持った。事務所兼スタジオを、注文建築で建てたというからスゴイ。
「栃木出身の母親にとって、“小江戸”といわれる川越は憧れの地だったんです。母は3年前、がんで亡くなったんですが、亡くなる少し前に、母と一緒に川越で久しぶりに親子水入らずの時間を過ごしました。僕、マザコンなんで(笑)。川越は関越自動車道と圏央道を繋ぐ鶴ヶ島ジャンクションが近く、車でツアー先へ移動するのに便利だしお洒落な街だし、空気はきれいだし、とても静か。静かすぎて最初は寝られないくらいでした(笑)」
愛車はヨーロッパ車。東野さん、ラーメン店経営でかなり成功したようだ。
「いちばん良いときで、年商1800万円。20代で大金を得たときに浪費し、税金を払うのに苦労した経験があるので、店の経営では経費削減に努めていました」
東野さんはデビュー3カ月後の1993年7月にリリースした2枚目のシングル『君は僕の勇気』がいきなりヒット。秋には同曲も入ったアルバム『Actor & Actress』もリリース。シンガーソングライターとして、作詞作曲も多く手がけていた東野さんは、なんと初年度の印税が8000万円にもなったとか。
「デビューした年の冬、上着を買おうと富士銀行(現・みずほ銀行)のATMに行き、残高を確認したら700万円も入っていてビックリ。『これは絶対バグってる!』と思い、窓口へ行って行員さんに『間違って表示されているんで、どうしたらいいですか』と言ったら、『(当時の事務所の)財団法人ヤマハ音楽振興会様からご入金ですね』って。印税がそんなに入るなんて、わかっていなかったんです。すぐにオフクロに電話して数十万円送金しました」
母親を大切にするのには理由があった。大手企業のエンジニアから独立した父親の事業が不運から頓挫し、東野さんが小学校5年生のとき、家族は住む家を追われた。母親は九州男児の父親の荒っぽさにも苦労していたという。
「それでも明るい母親に家族は救われました。楽をさせてあげたくて、上京してからずっと仕送りを続けていました。印税がドンと入ってきたときは、家族を長崎のハウステンボスに連れて行って、最上位のホテルヨーロッパに連泊し180万円。僕は酒を飲まないのに、友人数人を飲みに連れていき一晩で20~30万円使ったりもしました。今では考えられませんね(笑)」
さらに印税を手にした東野さんは、ファーストクラスでロサンゼルスやニューヨークへ飛び、マリオットホテルのスイートルームに宿泊し、当時はまだ来日公演のなかったアーティスト──ビリー・ジョエル、ホイットニー・ヒューストン、キッス、フランク・シナトラ、ベット・ミドラーらの公演を現地で聴いたという。
「次の年に税金がドンと課せられるとわかっていなかったんです。分納させてもらいました(笑)」
『君は僕の勇気』の後はヒット曲を生まなければ、というプレッシャーも大きかった。
「同じ事務所にいた先輩のチャゲ&飛鳥(現:CHAGE and ASKA)さんは200万枚なんて数字を出していましたから。CDの売れ行きが落ちると、僕なんかはラジオ局へ行っても楽屋じゃなくてロビーで待たされ……、どんどん待遇が悪くなっていきましたね」
さらに、2000年代に入ると業界全体でCDが売れなくなり、東野さんもその煽りを受けた。
「じゃあライブをがんばろう、と思ったら、僕のファンの方たちは結婚や出産、子育ての時期に入りライブに来られなくなってしまった。どうしよう、このままオレはどうなっていくんだろう……と追い込まれていきました」
そうした経緯もあり、デビューから15年後の2008年、当時所属していた事務所の近所にあった東京・目黒の人気ラーメン店「支那ソバ かづ屋」で修業を始めた、というわけだ。
「とにかく昔からラーメンが大好きで、“ラーメンで生きている”というくらい食べてきました。故郷・鹿児島から21歳で上京してからは、都内のラーメン店を食べ歩いていました。僕は料理するのも大好きで、ヒットを出した頃も基本は自炊していたほどなんです」
ミュージシャンなのにラーメン店修業、とは大胆な選択だ。どちらも人に見られる職業。周りの目が気にならなかったはずはないが、背に腹はかえられなかった。
当時、36歳。「かづ屋」で働くほかの人たちは20代で、年下に顎で使われるのも精神的にきつかった。それを耐え、44歳で晴れて独立したものの、店の味を維持する努力はまた次の問題をうんだ。
「毎朝ラーメンを仕込むので、味を確かめるために必ず食べなければいけない。その生活を続けていたら、体重が20代の頃と比べどんどん重くなり、ピーク時は98キロにまでなってしまいました」
毎日ラーメンを食べ続けても飽きないそうで、それは良いとして、体重増は健康にも問題が出てくるだろう。
「そう、糖尿病です。一昨年の暮れ、周りから『やばいんじゃない!?』と言われるほど急に痩せて喉が渇くようになりました。がんを疑って病院にかかったら『がんではありません。糖尿病です。即入院してください』と言われてしまいました。血圧も高くて『薬をちゃんと飲まないと、あなた、死にますよ』と脅されました」
東野さんは以来、健康への意識が高くなり、食事はなるべく添加物の入っていない食品をとるよう心がけているという。「白米は1年ほど食べていません。なるべく薬に頼らずオーガニックに治したくて運動と食事療法で数値は奇跡的に下がりました」と語る。
紆余曲折あった東野さん。これからの夢は何だろうか。
「47都道府県すべてで弾き語りライブをしたいですね。まだその半分ぐらいしか行っていないので。究極の夢は、電気もガスも水道もスーパーマーケットもない広大な土地で、自給自足生活をしたい。そこにピアノを置いて、ファンを呼んで歌いたいですね」
やや突飛なアイデアだが、“歌うラーメン店店主”としてたくましく生き延びてきた東野さんらしいといえるかもしれない。
(了。第1回から読む)
取材・文/中野裕子(ジャーナリスト) 撮影/岩松喜平