高市早苗政権が誕生した。一方でテレビのコメンテーターらかは「保守というより右翼」という批判や「死んでしまえばいい」などと度を越した発言が高市氏に投げかけられた。これは本当に「政治的公平」なのか。NHK党の元秘書で放送問題に詳しいコラムニストの村上ゆかり氏が解説していく――。
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高市早苗総理の就任以降、テレビのコメンテーターによる発言が次々に炎上している。まずテレビ朝日系「羽鳥慎一モーニングショー」で玉川徹氏が行った発言が挙げられる。玉川氏の発言は、「高市政権の合意文書を読むと『保守』というより『右翼』と呼ぶほうが分かりやすい」というものであった。番組では政策文書を題材に議論していたが、「右翼」という単語が強く印象に残り、SNSでは「レッテル貼りだ」等という批判が相次いだ。田原総一朗氏によるテレビ出演時の「死んでしまえと言えばいい」と発言した件も挙げられる。発言の背景には高市氏の政治姿勢への不満があったとされるが、その表現はあまりに攻撃的であり、放送後に批判が殺到した。
この二つのケースを冷静に検証すると、どちらも政策内容を掘り下げる議論より、人物イメージに焦点を当てている点が共通している。玉川氏の発言は政策文書を根拠にしているが、データや他の政治家との比較は示されていない。田原氏の発言は論評ではなく、明確な暴言に分類され、発言の前後に事実関係や政策評価はほとんどなかった。
両者とも政策に関する言及はごく一部であり、印象論・人格論の要素が大きい。リーダーの行動を批判するなら、根拠と論拠を示し、対案を出す必要がある。そうした姿勢がないまま、攻撃的な言葉だけが独り歩きすれば、放送の信頼は損なわれるだろう。
訂正や反論、フォローの有無も評価の分かれ目だが、玉川氏の発言に対しては放送局側から特段の訂正はなく、田原氏のケースでは局が謝罪したものの、放送前にチェック体制が働かなかったこと自体が問題視された。
テレビで発言するコメンテーターの言葉が、なぜこれほど炎上しやすいのか。個人の過激さやSNSの拡散力だけでは説明がつかない。根本的には、テレビというメディアの構造的な仕組みに問題があると筆者は考える。
テレビ番組は限られた時間で多くの情報を伝える。司会者、コメンテーター、専門家が次々と意見を述べ、短い言葉で印象を残すことが求められる。さらに、放送局は視聴率を最も重視する。視聴者の関心を引くために、刺激的な発言や強い意見を持つコメンテーターを起用する。報道体制の変化も要因の一つだ。報道とバラエティの境界が曖昧になり、ニュースが娯楽として消費されるようになった。情報番組が「ワイドショー化」し、専門家の意見よりタレントや司会者の感想が中心になる。テレビが公共性よりもエンタメ性を優先するようになったことが、言葉の軽さを招いている。
この構造の中で、最も責任が重いのは放送事業者だろう。コメンテーターの発言は個人の意見だが、放送も編集も局が行う。放送法第4条が求める「政治的に公平であること」は、あくまで放送局に課せられた責務であり、出演者個人ではない。発言のバランスを取るのは局の役割である。発言者だけを問題視しても意味がない。放送局は「表現の自由」を理由に、番組内容への介入を避ける傾向があるが、自由には当然、責任が伴う。公平性を担保するための第三者機関としてBPO(放送倫理・番組向上機構)が存在するが、勧告に強制力はない。
放送の信頼は一度失えば簡単には戻らない。視聴者はテレビから離れ、ニュースを信じられないと感じる人が増える。コメンテーター発言の炎上はその流れの一つである。
放送法には「政治的に公平であること」という言葉がある。多くの人が一度は聞いたことのある表現である。政治的公平とは、放送が特定の政党や思想に偏らず、さまざまな立場を扱うことを求めた理念である。放送法第4条第1項第2号に明記されており、放送局に課された基本原則のひとつである。放送法第3条にはこうある。
「放送番組の編集にあたっては、何人からも干渉されてはならない。」
この一文と第4条第1項第2号をあわせて読むと、戦後の日本が何を目指したのかが見えてくる。つまり「政治から自由であり、同時に公正であれ」という二つの理念である。
