「103万円の壁」「手取りを増やす」等、キャッチーなワードを多用し、YouTubeなどを巧みに活用することで、「次の総理」としての呼び声高かった玉木雄一郎・国民民主党代表への期待感が、この数週間で一気にしぼんでしまった。
原因の一つは、当人の煮え切らなさにあるのだろうが、もう一つ挙げられるのは日本維新の会の機を見るに敏な動きだろう。10月15日、吉村洋文代表が上京して高市早苗・自民党総裁と会談した後は一気に局面が変わり、「玉木総理誕生か」といった観測は消えていく。 これ以降、メディアに積極的に登場した吉村代表は「政策を通すために最善の策を取る」という決意を繰り返した。結果、吉村代表は「決められる男」であり、玉木代表は「決められない男」といったイメージが広がることとなっていったわけである。テレビでのトーク力の高さは、関西での出演回数の多さに加えて、彼の前職が弁護士であることも関係しているのかもしれない。
【写真を見る】「維新・吉村代表」を弁護士から政治の世界へと導いた“意外すぎる人物”
ノンフィクションライター、石戸諭氏は著書『「嫌われ者」の正体 日本のトリックスター』の中で、“嫌われ者”の一人として吉村氏を取り上げている。ちなみにここでの“嫌われ者”とは文字通りの意味ではなく「時に大衆を熱狂させ、時に炎上の対象となる」人物、いわばトリックスターの意である。 石戸氏が描く吉村氏の実像は、政局の中心で自信たっぷりに持論を語り、自民党を操らんばかりの勢いの「吉村代表」からはかけ離れている。 地味で目立たない存在だった彼がなぜ政治の世界に足を踏み入れたのか。政治家・吉村洋文が生まれるまで、いわば「エピソード0」のストーリーを、維新誕生の経緯と共に見てみよう(以下、同書より抜粋・再構成しました。文中敬称略)。
吉村は1975年、大阪府南部に位置する河内長野市のサラリーマン一家の家庭に生まれた。勉強がよくできるタイプだったようで、地域の名門・府立生野高校を卒業した吉村は、九州大学に進学し、23歳で司法試験を突破する。 弁護士時代に目立った仕事は二つだ。第1に、当時勤務していた東京の熊谷綜合法律事務所で、消費者金融大手「武富士」の顧問弁護士団に加わり、批判するメディア相手の訴訟まで担当していたこと。この“実績”は2度目の住民投票から今に至るまで批判材料になっている。当時を知る弁護士――それも武富士と対峙していた弁護士と、武富士側で同じような訴訟を手掛けていた弁護士――に聞いてみたが、いずれも拍子抜けするほど何も出てこなかった。彼らが口を揃えたのは私が取材で尋ねるまで吉村が関わっていたことなど全く知らなかったこと、そして弁護団の一人にはいたかもしれないが記憶には全く残っていないというものだった。
第2に独立後、大阪を代表する大物芸能人にして、当時、維新を率いていた橋下徹とも深い親交があったことで知られる、大物タレントの故やしきたかじんの顧問弁護士だったことだ。 これが人生の転機となった。 2010年4月に結成された大阪維新の会は、翌年の統一地方選に挑むための候補者を探していた。橋下に対し、やしきがつよく推薦したのが吉村だ。タレントとして大阪各局でレギュラー番組を持っていたやしきは、最晩年には政治にも発言を繰り返し、強い影響力を持つ保守系文化人という色を強めていた。橋下はやしきの提案を受け入れ、吉村もまた推薦に応じることによって政治家への道を歩みはじめる。その時、誰もが吉村が維新を支える存在になるとは思いもしなかっただろうが、最初の一歩は維新らしい選挙戦だった。 維新の選挙戦には二つの顔がある。支持基盤の大阪と、第三極の野党として追う立場にある他の都市部の違いだ。なぜ大阪において確固たる支持を確立したのか。それは橋下とともに維新を立ち上げた二人、前大阪市長・松井一郎と、盟友の元大阪府議・浅田均、三人の出会いから描き出す必要がある。
話は2004年にまでさかのぼる。当時、自民党に所属していた松井と浅田は、大阪府議団の「反主流派」として、同年の府知事選では自民が推薦した現職知事、太田房江に公然と反旗を翻し、民主党を離党したばかりの江本孟紀の支援に回った。背景にあったのは、同じ自民推薦の政治家であっても府と市で全く別の公約を掲げることがあるという大阪の政治事情だった。典型は太田と大阪市長磯村隆文である。太田はのちの維新構想に近い、府が市を吸収する「大阪新都構想」を掲げ、磯村は府の影響力を弱め市の権限を強化する「スーパー指定都市制度」を主張した。相いれない主張だが、どちらも自民が推薦した。 地方自治の在り方という根本に関わる政策でありながら、全く異なる主張の政治家を党本部が同時に推薦し、同時に当選する。これらの矛盾に対し、浅田らが問いただしても明確な説明はない。不満を募らせた浅田は07年の統一地方選時、自身の公約にローカルパーティー(地域政党)の設立を掲げる。そこに目を付けたのが、08年に自民、公明の推薦を受けて府知事に当選した橋下徹だった。
