【古川 諭香】「うちの子を殺さないで」…発達障害と診断された女性が「山村留学の里親」に言われた「衝撃的なひと言」と「その後」

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近年は「発達障害」という言葉そのものや具体的な特徴が世間に広まり、少しずつ理解が得られるようになってきている。だが以前は、発達障害が安易に少年犯罪(の発生)と結び付けられるなど、正しい知識が浸透しておらず、当事者は心ない声に傷つくこともあった。
ウェブライターの詩歩子さん(@P1L32PlZ29NlMEu)もそのひとりだ。彼女は発達障害当事者への差別的な発言や里親からの心理的虐待によって複雑性 PTSD を発症した。
彼女が抱える複雑性PTSDは、長期間に及ぶ虐待やDVなどのトラウマ体験によって発症する精神疾患だ。詩歩子さんが思い出せる一番古くつらい記憶は、保育園の頃に薬を飲まなかったことで激昂した母親から叩かれ、歯が折れたこと。当時、詩歩子さん宅は母子家庭で、若かった母親は精神的に不安定なときがあり、しばしば手を上げることがあった。
通っていたのは無認可の保育園だった。そこの保育士は「股間を切る」などと男児を脅すことがあるなど問題のある人物で、詩歩子さんも叩かれるなどの被害を受けていた。
詩歩子さんは小学校に入学してからも、壮絶ないじめに遭う。背中を踏まれたり、校内を引きずりまわされたり、なけなしのお小遣いをゆすられるなど、おぞましい行為の数々に耐え切れず、逃げ場所を探していた。
そして小学校6年生になる頃、大きな決心をする。親元を離れて自然豊かな農山漁村に移り、里親とともに暮らす「山村留学」をすることに決めたのだ。
当時は転校をするとなると、周囲から心ない視線が向けられ、それが後までついてまわる時代だ。では山村留学ではどうだったのかというと、詩歩子さんは里親宅で衝撃的な体験をする。里親は実子に、毎日のように虐待を繰り返しており、詩歩子さんはそれを目撃することになったのだ。
「サバイバルナイフで脅す、川に突き落す、山の中に置き去りにするなど、殺人と言ってもいいようなレベルのおぞましい虐待でした。実子さんはサバイバルナイフが身体にかすって血が止まらなくなっても、病院に連れられるどころか治療すらされず、放置されていました」
詩歩子さんは里親から暴力を振るわれなかったが、精神的な虐待を受けた。毎日2時間にも及ぶ理由なき説教が繰り広げられ、「母子家庭だからお前の母親はおかしい」などと罵られたのだ。
虐待やいじめから逃れるために山村にやってきたはずなのに、同じような年頃の子供が傷つけられるのを目の当たりにし、そのうえ里親に罵倒されるーー。そうしたやりきれない生活の中、詩歩子さんは“リストカット”という言葉も知らない年頃から、自然とリストカットに及ぶようになってしまう。
それに気づいた「留学先」の小学校側は、詩歩子さんを「おかしい子」と捉え、精神科に行くよう勧めた。
当時としては珍しかった児童精神科にかかった結果、詩歩子さんは発達障害であることが判明した。詩歩子さんが発達障害であることを知った教師は、「お前は殺人鬼と一緒」と罵った。
「当時は発達障害と少年犯罪は関連があると報道されることもあったからか、里親さんにも『うちの子を殺さないで』とか『損害賠償になるから、うちじゃなくて自分の家で飛び降りて死ね』と言われました」
結局、里親は半年ほどで「わがままで手に負えない」と理由をつけ、詩歩子さんを追い出した。かと言って、帰ればふたたび虐待やいじめに遭うかもしれない。悩んだ挙句、詩歩子さんは祖母と空き家を借りて暮らし、なんとか留学先の小学校を卒業した。
地元の中学校に通うと、またいじめられてしまうーー。そう思った詩歩子さんは進学校である私立の中高一貫校を受験し、合格。通学には 1 時間以上かかったが、今までになかったような充実した学校生活がスタートした。
だが、それも長くは続かなかった。中学3年生の終わりに突然、発達障害と少年犯罪を絡めた、かつての罵りが心に蘇ってきた。過去のトラウマがフラッシュバックしたのだ。
「いつか私も事件を起こしてしまうのでは…」と不安になり、頭の中はいつも少年犯罪でいっぱいになってしまう。実際に起きた事件を延々と調べるようにもなった。
