「私の赤ちゃんを返して!」
グエン・ティ・ハーさん(当時21歳)のことを思い出すとき、真っ先に浮かぶのは泣き叫んでいる姿だ。電話越しでも、初めて会ったときも、その後、何度も顔を合わせるなかでも、彼女はいつも泣いていた。
赤ちゃんを取り上げられてしまった母親として、狼狽し、深く悲しみ、怒り狂い、不安に押しつぶされそうになっていた。
本当は笑顔のよく似合う、とても明るい子なのだと知ったのは、だいぶ経ってからのことだった。
ハーさんは2019年4月に来日して、名古屋市の日本語学校に留学していた。留学生の多くがそうするように、日本語を学んだ後は専門学校に進学するつもりだった。卒業したら技人国の在留資格を取得して、日本で働くことを目標にしていた。ところが、そのスタートを切った矢先に妊娠してしまう。相手は飲食店のアルバイト先で知り合った、21歳の専門学校生B君。日本人だった。
妊娠を機に、2人は結婚したいと考えた。しかしB君の母親が、若い彼らの決断を許さなかった。ハーさんはB君の自宅まで足を運び、2人で何度も説得を試みたものの、認めてもらうことはできなかった。それどころか、結婚だけでなく出産にも反対され、「Bに子どもを認知させるつもりはない」とまで告げられる。結果、B君と別れてしまう。
お腹の子どもとともに「ノー」を突きつけられてしまったけれども、ハーさんだけは子どもを見捨てることができなかった。やむなく、1人で産もうと決意する。
そんななか、妊娠を知って助けてくれた人もいた。ハーさんが通う日本語学校の教師たちである。日本には、未婚のシングルマザーを対象にした公的手当があることを教えてもらい、アドバイスに従って市役所を訪問し、援助を求めたのだった。
市役所の職員から説明を受け、何度も窓口に通って出産育児一時金や、ひとり親家庭に支給される児童扶養手当の申請手続きを進めていく。しかし、日本の社会のしくみも、言葉もよくわからないまま、1人で子どもを産もうとしている若い外国人に、市役所職員は不安を覚えたようだ。
特に職員の不安を煽ったのが、手続きに必要な書類のひとつとして提示された預金通帳だった。印字されていた残高は、7万円。どうやらそれが、ハーさんの全所持金のようだった。
裏を返せば、だからこそ公的な支援が必要であり、煩雑な手続きを行っていたわけだけれど、市役所職員から児童相談所に通報されてしまう。それを受けて児童相談所の職員は、ハーさんが暮らすワンルームのアパートを何度か訪問。彼女が生まれてくる赤ちゃんのために、ささやかながらおむつや衣類などを準備していた様子を確認している。
2020年2月中旬、ハーさんは病院で女の子を出産した。そして、満足な育児ができないと判断した児童相談所は、“無断で”赤ちゃんを病院から連れ去り、一時保護してしまう。
気づいたら自分のもとから赤ちゃんがいなくなっていたのだから、ハーさんは産後のだるさを引きずりながらパニックに陥った。
「無断で連れ去った」というのは、あくまでも彼女の主張で、何かしらの断りや通達があったのかもしれない。いや、「あった」と考えるのが普通だろう。いずれにせよたしかなのは、日本語のよくわからないハーさんが理解できるような説明はなされていなかったということだ。
ハーさんは日本で暮らす知り合いのベトナム人や、日本語学校の教師に助けを求めたものの、児童相談所が相手では誰もどうすることもできなかった。やがてベトナム人のツテで、名古屋市の緑豊かな郊外にある徳林寺に行き着く。ネパールやチベットでよく見られる五色の祈旗「タルチョー」が本堂の前で風になびいている、ちょっと変わった禅寺だ。
住職はネパールに10年ほど住んでいたことがあり、日本で生活に困ったベトナム人をはじめとする外国人を30年ほど前から保護している。また、2011年の東日本大震災の際は、被災者の受け入れも行っていた。まさに現代の駆け込み寺だ。
コロナ禍においても徳林寺は、路頭に迷った実習生や留学生を受け入れている。東海地域のベトナム人コミュニティともつながっていて、同じベトナム人を支援する立場として、日越ともいき支援会ともかねてから親交があった。
