老後の蓄えは多ければ多いほど安心。しかし、準備不足のまま手にした「想定外の富」が、かえって平穏な生活を壊してしまうケースがあります。ある60代夫婦の事例をみていきましょう。
関東近郊に住む佐藤健一さん(67歳・仮名)。子どもたちが独立した現在は、妻の美智子さん(64歳・仮名)と2人暮らしです。
生活のベースになっていたのは、月16万円の健一さんの年金のみ。足りない分は1,000万円程度の貯蓄を取り崩す……そんな「身の丈に合った暮らし」を送っていました。変化が訪れたのは、音信不通に近かった叔父の他界でした。
「まさか、自分に遺産が回ってくるなんて。しかも、あれほどの大金だとは夢にも思いませんでした」
健一さんの銀行口座に振り込まれたのは、不動産の売却益などを含めた約5,000万円。一気に資産は5倍以上に膨れ上がり、健一さんは美智子さんと手を取り合って喜んだといいます。
「これで、お金を気にせずに孫にプレゼントも買えるし、家のリフォームもできる。そう思ってしまったんです」
そこから、佐藤家の生活は少しずつ、しかし確実に変化していきました。まず手掛けたのは、長年先送りにしていた自宅のリフォームです。
見積もりは1,000万円。以前なら躊躇する金額ですが、「まだ4,000万円近くある」という心の余裕が判断を鈍らせました。さらに、現役時代の反動か、旅行や外食などの散財も目立つようになります。
「これまでは、たまの贅沢が1年に1度か2度だったのが、いつの間にか毎月になっていきました。一度上げた生活水準を下げるのは、本当に難しい。100円の卵の安売りを求めてスーパーを回っていた、あのころの感覚がどこかへ消えてしまいました」
不幸だったのは、まとまった金を手にしたことで、怪しげな「投資の勧誘」が次々と舞い込んだことでした。元本保証を謳(うた)う知人からの誘いに乗り、健一さんは残った資金のうち2,000万円を預けてしまいます。しかし、その知人と連絡が取れなくなるまで、時間はかかりませんでした。
気づけば、口座残高は大幅に減少。リフォームによって固定資産税は上がり、生活の質を上げたことで月々の赤字は膨らむばかりです。
「お金があれば幸せになれると信じていましたが、私たちにはこの額を扱う力がなかった。今は、通帳を見るのが怖くて仕方ありません」
相続や退職金といった、人生の後半で手にする「まとまった資金」の管理は、想像以上に困難を極めます。
警察庁によると、2025年の「特殊詐欺及びSNS型投資・ロマンス詐欺」の認知件数は42,900件。そのうち、60歳以上の被害は16,089件で、全体の37.5%を占めています。かつての対面型や電話勧誘だけでなく、デジタルツールを介した巧妙な手口で、退職金や相続直後の高齢層が狙われています。
また、国民生活センターの発表(2025年)によると、2024年度の消費生活相談において、契約当事者が65歳以上の相談件数は30万4,130件に達し、前年度から約2.6万人も増加しました。相談全体に占める高齢者の割合は38.6%となり、2020年度以降で最高数値を記録しています。
日本証券業協会が実施した『証券投資に関する全国調査(2021年)』では、証券保有者のうち「有価証券の購入経験が1回のみ」または「ほとんどない」層が一定数存在することが示されています。このように十分な投資経験やリテラシーがない高齢層が、相続等で突如として数千万円単位の資産を手にし、リスクを十分に理解せずに金融商品を購入したら――。その結末は想像に難くありません。
重要なのは、資産が急増したときこそ「月々の生活費(ランニングコスト)」を絶対に動かさないという意志です。相続や臨時収入で手にしたあぶく銭は、使い切ればなくなります。
しかし、一度贅沢に慣れてしまった「膨らんだ生活習慣」は、お金が底をついたあとも簡単には戻せません。資産が枯渇しても、高くなった食費や維持費だけが残り続け、結果として本来の年金生活を破綻させることになるのです。