齢者の住まいとして存在感が増している「老人ホーム」。入居が決まったとき、多くの家族は安堵し、そこで「ゴール」したかのように錯覚します。しかし、老人ホームへの入居は、あくまで新しい生活のスタートに過ぎません。入居時には完璧に見えても、時間の経過とともに綻びが出ることもあります。一度は手に入れたはずの安住の地を去らなければならない、または自ら去る決断をすることも珍しくはありません。今回は、実家じまいをして老人ホーム入居を決めた母子のケースをみていきます。
「母のため、そして将来の兄弟たちのためを思ってやったことだったんですが……。すべて裏目に出てしまいました」
都内のメーカーに勤務する高田健一さん(仮名・55歳)は、九州の実家に一人で暮らす母・和子さん(仮名・80歳)の「終の棲家」をめぐる決断について、深い後悔を語ります。
高田さんは三兄弟の長男ですが、弟たちもすでに持ち家があり、誰も九州の実家に戻る予定はありませんでした。父が他界して5年。広すぎる一軒家に母1人で住んでいる状況は、防犯面でも、建物の老朽化という面でも不安の種でした。
「母は『大丈夫』と繰り返していましたが、やはり80歳を過ぎて足腰が弱っていました。もし家の中で倒れて発見が遅れたらどうするのか。それに、誰も継がない家をそのままにしておいて、将来的に空き家になるのも避けたかった。だから、母が判断能力をしっかり持っているうちに家を売却し、その資金で設備の整った老人ホームに入ってもらうのがベストだと考えたのです」
高田さんは帰省のたびに母を説得しました。最初は「思い出が詰まった家だから」と渋っていた和子さんでしたが、息子の「お母さんの身に何かあってからでは遅いんだよ」という言葉と、近隣でも空き家が増えている現状を鑑み、ついに首を縦に振りました。
そこからの動きはスピーディーでした。高田さんは遠隔で不動産会社とやり取りをし、条件の良い買い手を見つけます。同時に、実家からタクシーで20分ほどの場所にある、新設された有料老人ホームへの入居も決めました。入居一時金は実家の売却金で支払うとして、月額費は年金月15万円ほどの母にぴったり。パンフレットに載っている写真はキレイで、スタッフの対応も電話越しではあったものの親切・丁寧。ここなら母も安心して暮らせるだろう、と高田さんは判断したといいます。
売買契約と入居手続きをほぼ同時に進め、実家の中にある大量の荷物も業者を入れて一気に処分。和子さんは身の回りのものだけを持って、新しい施設へと移り住みました。しかし、入居から1ヵ月後、高田さんのもとに、和子さんから電話がかかってきました。
「健一、私、ここを出たい……」
生まれてからずっと、一軒家で暮らしてきた和子さん。マンションなどの集合住宅で暮らしたことはなく、“壁を隔てて他人がいる”という環境にどうしても慣れない、というのです。母の訴えに、高田さんは返す言葉が見つかりませんでした。戻るべき家は、もう他人の手に渡っています。鍵もなく、家具もすべて処分してしまいました。
「実家さえ残っていれば、『一度家に戻って、別の施設を探そう』などと言えた。私が急かしすぎたせいで、母は八方塞がりになってしまった」
ホームでの生活に慣れるしかないという状況。和子さんは今もじっと耐えているといいます。
老人ホーム入居に際し、施設とのミスマッチはよく起こること。パンフレットや短時間の見学だけでは、実際の住み心地やスタッフとの相性、他の入居者との人間関係までは見抜けません。どんなに評判の良い施設であっても、本人に合うかどうかは「住んでみなければ分からない」のが現実です。
株式会社Speee/ケアスル 介護が行ったアンケート調査によると、「現在入居している施設は何施設目ですか?」の問いに対して「1施設目」と回答したのは61.6%。つまり、4割は「転居経験あり」ということ。老人ホームにおいて、転居・退去は珍しいことではないのです。
ここで問題になるのが、老人ホーム入居にあたっての資金繰り。高田さんのように「実家の売却益を入居一時金に充てる」という資金計画を立ててしまうと、売却と入居のタイミングを合わせざるを得なくなります。結果、万が一施設が合わなかった際に、戻る場所も資金的な余裕もないという八方塞がりの状況を生んでしまうのです。
遠方に住む子供世代としては、維持管理の手間を一日も早く手放したいと考えるもの。しかし、高齢者にとって、長年住み慣れた「我が家」を失う喪失感は、若い世代が想像する以上に大きいものです。また「自宅がある」という事実は、施設生活に馴染むまでの精神的な安全装置としても機能します。「嫌なら家に帰ればいい」と思える余裕が、結果的に新しい環境への順応を助けることも多いのです。
老人ホーム入居に際し、必要なことは「資金繰りに余裕を持たせる工夫」。 たとえば、入居一時金が不要、あるいは低額な「月払い方式」の施設を選び、まずは実家を残したまま入居をスタートする。あるいは、実家をすぐに売却せず、「空き家バンク」や賃貸などを活用して維持費を捻出しながら、施設での生活が定着するまで半年から1年ほどの「お試し期間」を設けることです。
また、どうしても売却資金が必要な場合でも、自宅を売却後に賃貸として住み続けられる「リースバック」などのサービスを検討し、物理的な「帰る場所」を即座に消滅させないクッションを置くことも選択肢に入ります。
まずは施設生活に慣れてもらい、親自身が「もう家に戻らなくても大丈夫」と思えたタイミングで、初めて売却のハンコを押す。それくらいの慎重さと時間的な猶予を持つことが、結果として親子の笑顔を守る近道となるのです。
[参考資料]
株式会社Speee/ケアスル 介護『介護施設の転居回数は?「ケアスル 介護」にて介護施設の転居に関わるアンケートを実施』