その住職から妊娠案件ということもあって、私のところに電話がかかってきたのだ。
「生まれたばかりの赤ちゃんを、児童相談所に取り上げられてしまったらしいのです。いろんなところを当たったようなのですが、どうにもならずお手上げ状態なので、助けてもらえませんか?」
淡々と説明する住職の声は、隣にいるらしいハーさんの泣き声にかき消されてしまいそうだった。
ハーさんが子どもを産んで1週間ほど経った頃、別件で私は神戸に行った。未知のウイルスがじわじわと、しかし確実に日本にも侵食していた時期で、私はよほどのことがない限り公共交通機関を避け、遠方にも車で移動するようになっていた。神戸の帰りに名古屋へ立ち寄り、赤ちゃんを一時保護している児童相談所にハーさんとともに出向いた。
「日越ともいき支援会というNPOの代表理事を務める、吉水といいます。私はここにいるハーさんの支援者です。そちらで保護している赤ちゃんを返してほしいのですが」
だが、対応した職員の態度は頑なで、冷たかった。
「NPOのあなたが突然来ても、子どもをお返しすることはできません」
児童相談所は全国に232カ所あり、うち152カ所が一時保護所を設置している(2023年4月1日時点)。それぞれに担当地域が決まっていて、これまでも何度か一時保護されている子どもの引き取りを求めて、私たちが交渉を行っている。だけど、支援者として名乗り出ているにもかかわらず、こんなふうに拒絶されたのは初めてのことだった。
なぜ、ほかでは可能なことが、ここでは認められないのか。支援者がいてもダメなのであれば、どうすれば引き渡してくれるのか。何をどう聞いても「できません」の一点張りだ。
「こうして来ているのだから、せめてお母さんを赤ちゃんと会わせてもらうことはできないのですか?」「面会を希望するのであれば、事前に予約を入れてください。その場合も、本人か弁護士でなければいけません」
支援者の私は、まるでいないかのような振る舞いだった。日を改めて電話すると、あのとき対応した職員につないでもらうことすらできなかった。
ハーさんは私たちに、資料として1枚の紙を見せてくれた。それは、児童相談所から発行された一時保護の通知書だった。ハーさんの手によって一度はビリビリに破られ、そしてまた彼女の手によってセロハンテープできれいに貼り直され、復元されていた。たかが1枚の紙切れに、さまざまな感情がこもっていて痛々しかった。
ハーさんに聞き取りをするなかで、思わぬ事実も明らかになっている。彼女の父親が日本にいるというのだ。児童相談所からつれない態度を取られてしまった私たちが次の作戦として考えたのは、その父親と連絡を取ることだった。
どうやら宮城県にいて、技能実習3号の在留資格で働いているらしい。ということは、少なくとも3年以上は日本に在住していることになる。勤務先に連絡してみると、雇用主いわく、勤務態度もまじめで安定した収入もあるようだ。
私たちは会社を通してハーさんの置かれている状況を伝え、生活費として毎月10万円を送金してもらうことはできないか、父親に打診した。もし、安定した経済的援助をしてくれる家族がいることを証明できれば、児童相談所も赤ちゃんを返してくれるだろうし、当面の暮らしもなんとかなるだろうと踏んでの提案だったが、これに真っ向から反対した人がいた。ハーさんの母親など、ベトナムで暮らす家族だった。
ハーさんの家族構成も、父親の仕送りを家族がどう使っているのかも、私の知るところではない。ただ、所得水準が年々上がっているとはいえ、ベトナムの平均月収は660万ドン(約3万8000円、2022年時点)だ。家族にとって10万円の仕送りを失うことが一大事であるのは、容易に想像できる。
娘の生活を援助するか否かで家族間で諍いが起き、「日本で勝手に子どもをつくった」ハーさんは、その元凶として責められる形になってしまう。
「これ以上迷惑をかけられないので、家族の言う通り、ベトナムに帰ろうと思うんです……」
