26年前の1月28日、「息子の家庭内暴力に悩んでいる」という母親からの相談を受け、新潟県柏崎市の民家の2階に医師と保健所の職員が踏み込んだことから発覚した「新潟少女監禁事件」。この「息子」で無職・引きこもり状態だったS(当時37歳)が、’90年11月に9歳の少女を誘拐し、9年以上も人知れず自室に監禁していたことは世間に大きな衝撃を与えた。『FRIDAY』記者として取材に当たっていたライターの中平良氏が事件発覚当時の様子を振り返り、犯人の「その後」についても取材した。
「出所したら、雑誌とかで競馬の予想をやりたい。あと、自分のように潔癖症で苦しんでいる人の力になれたらとも考えています。誰か、出資してくれる人はいませんかね」
約9年2ヵ月にわたって少女を監禁した男は、千葉刑務所に面会に来たライターにこう未来を語っていたという。
衝撃的な事件が発覚したのは’00年1月28日のことだった。
〈新潟県柏崎市の男性の部屋から、行方不明だった少女が発見された〉
翌29日にこの事実が報じられると、多くの報道陣が柏崎市に押し寄せた。この事件は「新潟少女監禁事件」と呼ばれ、2月11日に逮捕される前から、一部の媒体では犯人Sの名前が報じられていた。
テレビ・新聞に加えて、週刊誌やスポーツ紙など多くの記者が、Sの自宅周辺や小中高の同級生を回り、取材は過熱する一方だった。多くの記者が情報を求めていれば、それを商売に利用しようと考える人も出てくる。ある飲食店は「Sが常連で、店では『変態くん』と呼ばれていた」と話し、連日、取材陣が客として詰めかけた。
ほぼ引きこもりだったSが繁華街を出歩くとは考えられないのだが、「もし本当だったら」と思うと、やはり客として行かざるを得なかったのだ。結局デマだったのだが、ある夕刊紙はその店の従業員にSらしき人物の似顔絵を描いてもらい、「スクープ」として報じていた。
当時報じられていたSの顔写真は、20年近く前の高校の卒業アルバムのもの。雑な似顔絵であっても、「まったくの別人」と言い切れる根拠もなかった。
それだけに、Sが逮捕されて身柄を検察庁に送られるときには、なんとかSの顔を撮影しようと、三条署の前に100人以上の報道陣が集まった。電柱に登り、「危ないから降りろ」と警察に怒鳴られるスポーツ紙の記者、フードを被って顔を隠すSに対し、護送車の窓を叩きながら「S、顔上げろ」と声を荒らげる週刊誌のカメラマンと、まさに白熱した雰囲気になったのだった。
それでも結局、どの社もSの顔を撮影できなかった。そんな中で『FRIDAY』は、Sの初公判が開かれた’00年5月23日に高所作業車をレンタルして、拘置所から出てくるSを高い場所から狙った。しかしブルーシートで隠されてしまい、撮影することができなかった。
当時、『FRIDAY』の記者として取材に当たり、その後もフリーライターとしてこの事件を追い続けた窪田順生(くぼたまさき)は取材者としては初めて監禁部屋に足を踏み入れた人物だ。彼によると、裁判が始まった頃のとある夜、初めてSの母親と接触できたのだという。
「その日、Sの母親のコメントを取ろうと5~6社が自宅の前にいました。そのうち1社、2社と引き揚げていくなか、夜10時を回った頃に、そっと母親が出てきたんです。するとパッと照明がついて、テレビの記者がカメラを向け、母親は驚いて固まってしまいました。それで、とっさに関係者のふりをして『やめてください』と言いながら、母親を抱きかかえて自宅の玄関まで入ったんです」
玄関先で社名を名乗ったあと、いくつか世間話をしたものの、事件のことには触れなかったという。
窪田が、再びSの母親に会いに行ったのは、新潟地裁で一審判決が下された’02年1月頃。窪田は当時のことをこう振り返った。
「2年ほど経っていましたが、以前に会ったことは覚えていました。それから継続的にSの母親を取材するようになったんです。Sはドライブが趣味で、母親とよく遠出していたのですが、潔癖症のため食事をすることも泊まることもなく、ほとんど車から降りなかったといいます。『温泉ぐらい行きたかった』というので、母親を連れて、カメラマンと3人で富山の温泉まで1泊のドライブに行ったんです。車中では、ずっとSの話を聞いていました」
そして、Sの自宅にも入るようになったという。窪田が続ける。
「Sの部屋があった2階にも何度か上がりました。まず目についたのは、2階の廊下や壁の塗料がぜんぶ剥げていたことです。Sは尿など排泄物をビニール袋に入れて、その辺に置いていたので、アンモニアで溶けてしまったんです。
ただ、母親はかたくなに2階に上がることを拒んでいました。2階を見上げるだけで、Sから『ビリビリの刑』といってスタンガンを当てられていたので、その恐怖が染みついていたんです。それでも、やっと、いっしょに2階に上がったときには、『こんなに狭い部屋だったのか』とつぶやいていました」
Sの母親へのインタビューを繰り返し、’06年4月に『14階段』という本にまとめた窪田。しかし、「新潟少女監禁事件」との関わりはこれで終わりではなかった。’08年頃、『14階段』の出版元である小学館に、当時獄中にいたSから窪田宛てに手紙が届いたのだ。Sは’03年8月に懲役14年の実刑判決が確定していた。
窪田は当時のことを思い返しながら、このように話してくれた。
「千葉刑務所に収容されたSは、そこで『14階段』を読んだそうです。初めは『でたらめばかり書きやがって』と腹が立ったといいます。しかし何度も読み返すうちに、いろいろと納得できる点もあり、『もしかしたら、窪田という男は、最も自分のことを理解してくれているのではないかと思うようになった』と伝えてきたんです」
その後、千葉刑務所に面会に行くようになり、Sの刑務所での不満を聞いたり、求められるまま、アイドル雑誌や車のチラシを差し入れたという。そして冒頭のように、出所後について相談されたこともあったという。Sから届いた手紙は約30通。
しかしある日、突然、Sとの関係に終わりがくる。窪田が続ける。
「潔癖症のSは他の受刑者と同じものが食べられなかったりと、いろいろ問題を抱えていました。医療刑務所への入退院を繰り返すなか、Sの体調を心配した刑務所側がソーシャルワーカーを付けたんです。そして、出所後のことを相談するなかで、今後の生き方を決めたとのことでした。最後の手紙は、『障がい者手帳を取得して、出所後は障がい者として生きていくことにしました。そのためには周りの人の力が必要なので、ジャーナリストの窪田さんとはもう会えません』というものでした」
Sは’15年に出所、母親は服役中に亡くなっていた。出所後、Sがどのような生活を送っていたのかはわからない。
わかっているのは、’20年1月に新潟日報が〈Sが’17年ごろ、千葉県内のアパートの一室で亡くなっていた〉と報じたことだけ。その亡くなったアパートが、貧困ビジネスに使われているのではないかとネット上で指摘されていたそうだ。
事件発覚当時の狂躁状態とは打って変わり、「S死亡」のニュースを他社が後追いすることもさほどなかった。
そして現在──。事件から26年がたち、Sは世間の記憶から完全に忘れ去られようとしているのかもしれない。
取材・文:中平良