7歳から18歳まで児童養護施設で暮らし、退所後はモデルとして活躍。現在は自身の経験や子どもたちにとって必要なサポートについて発信する田中れいかさん。児童養護施設での生活や、両親との関係についてお話を聞きました。
【写真あり】「まだあどけない表情…」児童養護施設に保護された小学2年生当時の田中さん(2枚目/全13枚)
── モデルとして活躍しながら、児童養護施設で暮らした体験を発信されている田中さん。児童養護施設に入所されたのは、おいくつのときですか。
田中さん:小学校2年生です。それまでは、両親と3歳上の兄、4歳上の姉と5人で暮らしていました。そのころは両親の関係が悪くて、夜中に物を投げつける音とか、お母さんの悲鳴が聞こえてくる。そんな生活でした。
そんなある日、母が家を突然出て行ってしまいました。それからは父の怒りの矛先が兄に向かってしまい、叩いたり、怒ったり…。姉と私は叩かれることはなかったのですが、怒鳴られたり、団地の廊下に立たされたりすることがありました。
ある晩、理不尽なことで父が姉に「出て行け!」と言ったんです。そうしたら姉は私を連れて、本当に家を出たんです。深夜0時を過ぎていて、私は何もわからず、パジャマ姿のまま姉について行きました。姉は交番へ行って事情を話したようで、私たちはそのまま一時保護されました。
── 一時保護所にはどれくらいの間いたのですか。
田中さん:1か月半くらいです。その間は学校には行けないので、プリントで勉強をしたり、ほかの子どもたちと一緒に、施設内のグラウンドで走ったりしていたのを覚えています。そのころ、どんな気持ちだったかはあまり覚えていません。「お父さんと離れて悲しい」という気持ちはなかったと思います。
その後、姉と一緒に世田谷区の児童養護施設に移りました。私は覚えていないのですが、最近になって施設の先生から、「めちゃくちゃ泣いて、部屋の隅っこに座って『行きたくない!』って言ってたんだよ」「施設に来たとき、車の中から3時間も出てこないで、ずっと泣いていたんだよ」と聞きました。
入所した日のことはぼんやりとしか覚えていないのですが、担当の先生が「ここは大丈夫な場所なんだよ」と私が眠りにつくまで隣にいてくれた記憶があります。
私たちが入所してから1か月後に、兄も同じ施設に入りました。兄は学習障害があるので途中で障害者施設へ移り、姉は途中で施設を出てしまったのですが、小さいころは3人一緒で心強かったです。
── 施設での生活には、すぐに慣れましたか。
田中さん:そうですね。そのころの私は「児童養護施設」という言葉を知らなくて、「親と一緒にいられないからここにいるんだな」となんとなく理解している感じでした。私がいた施設には2歳から18歳までの子どもが暮らしていたので、小さい子と一緒に遊ぶこともありましたし、上級生からかわいがってもらった記憶もあります。
学校は、施設から通える小学校に転校しましたが、施設にいるという理由で、いやな思いをすることはまったくなかったです。当時は「施設から通っているだけで、ほかの子と変わらない」と思っていました。
施設には部活動があって、私は入所してすぐにバレー部に入りました。施設にもよりますが習い事もできて、私はボランティアの先生にピアノを習っていました。季節の行事もいろいろあって、誕生日にはお祝いもしてもらいましたし、クリスマスにはサンタさんが来てくれました。夏休みにはキャンプをしたり、冬にはスキー旅行に連れて行ってもらったり。おこづかいももらえます。
「施設で育った」と言うと、「かわいそう」という目で見られることもあるのですが、私はそんなことはないと思います。私にとって、施設は実家とは違うのですが、7歳から18歳までの思い出がたくさん詰まっている場所です。
── 施設の職員の方は、何人くらいいらっしゃるのですか。
田中さん:当時は12人の子どもに3人の職員がローテーションでついてくれました。今は、6人の子どもに対して職員が5、6人とかなり手厚くなっています。職員のことは「先生」と呼んでいて、一緒にアイシングクッキーを作ったり、ドッジボールをして遊んだりしたのを覚えています。勉強も教えてくれるし、高校生になると進路の相談にのってくれました。
── 施設の先生は、親代わりという感じでしょうか。
田中さん:「親」とは思わなかったですね。先生が仕事でやっているということはわかっていたので。思春期には、生活態度を注意されて反発して、「どうせ仕事でやってるんでしょ」と言ってしまったこともあります。今思うと、せつなさもあったんでしょうね。「踏み込んでほしいけど、向こうは仕事なんだ」という思いがあったんだと思います。もちろん、親身に話を聞いてくれる先生もいましたし、今でも当時の先生方とは交流があります。