出産前、B君やその家族から認知を拒否されても、1人で踏ん張ってきたのは、自分の家族には頼れないという思いがあったのかもしれない。最後の頼みの綱からも突き放されてしまったハーさんは、弱々しく泣きながら言った。
志半ばで打ちひしがれた彼女を、帰国させるわけにはいかない。私たちも最終手段に切り替えることにした。B君に対して強制認知を求めて調停を申し立てたのだ。
実をいうと私たちと出会う前も、彼女は日本語学校の教師のアドバイスにより、法テラスを利用して弁護士に依頼して認知を試みている。胎児認知といって子どもが生まれる前に行うものだったが、書類に不備があったのか、手続き自体がうまくいかないまま出産に至っていたのだ。
それに対して今回の強制認知という方法は、父親による自発的な認知(任意認知)が期待できない場合に、調停や裁判所の決定によって強制される認知となる。
なぜ認知にこだわるのかというと、日本人であるB君が法律上の親子関係を認めることで、子どもは日本国籍を取得できるからだ。そうすると、ハーさんはB君とは婚姻関係になくても、日本国籍を持つ子どもの母親として、定住者ビザを取得することも可能になる。強制帰国を免れる可能性も高くなり、さらに生活保護の申請も条件によってはできるようになる。
母子の生活の安定を考えると、それが最も良い選択といえた。
しかし、調停を進めているにもかかわらず、児童相談所は今回の事態を入管に報告して、ハーさんを赤ちゃんとともに帰国させようとしていることが判明する。すでに帰国便のチケットも押さえているという情報が、弁護士から届いたのだ。
たとえば、成績不良で除籍となり、在留期限が切れそうな留学生を母国へ帰すのなら納得もいく。
しかし、日本で生まれた子どもに関する調停が進行中であることを把握しながら、その当事者をさっさと帰国させようとする行政の態度は許しがたかった。これまで妊娠した多くの技能実習生などが遭遇したであろう、面倒な案件は“なかったこと”にしてしまうこの国の常套手段を、支援をしている最中に目の当たりにして、こういうことかと合点がいった。
結局、ハーさんと赤ちゃんが帰国を免れたのは、入管が帰国の手配を取り消したからではなく、コロナウイルスが急速に感染拡大して国際線が飛ばなくなってしまったおかげだった。
その間、調停でのDNA鑑定を経て、B君の子どもであることが明らかになり、強制認知は成立。弁護士の支援により、母子はようやく一緒に暮らせるようになり、母子生活支援施設(通称・母子寮)に入所することもできた。ハーさんは今、アルバイトをしながら子育てに励んでいて、B君ともときどき連絡を取り合っている。B君は父親として子どものことをかわいがり、子育てにも協力してくれているらしい。
ハーさんは日本語学校の教師や徳林寺の住職、名古屋市のNPO、日越ともいき支援会など、運良く多くの支援者に出会うことができ、修羅場と呼べるようないくつもの局面を切り抜けることができた。支援の事例としては、成功といっていいだろう。
一方で、ハーさんのように抵抗する機会すら与えられず、帰国を余儀なくされた人たちの悔しさに、思いを馳せずにはいられない。
子どものすこやかな成長を守るために、児童相談所はさまざまな虐待を早期発見する重要な機関とされている。家族という閉ざされた場所に介入するのはとても難しく、それなのに何か起きてしまったときは、真っ先に責任を追及される立場でもある。
重々わかっているけれども、今回の一連の対応には、疑問を感じてしまう。ハーさんは、犯罪行為やオーバーステイで摘発されたわけではない。日本人の子どもを妊娠した、留学生にすぎないのだ。
———-吉水 慈豊(よしみず・じほう)NPO法人日越ともいき支援会代表理事、浄土宗僧侶1969年、埼玉県出身。大正大学を卒業後、1996年に浄土宗の伝宗伝戒道場を成満し、僧侶となる。2013年に日越ともいき支援会を設立し、ベトナム人技能実習生・留学生の命と人権を守る支援活動を開始する。2020年に東京都より非営利活動法人として認可された。———-
(NPO法人日越ともいき支援会代表理事、浄土宗僧侶 吉水 慈豊)