〈三重県にあるナゾの島「売春島」を現地取材「売春ビジネスが廃れた理由は…」〉から続く
かつて“売春島”として栄えた渡鹿野島。そのビジネスを手放した先に待っていたのは、観光の再生ではなく、人口流出と高齢化という現実だった。仕事はない、若者は戻らない――。浄化の先で島は何を失い、何を得たのか。ノンフィクションライター高木瑞穂氏の新刊『ルポ 風俗の誕生』(清談社Publico)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/最初から読む)
【写真多数】「なぜ服を脱ぐ」色気ただよう下着姿のコンパニオンも…ナゾの島『三重県・売春島』で働く女性たち【売春婦たちのアパートも】
島のメインストリート(写真:筆者提供)
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「これは志摩市全体に言えるんだけど、情報発信がヘタだな、と。僕ら住んでいる側では気がつかないんだよね。だから若者に来てもらって、渡鹿野の『ここはウリになりますよ』と気づかせてほしいんだよね。
いま志摩市と交渉しているのは、総務省が『地域おこし協力隊』という方針を打ち出していて、それに渡鹿野も『入れてくれ』と。それが今年(2017年)に入りやっと実現した。『地域おこし協力隊』の最終目標は、県外から来た協力隊員がここに住める状態にまで持っていくこと。そのため、島で『店を開いてほしい』と要請してる。
それは土産物屋でもいいし、ちょっとした居酒屋でもいいし。そうした意欲のある人に来てもらって、島のよい情報を発信してもらいたいと願っているんだよね」
「わたるクン、かのんチャンという『ゆるキャラ』も、それの一環として」
「そう。いまはキャラクター時代だからね。ゆるキャラは大学生の発案で、ツテを辿ってつくってもらったのが『わたるクンとかのんチャン』なんだ。グッズも何もない。まだ使い方を考えていこうや、という段階だけど。また『音楽会もやろう』と。昨年(2016年)は祭りの前の日に地元のミュージシャンを呼んだり。一昨年(2015年)も『パールビーチ』でやったんだけどね。
離島での音楽祭はイメージがよいらしいからね。ロケーションもよいし。手っ取り早い客寄せだと思っている。ご覧のとおり島は年寄りばかりになっちゃった。だから、なんとかね。伝統ある『天王祭』にしても大変で」
「天王祭は青年部が尽力されているのですよね」
「青年部なんてもう、ない。だって青年がいないから。天王祭では神輿を担ぐんだけど、その担ぎ手が最低6人は要る。うち地元の人間はふたり。あとの4人は島外から借りてる。そんな状態だから祭りを開催するにも一苦労だよ」
「島育ちの若者は出てしまうんですか」
「そりゃ島には仕事がないもの。もちろん旅館の跡継ぎなどは残るけど。とにかく、仕事がなければ他所に求めるしかないので。もう高校進学時に島を出てひとり暮らしをはじめる。いったん出れば帰ってくることは皆無に等しいですよね。過去には志摩高校に通いの子もいたけど、伊勢に行けば距離的にもほとんど下宿だから。仕事があれば戻ってくる可能性もあるし、逆に他所から移り住んでくる可能性もあるけど」
「昔のように釣り船を出しても仕事にならないのですか」
「もう釣り船の要請がまるっきりない。だからみんな手放したよね。少しだけど筏釣りの客はいるね。海岸沿いに筏が浮かべてあるでしょう。あれは釣り筏なんだよね。船で筏まで運んで、時間が来たらまた迎えに行くという」
「漁業、農業も……ダメで」
「農業は年寄りが家庭菜園でやっている程度。漁業はナマコと青のり。その青のり養殖業でも2軒あるだけ。あとは牡蠣の養殖をしている人が4~5人。でも牡蠣だけではメシを食っていかれないから他に仕事をしながらね。ナマコは定年を迎えた余裕のある人たちが小遣い稼ぎしているだけで、漁師はいない。まあ、そもそもこの島に漁師がいないんだよ。船がないっていう実務的な問題で。やっぱり資金が必要だから。
