球史に残る「大炎上」試合、審判が初めて告白「言い出せなかった誤審」…「10年間ずっと謝りたかった」

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高校野球史に残る「大炎上」試合として知られる、2012年の夏の全国高校野球・神奈川県大会1回戦「日大藤沢VS武相」。
前代未聞の「サヨナラインフィールドフライ」で幕を閉じ、判定に納得いかない選手らが審判にくってかかったことが波紋を呼んだこの試合で、審判を務めていた男性が読売新聞の取材に応じた。「選手たちに謝罪したい」――。あの炎上事件は、野球を愛する一人の男の人生も変えていた。(デジタル編集部 文・古和康行、写真・秋元和夫)
■「あの試合の真実を……」記者に届いた情報提供
「記事を読みました。あの試合の真実をお伝えしたい」
8月下旬、記者のもとに一通の情報提供が寄せられた。記者はこの夏、「日大藤沢VS武相」で起きた炎上事件を取材し、試合に出場していた選手の今について記事にしていた。情報提供には、その試合で審判を務めていた一人がその後、野球の審判を退いた旨が記されていた。
唐突な情報提供に若干、戸惑ったが、文面は極めて丁寧で、審判のその後という話も気になった。情報提供に書かれていた情報をもとに、元審判の男性に連絡を取ると、男性は「名前を出さないなら」との条件で取材に応じてくれた。
それからしばらくして、神奈川県内の自宅を訪ねた。「今は審判はやめられたそうですが、あの試合と何か関係があるのでしょうか」。記者が切り出すと、男性はこう打ち明けてくれた。
「あの試合では、(炎上した)武相側に不利な誤審があったんです。積もり積もったフラストレーションが爆発した。試合終了後、彼らにあんな態度をとらせてしまったのは、僕は今も審判の責任だと思っています」
■10年越しに語られる「誤審」
あの試合は、当時の読売新聞神奈川県版でも「1回戦屈指の好カード」と紹介された強豪校同士の試合だった。特に前年の秋季大会で県ベスト4に入っていた武相にとっては、甲子園出場への期待が高まる中で迎えた初戦だった。
男性はこの試合で二塁の塁審を担当した。当時34歳。自身も神奈川で白球を追った元高校球児で、高校卒業後も草野球を楽しんでいた野球好き。高校野球の審判も、地元の野球協会の役員だった父や野球仲間にすすめられ、「少しでも後輩たちの役に立てるなら」と始めた。
だから、試合前、保土ヶ谷球場の門をくぐるときは、テレビ放送も決まっていたこの好カードの審判ができることに、「大事な試合を任せてもらった」と嬉しさがこみあげていたという。だけど……。
高校野球史に語り継がれる“事件”が起きたのは2―2で迎えた九回裏、日大藤沢の攻撃だった。一死満塁のサヨナラのチャンスで日大藤沢のバッターが放った打球が三遊間に上がる。審判がインフィールドフライを宣告し、武相の遊撃手がキャッチした。絶体絶命のピンチを切り抜けるまであと1アウト。武相ナインは守備の確認のためマウンドに集まった。
だが、その瞬間、タイムがかかっていないと見た日大藤沢の三塁ランナーが無人となった本塁に突入。勝利を決めるサヨナラの1点を挙げた。
信じられない幕切れに、武相ナインは「タイムを取ったはずだ」と猛烈に抗議。試合終了のあいさつではエースが帽子を取らずにベンチに引き返したことなども批判を浴び、ネットで大炎上することとなった。
男性が「誤審があった」と指摘したのは、全く別の場面だ。それは1―1の同点で迎えた六回表、武相の攻撃で起きた。この回は、2番からの好打順で先頭打者がライト前ヒットで出塁。続く3番打者のとらえた打球は快音を残し、レフト方向に飛んだ。
日大藤沢の左翼手はライナー性の打球を前進して捕球。ボールが地面についたか際どいところだったが、二塁の塁審をしていた男性からは、打球が左翼手の手前でショートバウンドしていたことがはっきりと見えた。男性と似たような角度からボールの行方を追っていた一塁ランナーも同じ判断だったのかもしれない。左翼手の捕球とほぼ同時に、猛然と二塁を目指して走り出した。4番を前にした2連打。武相にとっては、またとない好機が訪れたはずだった。
ところが、ヒットを告げるはずの、三塁塁審の両腕がなかなか広がらない。
審判のジャッジでは通常、ヒットとセーフはただちに宣告し、アウトは落球する可能性などもあるため、一呼吸置くという。男性には嫌な予感が走った。「まさか」――。
「アウト!」
判定はレフトライナーとなり、ボールは左翼手から遊撃手を中継して一塁へ返球された。二塁まで進んでいたランナーは一塁に戻れず、併殺打が完成。武相側の落胆は大きく、判定の確認を求める伝令を審判のもとに送った。
■マスクを脱いだ
