史上最悪の少年犯罪と呼ばれる「綾瀬女子高校生コンクリート詰め殺人事件」。たった7日間しかなかった昭和64年(1989年)1月に被害者のX子さんは命を落とした。
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事件から15年後、「報道ステーション」ディレクター(当時)で、現在は北海道放送(HBC)報道部デスクを務める山裕侍氏は、準主犯格Bの母親に話を聞いた。事件前後の家庭環境と、母親の視点から見た息子の姿とはーー。本日1月7日発売の山氏の著書『償い 綾瀬女子高校生コンクリート詰め殺人事件 6人の加害少年を追って』より一部を抜粋して紹介する。(全2回の1回目/続きを読む)
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2004年7月22日、浅草のホテルに和室を用意した。僕とカメラクルーは到着するなり部屋のレイアウトをバタバタと変更した。母親にインタビューするにあたり、匿名が条件のため顔を映すことはできない。
撮影は僕が信頼する柳本大介氏。4年前の『ニュースステーション』の特集でもカメラマンを務めた。事件の概要、母親の状態、インタビューの狙いを話し合い、柳本氏の提案でカメラアングルを真俯瞰にすることに決めた。カメラは母親の背後に回り、高い位置に固定して、見下ろすように撮影する。ポジションは一切動かさない。異例の構図だ。真俯瞰はすべてを等しく視る神の目線。
再犯した息子について、母親は懺悔し、言い訳に聞こえるような弁護をするかもしれない。それをどう感じるかは視聴者に委ねたい。だから映像は母親に対して共感や反感などの感情移入が起きる余地を排し、中立的な世界を作りたかった。それに、母親にカメラマンや音声マンの存在を意識させたくなかった。
2人の到着を待つ間、胃が痛くなる思いだった。センシティブな取材はいつもこうだ。これまでも重要な証言となるインタビューの約束を取りつけながらも、当日になって相手から「やはり難しい」「体調がよくない」と言われ、土壇場でキャンセルされることがあった。だから実際にカメラが回るまで、安心できない。
午後2時半、男性が母親を連れて現れた。ようやく会えた母親は、長い髪にパーマをかけた小柄な中年女性だった。七分丈の黒いシャツに黒いズボンと喪服のような色合いだが、客商売をしているせいか、ブローチをつけるなど華やかな印象だ。伏し目がちな素振りは、息子が大きな罪を犯したことへの罪悪感からというより、世間の冷たい視線から逃げようとしているように見えた。
男性は素性を明らかにした。Bの3歳上の姉の夫、つまりBにとっては義兄だ。母親に取材に応じるよう説得したのは彼だった。
ぎこちなく座布団に座った母親にピンマイクをつけ、カメラマンと音声マンは後方に退いた。
「15年前に綾瀬で起きた事件について、当時の息子さんとの親子関係はどうでしたか?」
最初に聞くべきことは綾瀬事件についてだと決めていた。
「関係といいますと、会話があるとかないとかですか? 会話は、ほとんどなかったです。家にも寄り付かない状態の。まあ、事件現場のおうちに、ほとんど行っていたという感じ。一回、事件現場の(Cの)お母さんが見えて、何かありそうなんです、何か起こしそうなんですって言ったときに、私は『お宅に伺っても何もできないから、警察に言ってください。お願いします』と申し上げたことはあります」
長く夜の仕事をしてきたためか、母親はマスコミである僕に対しても物怖じせず、きっぱりと話す。「男まさりの性格」という評判のままだった。それにしてもX子さんが殺害される前に、BとCの母親のあいだで事件を予感する会話をしていたことは初めて知る内容だ。
「そのあと結局どうしましたか?」
「事件が起きました」
母親は、答えにくい質問に対しては、短い言葉しか発しない。おのずと質問は畳みかけるような口調となった。
「事件が起きてどう思いましたか?」
「もう、思うような自分が、精神状態が、ではなかったです」
「最初にどういう形で知ったのでしょうか?」
「事件は警察から聞きました」
Bは高校の途中から外泊することが多くなり、事件発覚のときは別の強姦事件や窃盗事件で逮捕されていた。
「息子さんとはすぐに会えた?」
「いえ、会えませんでした」
Bは練馬の東京少年鑑別所に収容されていた。母親がBと面会できたのは逮捕から数日後。取り調べ中の警察署か収容先の少年鑑別所かは覚えていないという。
「事件の中身については知っていましたか?」
「はい。大体わかっております」
「それを知って母親としてどう思いました?」
「どういうふうに申し上げていいか……話ができないです。それは、あまりにも、被害者の方に申し訳ないと思っていますから……同じ子どもを持つ身になって、逆の立場で考えました」
僕の質問は、つい母親としての責任を問うものになっていった。
「話ができないというのはどういう理由からですか?」
「話ができないほどつらい思いです」
母親が言う「つらさ」は何なのか。
「いまだに私は、どうして、私も、納得いかなく、今、口にすることはないですけど、いつも、言葉だとか、ま、コンクリという言葉を聞いただけでも寒気がするほどつらい思いです。いまだに、ドラム缶という言葉も嫌ですし……」
母親の返答は途切れ途切れで、どこか他人事のような口ぶりだった。
Bと母親の関係はどのようなものだったのだろうか。
Bは1971年5月11日に生まれた。父親が24歳、母親が25歳のときの子どもで、生まれたときの体重は3700グラムと大きく発育も順調だった。住まいは足立区の都営団地で6畳と3畳の2間。父親は運送会社の配達員をしており、給料は少なかった。母親は洋裁の内職で家計を支え、一家4人で慎ましく暮らしていた。
だが両親の仲は、Bが生まれて1年後くらいにはすでに亀裂が入っていた。父親が同僚の女性と浮気をしていたことが発覚したからだ。両親は喧嘩が絶えず、父親は次第に家に帰らなくなった。Bが小学校にあがる前に関係が破局する。父親が家を出てしまい、浮気相手の女性と同居を始めたのだ。
母親は姉とBの2人の子どもを育てるため、昼は建設会社の事務員、夜はスナックのホステスとして日夜働いた。
「子どもと一緒に食卓を囲んだ記憶はほとんどないです。子どもの分の食事を作っておいて、自分は食べずに行くという……。出勤時間が決められていましたから、決められた時間に店に入らないと、罰金を取られたりするものですから。子どもにご飯を食べさせて、自分は義務的に動いていました」
「子どものころのBの性格は?」
「寂しがり屋で、甘えん坊で、だけど、それを出せない性格だったんだと思います」
〈《女子高校生コンクリ事件》「顔が変形するほど殴り」「抵抗する彼女を何度も強姦…」準主犯格Bの母親が明かした、「足立区の学習院」と言われたエリート校に進学した過去〉へ続く
(山 裕侍/ノンフィクション出版)