またこの辺には市場がないでしょう。つまり取ってきてもカネに換える場所がないから。ホテルや旅館に卸すにしてもわずかだし、それに定期的に取れるわけじゃないからさぁ。
だから渡鹿野の漁業組合は魚を扱ってない。もう、この島には旅館業に携わるくらいしか仕事がないというのがいちばんの問題だよね。若い人が定住せず年寄りだけの島になった。これから先はどうやって生きていくのかなという心配がある」
「温泉を掘るとか」
「うん。某大型ホテルさんが温泉を持っているんだからさぁ、それを分けてもらえるようなシステムをつくればねぇ」
「足湯や公衆露天風呂をつくるなどの考えは……」
「公衆露天風呂をつくればいまよりよくなるやろなぁ。まあ某大型ホテルさんとしては、自分のところの客のお金は全部、自前の施設内で落としてほしい。そのために飲み屋やレジャー施設を併設して全部、自分のところに取り込む形で営業しているからね。その考え方は旅館さんも同じ。系列のスナックなどをつくってね。外を歩かさないような運営形態なんだよね。
だから周辺の商売があまりお金にならない。もっとも土産物にしても“渡鹿野”と書いてある名物は、昔のイメージから敬遠されることが多いんだけど。昔ね、ウチの妹が土産物店をやっていたことがあるんだけど、あまり流行らなかったな」
「Kさんは四国の方なのですか」
「それは俺も知らんな。でもね、昔に国税庁が入ったとき、実家が四国にあるっていうのは聞いた。というのも、国税庁は一斉に入るから『四国にも入ったらしいんや』とは聞いたよ。1985年ぐらいやった」
「島の景気の絶頂期ですかね」
「いや、もう下りかけていたころやろ。僕が1981年に帰ってきたとき、ちょっと前まではもう『メイン通りは黒山の人だかりやったで。頭しか見えへんのやで!』と聞いて、『そんなにお客さんおったんか!』とびっくりしたのを覚えているから。道路が見えへんまでではなかったから。でも、まだまだ当時は賑やかだった」
「1985年と1970年ごろとではどちらが栄えていたのですか」
「もちろん1985年やろ。通りはスナックだらけだったしさぁ」
「では1970年以前はそれほど大っぴらに置屋商売(スナック)をしてなかった」
「ないない。僕が家を出るころは某大型ホテルだってまだ瓦屋根の旅館。いまの『つたや』や『はいふう』がある場所にしても、埋め立てただけの平地だった。他には『水光館』というこれまた瓦屋根の旅館があっただけで、あとはみな民家。その民家の間に瓦屋根の芸妓置屋が数軒あっただけで、スナックなんてなかったんだから」
持参した1968年と1972年の住宅地図を、「確かにホテルもスナックもありませんね」とその場で広げた。では芸妓置屋はどれかとたずねると三橋さんは、老眼鏡をかけ、『大阪屋』と書かれた箇所を指し示しながら説明した。
「地図では個人宅になっているけど、この大阪屋の斜め奥が芸妓置屋だったよなぁ。僕が小学生くらいのころは芸妓さんを何人か置いていた。1軒、2軒……『ミシマ』という芸妓置屋もあったから3軒くらいかなぁ」
その置屋という単語の響きから、その昔も巷に流布する連れ出しスナックのような形態の店を思い浮かべていた。だが、屋号があるスナック形態の置屋ができたのは、4人が移住してきた1965年以降。つまりその前は、個人宅の名前で経営する芸妓置屋だったのだ。三橋さんが言う。
「とにかく、昔は飲み屋じゃなくて女の子を置いているのが置屋さんだった。芸妓置屋は、2階建ての大きめの木造住宅だった。玄関をくぐるとさぁ、すぐに階段があるんだよ。その階段を上がった2階には女の子の部屋があって。飲む場所なんて何もないよ。
だから当時はその地図どおりだよ。置屋であっても地図には置屋とは書いてない。あと、これも地図では個人宅になっているけど、中身は商店の家もあったよ。『菊水』『和平屋』……雑貨を置いていて、四角いテーブルがふたつほどあって、そこでうどんが食べれた」