審判団はマウンド近くに集まった。重苦しい空気が流れたが、ほかの審判から判定に異を唱える声は上がらなかった。男性も抗弁することなく、審判団は「最も近くにいた三塁塁審の判定通りにしよう」と協議の輪を解いた。
「試合の流れを大きく変えてしまったかもしれない」。サヨナラインフィールドフライは、そんな後悔を抱えたまま迎えた九回に起きた。いま振り返っても、この時のプレーやジャッジにはなんの問題もない。だが、誤審を見て見ぬふりしてしまった男性は、あの時の武相ナインの怒りは、九回のワンプレーだけが原因ではないことは痛いほど分かった。
記者はたずねた。「なぜ審判が集まった時に誤審を指摘しなかったんですか」
男性は伏し目がちに「若かった……からですかね」とつぶやいた。
男性は、試合が終わってからのことをよく覚えている。球場に残っている観客の目から逃げるように駐車場へ帰ったこと。その後の審判の講習会でこの試合がたびたび話題になったこと。先輩の審判員から「間違っていると思っているなら、なぜその時に言えなかったんだ」と試合後に叱責(しっせき)されたこと。
「審判として甲子園の土を踏みたい」。そんな淡い夢を抱いたこともあったが、葛藤に耐えられなくなった。試合の2年後、男性はマスクを脱いだ。「球児のためになっていないんじゃないか」。そんな思いがどうしても頭から離れなかったからだ。大好きだった草野球も数年前にやめた。
■公式スコアにあった男性の名前
取材を終えた後、記者はこの試合の公式スコアを取り寄せた。「審判員」の項目に目を落とすと彼の名前があった。問題のシーンでは、男性が語っていたとおりの併殺打が記録されていた。ネットでもその判定に疑念をもった人々の書き込みが今も残っている。
今年3月の春の選抜甲子園では、審判団が「誤審」を認め、謝罪したことが話題となり、高校野球ファンから称賛された。男性は取材した際、そのニュースが「まぶしく見えた」と語っていた。
どんな経験を積んだ審判であったとしても、人間が判断する以上、必ずミスは起こる。ビデオ判定も導入されていない高校野球の世界であれば、誤審も試合の一部と割り切るしかないのかもしれない。ただ、これまで誤審について、選手目線でしか考えたことがなかった記者は、男性の話を聞いて、思った。
審判も誤審と向き合うことに、悩み、苦しんでいるのではないか。
記者はスマホを手に取り、男性に連絡を取った。「今のまま、匿名であなたの話を記事にすることはできなくはありません。ただ、あの試合で全力を尽くした選手たちに謝罪をするのであれば、あなたの名前で、あなたの言葉であの試合のことを語っていただけませんか」
■10年越しの謝罪、そして……
先月下旬、保土ヶ谷球場。事前にやりとりした待ち合わせ場所に、男性――木村純人さん(44)は姿を現した。ここを訪れるのはあの試合以来。「怖くて近寄れなかった」場所だったという。
この日は中には入れないと球場から言われていたので、閉ざされた門の周りを歩く。木村さんは球場の見取り図を見ながら、「ここでミーティングをして……」「僕はこの辺に立って打球を見ていて、だから観客席からも見えたんじゃないかなぁ」と、まるで昨日のことのように話した。
「高校野球の審判を始めた時のデビュー戦、今でも覚えているんですよ」。木村さんがポツリと漏らした。それは、小田原球場での一戦だった。三塁の塁審を務め、最初にジャッジした際どい判定。レフト線に飛んだ打球に「フェア!」とコールした瞬間、観客席から大歓声がわき起こった。「あの高揚感って、大人になってからはなかなか感じることがなかった。本当に楽しかったんです。でも、同時に、そういう立場でいることに、気持ちよくなっていたのかもしれません」
この日の保土ヶ谷球場は秋風が吹き、少し肌寒かった。それでも、木村さんの顔はわずかに汗ばんでいた。
記者から手渡されたスコアに目を落としながら、木村さんはあの試合について、「本当ならやり直したい。そうすれば武相の選手たちのやりきれない感情も、日大藤沢の子の後味の悪さもなかったかもしれないから」と震えるような声で言った。
「10年間、ずっと『悪かった』と謝りたかった。試合後、武相のエースの子が泣き崩れていたじゃないですか。彼は間違いなく、将来有望な選手だった。それがあんなことに……。僕に異を唱える勇気があったら、あの試合は別の結末を迎えていたかもしれない。謝ったからと言って、時を戻せるものではないけれど、ずっと、ずっと謝りたかったんです」
木村さんはスコアを丁寧に折りたたみ、小さなバッグに入れた。10年越しの告白を終えて、球場に背を向けた。「記事、よろしくお願いします」。小さく頭を下げて。

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