役職定年。それは多くのサラリーマンが経験する、キャリアの大きな転換点です。収入の減少だけでなく、急激なモチベーションの低下は、家庭内の空気にも静かな影を落とします。働き方が変化したサラリーマンのはけ口は……。
都内に住む白田隆文さん(57歳)は、勤続35年のサラリーマン。月収は42万円。3人の子どもたちを育て上げ、いまでは全員が社会人として自立しています。先月、末っ子の娘が同棲を始めるために家を出ていき、現在は妻のめぐみさん(55歳)、そしてめぐみさんの母親である義母との穏やかな3人暮らしです。
2年前の55歳のとき、役職定年を迎えました。部長の肩書は外れ、給料も大幅にダウン。かつては仕事に情熱を燃やし、夜遅くまで働くことも厭わなかった隆文さんでしたが、目にみえてやる気を失ってしまいました。いまでは毎日きっかり定時に会社を出て、まっすぐ家に帰ってくる。妻は、そんな夫の姿に、一抹の寂しさと将来への不安を感じずにはいられませんでした。
しかし、そんな無気力な日々が続いていた隆文さんに、ほんの小さな、しかし確かな変化が訪れたのです。
「おかしい……」
いつも18時半に帰宅していたのに、ここ1週間は19時ごろになったのです。たった30分の違いですが、仕事のモチベーションを失ってから一刻も早く家に帰りたがっていた夫の行動としては、不可解でした。
「会社でなにかあったのかしら」めぐみさんは、心配と期待が入り混じった複雑な感情を抱きます。そして、その感情が疑惑へと変わる出来事が、次の土曜日に起こりました。
「今日ちょっと出かけてくる。友達と会う約束があって」
リビングでスマホをいじっていためぐみさんは、耳を疑いました。役職定年になってからは特に、誰かと会うことすら億劫がっていたはずです。黄昏時、隆文さんは少しそわそわした様子で家を出ていきました。
夕食の時間である20時には戻ってきたものの、どこか上の空。めぐみさんが「誰と会っていたの?」と聞いても、「ああ、昔の同僚だよ」と、歯切れの悪い返事が返ってくるだけでした。
夫はなにかを隠している。めぐみさんはそう直感しました。
隆文さんと同世代のサラリーマンは、どの程度のお金を自由に使っているのでしょうか。また、なにに使っているのでしょうか。
生命保険文化センターが発表した「2023(令和5)年度 サラリーマンのお小遣い調査」によると、男性会社員の毎月のお小遣いの平均額は4万868円。50代に絞ると、3万9,183円です。使い道の上位は、昼食代、携帯電話代、飲み代と続きます。役職定年前の隆文さんの月収はおよそ60万円でしたが、現在はそこから3割ほど減っています。給料が下がったことで、お小遣いも減りました。
隆文さんが経験した役職定年は、多くの企業で導入されている制度です。独立行政法人労働政策研究・研修機構の「高年齢者の雇用に関する調査(2020年)」によると、55歳あるいは60歳などで管理職から外れる役職定年制を導入している企業は少なくありません。
最大の問題は、収入の減少です。一般的に、役職手当などがなくなることで、給与は2割から、場合によっては5割近く減少します。長年、高い給与を前提に組んできた住宅ローンの支払いを始めとする収支計画が、家計に重くのしかかります。
さらに深刻なのが、モチベーションの低下でしょう。同調査では、役職定年者の約半数が仕事に対する意欲が「低下した」と回答しています。責任ある立場から外れ、かつての部下が上司になることも。これまで培ってきた経験やスキルを活かす場を失い、「会社から必要とされていない」という喪失感に苛まれる人は少なくありません。隆文さんの無気力さは、多くの同世代が直面する、根深く切実な課題といえるでしょう。
夫が風呂場へと向かったのを見計らい、めぐみさんは居間に放置された隆文さんのスマホを手に取りました。暗証番号は結婚記念日。Googleマップの位置情報を開き、ロケーション履歴を探します。
履歴が示していたのは、友人宅でも、居酒屋でもありませんでした。自宅から数駅離れた、駅前のビジネスホテル。滞在時間は、約2時間。
めぐみさんの頭の中は真っ白になりました。ビジネスホテル。2時間。このキーワードが結びつける答えは、一つしか思い浮かびません。仕事のやる気をなくした夫が、家庭の外に癒やしを求めてしまったのだろうか。子育てが終わり、夫婦の時間がこれから始まろうという時に……。
隆文さんが風呂から上がってきました。めぐみさんは切り出します。
「今日どこへ行っていたの? 正直に話して」
「え? だから、友達と……」
「嘘つかないで! スマホ、みたわ。ビジネスホテルにいたでしょう!」
めぐみさんの剣幕に、隆文さんは一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしました。そして、観念したかのように、深いため息をつきます。
「……ああ、バレてしまったか」
うつむいた夫の姿に、めぐみさんは最悪の事態を確信し、涙がこみ上げてきました。しかし、次に夫の口から飛び出したのは、めぐみさんの想像を180度裏切る、あまりにも意外な言葉でした。
「ごめん。ホールケーキを、一人で食べていたんだ」
「……は?」
めぐみさんは、自分の耳を疑いました。隆文さんは、おずおずと顔を上げ、ぽつり、ぽつりと語りはじめます。
「子どもたちが家にいたころ、誕生日には必ずホールケーキを買ったよね。でも……」
そして、彼の長年の憧れが明かされます。
「特に、次女が小学生のときに欲しがったアイスクリームのホールケーキ。あれを1人で食べることに、ずっと憧れていたんだ。でも、車の中で食べたらアイスが溶けて垂れてしまったらバレるし、家に持ち帰ると君やお義母さんにわけないわけにいかないだろう。どうしても1人で全部食べてみたかったんだ。だから、ゆっくり食べられる場所を探して……。ホテルしか思いつかなかったんだ」
帰りが30分遅かったのも、仕事帰りにアイスクリーム屋に最新のホールケーキを下見していたからだといいます。そしてケーキを1ホール平らげたあとは、しばらくお腹が痛くてトイレから出られなかったそう。彼のあまりにもかわいらしい告白に、めぐみさんの緊張がぷつりと切れました。
「ぷっ……あはははは!」
涙はいつしか、大笑いに変わっていました。
「今度は、私と一緒に食べよう。2人でホールケーキ」めぐみさんがそういうと、隆文さんは照れくさそうな笑みを浮かべました。
子どもの巣立ちと、夫の役職定年。それは一つの終わりのようにみえて、夫婦にとっては新しい章の始まりなのかもしれません。