そんな状態でこなさなければならなかったのが、膨大な宿題。中学生にもかかわらず、難関大学の過去問を1日10ページ以上解かされるような学校だったのである。
「私は高校の特進科への進学を希望しており、教師には有名大学の合格も夢じゃないと言われるほどの成績でした。でも、少年犯罪のことが頭から離れなくて…」
詩歩子さんのようにトラウマとなったことが頭から離れず、考え続けてしまうのも複雑性PTSD の症状のひとつである。ストレスや不安が限界に達した詩歩子さんは閉鎖病棟に入院。以後、15 歳から 23 歳まで 17 回入退院を繰り返す。
「閉鎖病棟に入院すると、教師からは転科を勧められました。そこで、芸術科へ転科したけれど、生徒のレベルが高くて委縮しました。授業中には教師から『お前のせいで授業が遅れる』と怒られ、学科長からは『女子高生としての価値がない』と言われたこともありました」
理不尽な暴言を受けながらも、詩歩子さんは部活への参加を考えるなど、学校生活が少しでもよいものになるように努力する。だが、入部の希望を伝えた時も偏見に苦しめられた。「君は発達障害で感性がないから入らないで」と教師から拒絶されたのだ。
「最終的には、発達障害であることを理由に学校側から強制退学を迫られました。私自身、ここにいられないと思ったので他県の高校に転校しました」
詩歩子さんの転校先は、いわゆる教育困難校だった。教育困難校とはさまざまな背景や問題を抱えた子供が集まり、一般的な教育が成立しない高校のことを指す。
転校先の教師のほとんどは勉強を教える意欲がなく、生徒が堅実な夢を語っても「そんなのになってどうするの?」と返答していたそう。
「入らなきゃよかったと思ったけれど、当時はドロップアウトしてしまったら大学受験は無理という雰囲気が強かった。だから、何度か精神病棟に入院しながら、ひとりで勉強しました」
そんな日々から抜け出すきっかけとなったのは、通っていた高校で自殺者が出たこと。母親と相談し、詩歩子さんは高3の5月に退学。その後は1年間、閉鎖病棟に入院した。
この頃、詩歩子さんは解離性障害を発症。解離性障害とは記憶や意識、知覚、アイデンティティ(自我同一性)をひとつにまとめる能力が一時的に失われる精神障害だ。詩歩子さんの場合は夢の中にいるような感覚であったそう。当時の記憶はあまりない。
「閉鎖病棟では、患者が自由に出入りできない保護室に入ったこともあります。保護室はトラウマ。男性の看護師から体を触られたこともありました。17 歳の誕生日を閉鎖病棟で迎えた時の虚しさは、今でも覚えています」
退院後は、希死念慮と闘う日々。電車への飛び込み自殺が頭をよぎる中で、なんとか通信制の高校へ入学。大学受験を志し、自分を保っていた。
だが、再び少年犯罪のことが頭から離れなくなり、過去に受けた言動がフラッシュバック。成績はよかったが精神的に持たないと感じ、大学受験を諦め、再び閉鎖病棟へ入院した。
「でも退院後にやっぱり大学に行きたい、勉強したいと思って通信教育部へ入学しました」
ところが、レポートの日付の間違いを指摘しただけで「辞めてください」と言われるなど不信感が募る出来事が重なり、自主退学を選択。再び、閉鎖病棟での日々を過ごした。
生き方が変わったのは、25 歳の頃だった。きっかけは精神疾患者の就労継続支援 A 型事業所・就労継続支援B型事業所を展開し、クリエイティブな活動を後押しする鹿児島県の「株式会社ラグーナ出版」を知ったことだ。
興味を持った詩歩子さんは障害者グループホームに入居しながらラグーナ出版が運営していた自立訓練に3年間通う。卒業後は、ひふみよ株式会社が運営する「ひふみよベース紫原」という就労継続支援B型事業所で「ひふみよタイムズ」のライターに。その傍らで、文芸公募に応募し、エッセイや短歌を生み出すようになった。
すると、文才が世間にも評価されるように。財団法人九州文化協会が開催している九州芸術祭文学賞では次席を受賞。手掛けたエッセイは『思考の整理学エッセイ賞』優秀賞受賞に選ばれ、詠んだ短歌は短歌の日に向けた電子書籍の短歌アンソロジー『短歌の日の本 2024』に採用された。
現在は、ラグーナ出版が発行する雑誌『シナプスの笑い』にて、小説『夕暮れ散歩』を連載中だ。
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