私がいた施設には、門限などのルールがあったし、ルールを守れなければ「テレビ禁止」といったペナルティもありました。今は、そういうペナルティはないと聞いています。大人になってから施設の先生と話したときに、「親権代行者としての責任があるし、ほかの家庭の大事なお子さんを預かっている」という思いがあるということを聞きました。
── 施設に入られてから、ご両親とのかかわりはあったのでしょうか。
田中さん:私はありました。ただ、どのように親と交流するかは、子どもによって違います。児童相談所の人と施設の職員さんが話し合って、子ども自身の気持ちを聞いたうえで親との関わり方を決めます。
そのために施設では年に1回、「今後、親とどうなりたいか」ということを個別に聞かれます。子どもの意向を汲んだうえで、施設の先生方は可能な限り親と連絡を取って、子どもとの間に入って関係をつなぎ、親子関係をどう回復していくかを考えてくれます。
手紙や電話という間接的な交流からスタートして、面会、それをクリアしたら外出、外泊と進んで、状況が整えば家庭に戻ることが最終ゴールになります。でも、なかには親に居場所を知られてはいけない子もいて、そういう子を親から守るのも施設の先生たちの役目です。学校でも、そういう子には通称を使うなどの配慮をしていました。
私の場合は「どうしたい?」と聞かれて「お母さんには会いたいけど、お父さんには会いたくない」と答えました。当時は、父のことが怖かったんですよね。施設の人が母と連絡を取ってくれて、母とは月に1回、施設で面会をしていました。母は会うたびに「お金がない」と言っていて、一緒に暮らすことはできませんでしたが、半年後くらいから月に1回、一緒に外出するようになって、お兄ちゃんやお姉ちゃんとも一緒に池袋へよく遊びに行きました。次の年からは外泊の許可も出たので、夏休みにはみんなで新潟にある母方のおばあちゃんの家に泊まりに行くこともありました。
父とはずっと会っていませんでしたが、手紙のやりとりはしていました。私からは年賀状や暑中見舞いを出して、父からは毎年、誕生日に手紙が届きました。音の出るカードやキャラクターのぬいぐるみ付き電報をもらって、うれしかったのを覚えています。小学校高学年くらいから、4年に1回のペースで面会をするようになりました。
── 面会を重ねるうちに、お父さんへの気持ちは変化しましたか。
田中さん:当時は、一方的に「お父さんが悪い」と思っていましたけど、大人になって父や祖母、姉から当時の話を聞くと、母にもいろいろと問題があることがわかって…。詳しいことはお話しできないのですが、今は当時の父の気持ちも理解できます。
私が18歳になって施設を出るとき、父が先生方に挨拶に来てくれました。会議室で先生方と話しているとき、父が取り出したノートに、私の奨学金や学費の計算がびっしり書いてあって、「れいかはこの先、大丈夫でしょうか」と先生に聞いていました。私は施設を出たあとはひとり暮らしをして、学費も生活費も親には頼らず、奨学金とアルバイトでやっていくと決めていましたが、父なりに心配してくれていたみたいです。そのときの父の姿を見て、「ちゃんと考えてくれているんだな」と思えました。
成人式には、父が「振袖を買ってあげる」とメールをくれて、一緒に買いに行きました。姉のときも、同じように買ってくれたそうです。父は寡黙で口数が少ないのですが、帰りに一緒に食事をしたときに、私たちを施設に入れてしまったことを「申し訳ないと思っている」とか、「れいかが結婚するまでは死ねないな」とか、「障がいのあるお兄ちゃんが心配だ」ということをぽつりぽつりと話してくれて、父なりに私たちのことを心配してくれていることが伝わりました。世間的には「虐待をした親」ですが、私は父を「許したい」と思いました。
── 大人になった今、ご家族のことはどのように思っていらっしゃいますか。
田中さん:「戸籍上のつながりがある人たち」です。あっさりしていますよね。私には家族で一緒に暮らした記憶がほとんどないので、そういう認識です。でも、このまま接点を持たずに両親を失ったら、きっと後悔すると思っています。だから、ときどきお父さんと出かけたり、再婚したお母さんの家に行ったり、離れているおばあちゃんには写真を送ったりするようにはしています。施設にいた間にできなかった家族体験を、少しでも取り戻したいと思っています。
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施設を出てから、モデルとして活動を始めた田中さん。現在は、親元を離れて暮らす子どもたちへの理解や支援の輪を広げるために、講演活動や情報発信をしています。
取材・文/林優子 写真提供/田中れいか