戦前の放送は国家の宣伝機関だった。大本営発表を繰り返し、国民を戦争へ導いた。敗戦後、この反省から「放送は国のためではなく、国民のためにある」という考え方が生まれた。
そこから放送法が作られ、政治的公平という言葉が定められた。理念は美しく、戦後民主主義の象徴だった。
この理想を実際に守るのは極めて難しい。どこまでが公平で、どこからが偏向なのか、公平を測る基準そのものが曖昧だからである。さらに、放送法には罰則もなく、明確な審査基準も存在せず、すべての判断は放送局自身と視聴者の感覚に委ねられている。
公平の理念を守るには、放送局自身の努力が欠かせない。たとえば、ニュースを扱う際に複数の視点を出し、根拠を示し、誤報はすぐに訂正する、などである。公平とは多様な視点を理解し、誠実に情報を整理することである。しかし、仮に放送局の現場で政治的公平を守る意思があったとしても、制作時間は短く、スポンサーの意向等もあり、政治的公平の理念は現場で実行しづらい。まさに、放送法で定められた理念は形骸化している。
政治的公平をめぐっては、2016年に高市早苗総務相(当時)が行った国会答弁が波紋を呼んだことがある。高市氏は「個々の番組でも著しく公平を欠けば電波停止もありうる」と述べた。この発言は大きな波紋を呼び、報道の自由を脅かすのではないかとの批判が広がった。しかし、この批判は「放送法に定められた政治的公平は守ることができる」という前提に立っている。
政治的公平を法律で求める国は多くない。各国は放送の自由を守りつつ、公平性をどう保つかを試行錯誤してきた。
アメリカではかつて「フェアネス・ドクトリン」という制度(放送局が政治的問題を扱う際には、対立する意見を公平に伝えなければならないというルール)が存在した。しかし、1987年に表現の自由を侵害するという批判により廃止された。連邦通信委員会(FCC)は、放送に義務として公平性を課すことが報道の自由を脅かすと判断した。
制度廃止後、保守派のFOXニュースとリベラル系のCNN等、アメリカのテレビは放送局ごとに立場がはっきりし、視聴者も自分の思想に合う局を選ぶようになった。公平性は消えたが、言論の自由が広がった。多様な放送局が存在することで、全体として意見の多様性が確保されると考えられている。
イギリスでは放送通信庁(Ofcom)が法的権限を持ち、放送内容を監督しており、重視されるのは「すべての番組で絶対的中立を求めること」ではなく、「放送全体でバランスを取ること」である。違反があれば罰金や免許停止もありうるが、行政は細かい内容に介入せずに放送局が自律的に説明できるかどうかを重視する。
日本の放送法は、制度上はこのイギリス型に近いが、運用の実態はアメリカ型に寄っている。政治家が放送内容に口を出せば「検閲だ」と批判され、放送局が自主的に判断すれば「偏向だ」と批判される。日本はイギリスとアメリカ、どちらの特徴も中途半端に取り入れた結果、誰も責任を取らない仕組みと化した。
政治的公平は、戦後の放送自由を守るための盾として生まれた。戦前の国家統制への反省から、放送法は「政治から独立し、公正であれ」と定めた。放送人は権力から距離をとり、国民に誠実な情報を届けることを使命とし、政治的公平は国民の信頼を得るための倫理だった。
しかし、放送はかつての公共性を失いつつある。権力と距離を取っていたはずのメディアに多くの利害が入り交じり、SNSの普及によってこうした構造が徐々に可視化され、放送はもはや“聖域”ではなくなった。無論、公共放送であるNHKも例外ではない。政治報道の扱いや受信料制度、番組内容をめぐって定期的に炎上し、スクランブル放送を求める国民は少なくない。
放送法に定められた政治的公平の理念そのものは正しい。しかし、実現困難な理念のもと、テレビのコメンテーターや報道局を一方的に叩き続けるだけでは何も変わらない。政治的公平を守ることが困難である現状を踏まえ、放送に係る制度を大幅に見直すべきではないか。放送がどう作られ、どんな利害が関わっているのか、徹底した情報公開等で、国民が判断できるようにすべきである。ただ上っ面だけの公平を守ろうとするよりも、誠実な説明と情報公開で国民との信頼を築くべきである。メディアを神格化する時代は終わった。国民が考え、選び、監視する社会が、次の公平をつくる。メディアを批判するだけでなく、自らの判断で真実を選び取る社会を築く努力を怠らないことが、私たち国民に課せられた使命である。