“優しいおばあちゃん”として知られる美智子さま。だが、そのイメージとは異なる一面を指摘する声も、皇室関係者のあいだではたびたび聞かれる。
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息子である徳仁天皇との関係をめぐっては、幼少期の成育環境を示す具体的な証言も残る。「母の前では緊張した様子が見られる」という指摘も、その一つだ。
本稿では、ジャーナリスト・大木賢一氏の著書『「平成の天皇家」と「令和の天皇家」』(講談社)より一部を抜粋し、「天皇家の親子関係」の実像に迫る。(全2回の1回目/続きを読む)
今、明かされる「天皇家の親子関係」とは―― getty
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対比を繰り返す皇室の中で、平成を継いだ徳仁天皇はどのような個性を持ち、先帝たちのどのような面を乗り越えていこうとするのか。それを知る手掛かりとして、この章では関係者の証言や本人の発言、即位以来の行動などを探っていきたい。
ここではまず、徳仁天皇が学習院高等科に通っていた「浩宮」時代、現代文の教師として、担任に当たる「主管」を務めた小坂部元秀(おさかべ・もとひで)氏の著書『浩宮の感情教育』からいくつかの記述を引用する。「浩宮」の育った東宮御所での特殊な環境や両親の育て方、そして人間性が垣間見える重要なエピソードにあふれている。
小坂部氏は、高校生だった「浩宮」が書いた作文に「喜怒哀楽の感情表現が乏し」かったと指摘し、両親である明仁皇太子夫妻に面談した際の自らの言葉を次のように記している。
「先日の作文は、東北旅行を題材にした作文でした。文章はきちんと書けていますし、車中から眺めた風景や停車駅での駅員の様子なども丁寧に書かれていますが、どうも浩宮さんの人間が、というか感情があまり出てこない感じなんです。もっとも、浩宮さんが選んだ旅行記という題材からの制約もあったでしょうが、現代の高校生らしい喜びや悲しみや怒りの表現に乏しいと感じました(中略)」
私は言葉をつづけながら、私が浩宮の作文に求めているものは、所詮ないものねだりに過ぎないような気がしてきた。
その点について美智子妃からは
「そうですか、……そうかもしれませんね。――それは、浩宮は長男ということで、私もいろいろと細かい点まで注意するようにしたため、のびのびしたところが多少不足するようになったのかもしれません。兄と比べて礼宮(あやのみや)は次男ということで、逆にたづなをゆるめたようなところがあって、のびのびしすぎたようですけれど……」と、頸をやや傾げながら慎重な言いまわしだった。(中略)
――高等科の数学科の佐藤茂人教諭が、中等科時代の浩宮の家庭教師をつとめていたことがある。その時の話で、浩宮は自信がないと練習問題の解答をなかなか示そうとしなかったとか。数学の誤答を提出することを、嘘をつくことと同義に考えていたという。中等科時代の彼には、「誤答」→「嘘をつくこと」=「いけないこと」という、常識では考えられない思考の枠がはめられていたといえよう。
作文にも、それとは少しずれるが、日常生活における喜怒哀楽という「私情」を洩らすことを抑制する心理が働いていたのだろうか。(小坂部元秀『浩宮の感情教育』)
こうした記述からは、昭和天皇の「皇長孫」として生まれ、将来は天皇の地位を継ぐことが宿命づけられていた「浩宮」の成育環境が、一般の家庭の子どもとはまったく異質のものだったことがまざまざと分かる。
誤答を提出することが「悪」であるはずがないのに、なぜそのような思考に陥るのか。東宮御所での成育環境の特殊性というのは、一つには、常に人に見られ、周囲を大人たちに取り巻かれていること、二つ目に、「帝王学」の名のもとに、一種人間離れした高い道徳心の育成が求められていること、の二つに由来するのだと思う。この「誤答」を巡るエピソードは、後者の「道徳心」にまつわる象徴的な逸話なのだろう。
「間違ってはいけない」「常に正しくなければならない」という価値観は、学校で生まれるわけもないのだから、東宮御所で培われたと考えるべきだろう。東宮御所には侍従や養育係がたくさんいて、いかなる時も帝王らしくいるよう求められているのは、子ども心にも分かるはずだ。
だが、いわゆる「帝王学」が、子どもの「誤答」を戒めるような方向に向かうとは思えず、消去法で考えると、「誤答」を許さない気風は家庭の中にこそあったのではないか。家庭というのはすなわち美智子皇太子妃のことである。「浩宮」が子ども時代、学校の試験結果や成績がよくないと、東宮御所の2階からランドセルをさかさまにして中身を投げ捨てることがあったと聞いたことがある。
少年時代の「浩宮」は母に逆らえず、どうしても頭が上がらなかったという。それは大人になっても変わらない関係性であり、徳仁天皇を「母の前では、蛇に睨まれた蛙のようだ」と評する人を私は複数知っている。
不思議なことではあるが、こうした「母と天皇」との特殊な関係性は、昭和天皇にもあったことのようである。
昭和天皇が、母である貞明皇后を恐れていたことは知られており、前出の『昭和天皇拝謁記』には、そうしたエピソードが頻出する。
戦後、后である香淳皇后が着る服を戦中期の「宮中服」から和服に変更することについて、昭和天皇は「おたゝ様(皇室の言葉で「母」のこと)が御反対故、何ともいひ出しかねる」と話したり、「良宮(ながみや・香淳皇后)は大宮様(貞明皇后)のはっきりした御同意がないと恐ろしくて(服を)作れないらしい」と漏らしたりしている。母の政治的傾向を「時流に阿ねる御性質がある」と批判したりもしている。
このように、時の皇后や皇太后というものは、いつの時代にも息子たちにとっては恐ろしい存在なのかもしれないが、美智子上皇后の人当たりの厳しさは、取材していれば頻繁に耳にすることだ。
それは平成の時代を通じて描かれた「慈愛に満ちた優しいおばあちゃん」の姿とは大きく異なる。
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「今日もまた叱られるのかと思うと、朝行くのが憂鬱だった。叱られない日は心の底からほっとした」
激しい二面性を指摘する関係者も美智子さまの天皇に対する「別の顔」とは? 続きは以下のリンクからお読みいただけます。
〈「外では天女だが、内では般若の顔だ」“激しい二面性”を指摘する皇室関係者もそれでも美智子さまの教育が『徳仁天皇』に多大なる恩恵をもたらした理由〉へ続く
(大木 賢一)