「30年前、うどん屋に住み込みで内装業をしていた人にも話を聞きました」
「それは『菊水』やと思うな。2階に空き部屋があったから」
「そうして養女を受け入れるほど島が売春で栄えてきたので、Kさんの資金もありうどん屋などの商店もできていったんですね」
そうたずねると、あるファイルに納められた1枚の写真を指差し、三橋さんはこう説明した。
「1933年の風景や。これが大阪屋。そしてこれとこれが水光館と某大型ホテル。某大型ホテルしかり、いまのような鉄筋コンクリートのホテルじゃなく、みな木造で瓦屋根の旅館だった。某大型ホテルの先代は大阪から来た人でねぇ、確か絵描きだったと聞いている」
「当時の某大型ホテルや大阪屋は、どんな客層を相手に旅館業をやっていたんですか」
「このころの観光といえば釣り客ぐらいやわな。もちろん売春もあったと思うけど。でも昔ね、この島を『東洋のモナコにしたい』という話があったそうなんだ。
モナコといえば、カジノの盛んな地域だ。だから競艇場をつくる話もありましたよ。あとね、その昔、上山草人というハリウッド俳優がいたんだよ。
で、上山草人が渡鹿野に来て、風光明媚なこの島を気に入り『住みたい』といいだしたそう。それで当時の渡鹿野青年団が上山草人の別荘をつくってあげたそうなんだ。
上山草人は谷崎潤一郎と交友していた人で、谷崎潤一郎もまたこの島を気に入った。他にも名俳優・北大路欣也の父親・市川右太衛門や喜劇俳優の伴淳三郎も島に来て泊まっているんだよ。だから昭和初期の有名人が愛した島なんだよ。
なぜこの島を知ったかはわからんけど、こうして有名人が愛したほど昔から有名な島なんだよね。だからモナコの話が先にあり、昭和になってから競艇場の話が持ち上がった。いまの某大型ホテルが建っている場所の周辺を埋め立てしたのは、その競艇場をつくるためだったらしい」
ファイルをめくると、対岸の的矢地区の写真があった。見れば菱垣廻船や樽廻船といわれる、江戸と大坂を行き来する多くの帆船が、海岸線を埋め尽くすように停泊している様子が写されていた。聞けば、渡鹿野島より的矢のほうが停泊する船が多かったそうだ。当然、はしりがね(=菜売り)も行われていたという。この写真は周辺地域でも売春が行われていた事実の裏づけになった。
さらにファイルをめくると、名古屋と渡鹿野を航路で結んだ日東航空の水上飛行機の写真もあった。
芸妓置屋の写真もあった。三橋さんによれば、おそらく明治時代だという。
和装に文金高島田の女性たちが欄干から手を振っているその様子は、1965年ごろまで続いたのだ。
釣り船が盛んだったころの釣り船組合のメンバーの写真の中央には、制を纏ったキャンペーンガールまで。東洋のモナコ化計画が浮上するほど風光明媚なこの島には、売春を燃料に多くの観光客が来ていたことだろう。
これまで霧がかかっていた島の変遷を埋める作業をするにあたり、この三橋さんの証言は、売春島の歴史を晴れやかにした。一時期は違法カジノ店があり、覚醒剤などのクスリも蔓延していたことがのちの調べでわかっている。
もし競艇場ができるなどさらなる発展を遂げていたら、いまごろどんな風景が広がっていたのか。まさに飲む、打つ、買うの「桃源郷」になっていた。
そんな未来は来ることもなく、時代の波には逆らえず、伊勢志摩サミットの「余波」と風俗の多様化によりわざわざ大枚叩いて遊ぶまでもないという「現実」の前に、売春島は世間から取り残されてしまったのだ。
また朝が来て、新たな一日がはじまる。2023年ごろ、残るひとりのタイ人女性の娼婦が島から出たことを最後にこの島の売春産業は終わる。
「昔はよかった」
望んだ健全化のもどかしさを、多くの島民たちがこぼしたこの言葉で表していた。
(高木 瑞穂/Webオリジナル(外部転載))