当時を知る府政担当記者の述懐――
「浅田さんが主張していたのは、政党にも地方自治が必要というもの。府市がもっと協調しなければという課題は、実は自民党が与党だった時代から幅広く共有されていた問題意識だった。東京のような単位での分権もなく、大きな府と主要都市部の大阪市が水面下でお互いの利益を主張しあい、同じ政党なのに対立する。政党だけでなく府庁の内部にも分かりやすい敵を設定するという橋下さんの手法に問題は確かにあったが、そんな大阪に改革が必要だという主張が広がる素地をつくった責任は長く府政、市政で与党だった自民にある」 浅田がよく語る演説の言葉を借りれば「東京に人が集中し、豊かになっている。大阪も成長できるはずなのに、失敗続き」という問題意識に対して、中央政治は冷淡だった。財政問題に端を発した府庁舎移転問題など、橋下と議会の対立が続くなか、ついにかつての反主流派が構想を実行に移す。 それが2010年4月に結党した橋下をトップとする地域政党「大阪維新の会」である。表看板は橋下だが、キーパーソンは最初期に幹事長と政調会長に就いた松井と浅田だ。彼らはお互いの長所と欠点を補った。 橋下はカリスマ性と既存の枠組みを壊すことには長けていたが、仲間をまとめるのが得意なリーダーではなかった。来るものは拒まないが、去るものも追わないし、これまでの政治家と違って組織固めにも注力しない。リーダーシップをイコールで面倒見の良さと結びつけない割り切りがあった。 人を選ぶ橋下的なリーダーシップの欠点を補い、風を求めて維新に流れてくる旧自民系を中心とする議員たちや有象無象の候補者のなかから選挙の出馬戦略をまとめ、規律ある統制を試みたのは後に大阪府知事などを歴任した松井である。表でも裏でも旧知の記者やメディアの取材を拒むタイプではない彼はメディア対応でも一日の長があった。橋下という強烈な個性を前にするとどうしても日陰の存在になってしまうが、組織を固めるために欠かせない人材だ。 浅田は分かりやすく人々に説明する能力や人付き合いの良さと、派手さは欠けていたが、京都大学出身でスタンフォード大学への留学経験もある維新屈指の理論派として知られていた。大阪都構想や地域主権を軸にした政策を慶應大学の公共政策学者・上山信一らと練り上げたのも浅田だ。 顔となる強いリーダー、徹底した黒子役と嫌われ役を買って出たナンバー2、政策に強い補佐役――彼らにとって幸運だったのは、それぞれの欠点を補い合える人材が「大阪の改革」を一致点に集ったことだ。橋下だけなら組織は瓦解していただろうし、松井が中心になったところでカリスマ性も政策を作る力もなく、浅田にはポピュラリティーを獲得するような話術も組織を束ねる胆力もなかった。 結党から1年後、11年4月の統一地方選の躍進を経て、都構想を前進させるため府知事の橋下が辞職して市長選に、松井が府知事選に出馬し民意を問う11月の大阪府知事・市長のダブル選を制し、維新は国政選挙に打って出る。浅田が中心となってまとめた「維新八策」では、まず統治機構改革を打ち出した。 政党に限らず、どのような組織であっても立ち上げには独特の苦難がつきまとう。初期の選挙戦には後に問題を起こした議員もいたが、混乱から選挙を重ねるなかで人材も生まれる。彼らの長所と困難を目に焼き付けることになったのが、維新最初期の統一地方選に名前を残した35歳の吉村だった。 市議会議員に立候補した選挙区は、弁護士事務所を開設していた大阪市北区である。当時は全く無名の一新人候補者に過ぎず、定数3の北区選挙区で彼は2位で初当選を果たすことになった。得票数は7386票だった。 ***
政治家歴はまだ14年程だが、その後の経歴は華々しいものと言えるだろう。市議になった3年後の2014年には衆議院議員、翌15年には大阪市長、19年に大阪府知事となり、現在は2期目。 『「嫌われ者」の正体』の中で、石戸氏は吉村氏の印象を次のように綴っている。
「ただ一方的に『敵』を仕立て、自分を正義とする構造を作るのではなく、綺麗事だけではすまない複雑な社会と丸ごと向き合おうという気概は感じられた」
「野党連合」構想からいち早く抜けて、政策実現に動いた今回の行動も、この「気概」の現れだったのかもしれない。
石戸 諭(いしどさとる)1984(昭和59)年、東京都生まれ。立命館大学法学部卒業後、毎日新聞、BuzzFeed Japanの記者を経て、2024年11月現在はノンフィクションライター。著書に『リスクと生きる、死者と生きる』『ルポ 百田尚樹現象』『ニュースの未来』『東京ルポルタージュ』などがある。
デイリー新潮編集部