「学校に行くのが当たり前」と考えるのは、もはや“時代遅れ”の「バカ親」なのかもしれない――。
AIやネットが普及した今、学びも仕事も“自分で創り出す”時代に差し掛かっている。これまで何度も「子どもは学校に行かなくていい」と主張してきた堀江貴文氏は、親がなすべきは子どもの挑戦を見守ることだと説く──。
本書において堀江氏は、公教育においては効率の悪い対面での一斉授業より、今後は「オンライン授業」を重視していくべきと強調する。その真意とは果たして何なのか。
新著『バカ親につけるクスリ』から“ネオ教育論”の核心を抜粋する。
第1回『「子どもを学校に行かせるのは“バカ親”だ!」堀江貴文が警告「日本の学校は《情弱量産装置》になっている」』より続く。
オンライン授業のメリットとして、教えるのが上手な教師の「いい授業」を、1クラスの範囲を超えて広く届けることができるという点が挙げられる。各教科において誰の授業を受けるのかを選べるようにすれば、教え方が絶望的に悪い教師は淘汰される。
こうすれば、ハズレの教師に当たってしまうという「教師ガチャ」から子どもたちは解放される上に、近年の教師不足という学校側の問題も解消される。これが、オンライン授業の2つ目と3つ目のメリットである。
教師不足だからといって、一部に動きがあるように教員採用選考試験のハードルを下げるのは論外だ。力不足の教師を増やしてしまっては、「教師ガチャ」でハズレを引く不幸な子どもが増えるだけで、何の解決にもならないばかりか害悪である。
ある科目を嫌いになった理由としてよく挙げられるのは、「教え方が悪い先生に当たってしまったから」ではないだろうか。
本来、新たなことを学び知識を身につけるというのは、誰にとっても楽しくわくわくすることのはずだ。にもかかわらず、子どもが特定の科目、ひいては勉強そのものが嫌いになるのは、ほとんどの場合子ども自身のせいではなく、教え方の下手な教師のせいだ。
子どもの知的好奇心は、考える力やクリエイティビティの基盤であり、長じてからの独創性や生産性に直結する。子どもの知的好奇心を削いではならない。だからこそ、教師の質を保つことは非常に重要なのだ。
オンライン授業を導入すれば、教師不足問題など即解決できる上に、教師の質の低下まで解決できる。
オンライン授業は、1人1台端末を使って、子どもたちが各自の自宅で受ける。オンライン授業は、基本的に録画とする。つまり子どもたちは、好きな時間に好きな場所で授業を受けられる。
教師は、一度自分の都合のいい時間に授業の動画を撮影してしまえば、同じ内容の授業を何度も繰り返すような無駄が省ける。その結果、授業の準備にかける時間、授業そのものにかける時間が大幅にカットでき、労働時間を短縮できる。
教室に毎日何十人もの生徒が集まることもなくなるため、教師は大勢の生徒を一度に見なくてはいけない労力からも解放される。
オンライン授業を受けるだけでは学力を伸ばせない子どもたちに関しては、先述のように、登校してチューター役を務める教師からの個別サポートを受ければよい。
学校に生徒が集まらない結果として、学校に必要な教師の絶対数も格段に減る。教師不足はつまり、教師を増やすことではなく、必要数を減らすことで解決される。
オンライン授業ならすべての教科で、教え方が抜群にうまい先生の授業を、全国津々浦々平等に届けることができる。文部科学省が学習指導要領の策定などを通じて行き届かせようとしている「一定水準の教育」も、簡単に叶ってしまう。
オンライン授業が当たり前になれば、いつでもどこでもいい授業を受けられる。教師ガチャどころか、学校ガチャ、さらには地域ガチャすらも解消されるわけだ。
まずは過疎地や離島から導入して、効果のほどを確かめるのもいいだろう。
オンライン授業の4つ目のメリットは、「受験が不要になる」点だ。
僕はそもそも、受験制度がなんのためにあるのか、意味不明だと思っている。
受験があるのは、学校ごとに受け入れ可能な学生数が限られているからだ。しかしオンライン授業なら、「授業をする教室の定員が何人か」といったキャパシティを考えなくて済むわけで、何人でも受け入れられるはずだ。それなら、志望者を学力で順位づけして合格・不合格を言い渡し、人数を絞る、という受験は不要になるわけだ。
こういう話をすると、「生徒数が多すぎて対面での指導ができないと、教育はうまくいかない」などと言う人がいるが、「そんなわけないだろう」と言いたい。
特に義務教育を終えた年齢、高校生や大学生なら、全員がオンライン授業だけできちんと理解ができるはずだ。逆に言えば、オンライン授業で理解ができないやつは、高校や大学に行く必要はない。
オンライン授業を中心とした通信制高校に通う子どもは、近年急増している。
学校法人角川ドワンゴ学園が運営する「N高等学校(N高)」は、開校から数年で、兄弟校のS高等学校(S高)と合わせて3万2000人を超える生徒数を獲得している。(2024年12月末時点)。25年4月には、兄弟校「R高等学校(R高)」も開校した。
僕の作った通信制サポート校「ゼロ高等学院(ゼロ高)」も、N高ほどではないが、確実に生徒数を伸ばしている。オンラインを活用し、座学だけではなく体験型の学習を重視した海外水準の教育理念が、じわじわと認知されてきていると実感している。
ゼロ高では、オンライン・オフライン両面で、生徒同士の交流も深まるようになっている。
大学に関しても、古くは放送大学から最近では「ZEN大学」まで、対面以外の方法で授業をする大学は存在している。放送大学は、1981年に公布・施行された「放送大学学園法」に基づき、生涯学習機関として1983年に設置された。
学力試験なしで入学でき、全科履修生として大学卒業を目指すこともできるし、好きな科目だけを1科目から学ぶこともできる。テレビやラジオの放送を通して全国どこでも授業を視聴でき、さらに現在では、原則すべての放送授業がインターネットでも配信されている。
ZEN大学は、N高・S高の運営実績を持つ株式会社ドワンゴと、公益財団法人日本財団とが提携し、2025年4月に開学したオンライン大学だ。
入学にあたっては学力試験はなく、志望理由と小論文各2問ずつを、それぞれ50字以上400字以内で記述する「入学選考」がある(25年4月入学生の場合)。対面での授業(スクーリング)なしで大学卒業資格を取ることができる。
現在は2校とも、一応定員を定めている。しかし本来、オンライン大学ならば定員という概念は不要なのだ。そして2校とも入学にあたっての学力試験はない。この手法は、放送大学・ZEN大学に限らず、通信制高校にも適用できる。
学力試験が不要なら、「内申書」なんてもっと不要だ。
受験の際、在籍している学校長から入学志望校に宛てて、志願者の学業成績などを記載して提出する調査報告書のことを内申書という。
内申書には、定期テストの結果・普段の授業態度・提出物の状況などで評価される学業成績の「内申点」や、学校生活のようすを担任が書く「所見欄」、欠席・遅刻の日数、部活動や委員会活動、学校外活動の記録などが記載される。
出願条件に内申書の提出を義務づけている学校は多い。特に国公立の学校に多いが、私立の学校でも提出を求めるところがある。
内申書はこれまで、自治体が条例などで、志願者本人に内容を開示しないと定めていたことが多かった。
受験の合格・不合格に大きく関わるのに、最終的に自分がどう評価されたかがわからない「ブラックボックス」なために、「教師の好みや主観が入るのでは」という不安や、「教師の機嫌を損ねないよう振る舞わなければならない」という心理的プレッシャーを感じる学生も多い(ただし近年は、個人情報の保護に関する法律が2003年に成立・公布されたこともあり、受験前に在籍校へ請求すれば内容を開示するとしている教育委員会も出てきている)。
僕に言わせれば、内申書なんてどうでもいい。内申書を気にして日々の学生生活を送るなんて、バカげている。
そんなことをするくらいなら、入試に内申書が必要ない学校に行けばいい。 高校なら、僕が作った通信制サポート校「ゼロ高等学院」だっていいし、それこそN高だっていいだろう。
「授業料が安い国公立の高校に行かせたい、そのためには内申書は無視できない」などという反論が聞こえてきそうだが、高校の授業料無償化(高等学校等就学支援金制度)が決定した。
高校生の子どもがいる家庭で、世帯年収にかかわらず、子ども1人あたり年間11万8800円(公立高校の年間授業料に相当する額)が2025年4月から支給される。さらに26年4月からは、私立高校に通う子ども1人あたり上限45万7000円(私立高校の年間授業料の全国平均額)が支給されることになる。
内申書なんかどうでもいい。自分に無理のない範囲で、自分に合った学校に行けばいいだけだ。
とはいえ僕は、小・中学校どころか、高校も大学も「行く必要はない」と断言する。その理由は、第2章で詳述する。
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