38歳でビジネスを立ち上げた大熊充氏。その原点には、想像を超える苦悩と再生のストーリーがありました。中卒、無職、長期入院、そして右腕の障がい……社会から孤立し、自らの人生を終わらせようとすら考えていた20代。彼を“生きる側”へと引き戻してくれたのは、入院先で出会ったばあちゃんたちの存在でした。本稿では、大熊氏の著書『年商1億円!(目標)ばあちゃんビジネス』(小学館)より、起業に込められた想いと、その出発点をたどります。
僕がばあちゃんビジネスを始めたのが38歳。でも、そこにたどり着くまでには、長い長い時間がかかりました。社会に出ても何の芽も出なかったのです。
僕の最終学歴は中卒です。高校は中退したし、大学にも行ってません。
特にグレてたとか、やんちゃしてたとかじゃないんですよ。うちの祖父母と母親は教師で、割と勉強もできた方です。ただ、中学の頃から何となく先生との折り合いが悪くて不登校に。進学した高校では心機一転!と思ってたんだけど、また先生から妙に目をつけられて、廊下ですれ違っただけで殴られたり蹴られたり。「社会不適合者」とまで言われ、それ以来、大人が大きらいに。高校にも行かなくなって、退学した。それだけの話です。
地元には中卒の子を雇ってくれる会社なんてありませんでした。18歳の時だったかな、二度と戻ってこないつもりでうきは市を飛び出して大阪へ。バイクが好きだったから、いつかバイク屋になるっていう夢も持っていたんです。
でも、やっぱり世間は厳しかった。バイク屋で修業しつつ肉体労働のアルバイトもしてたから、椎間板ヘルニアになってしまいました。からだはボロボロだし、お金もないし、住む場所も大阪から離れて各地を転々として、宮崎へ。
そして25歳の時、バイクの単身事故で死にかけました。
九死に一生を得たまでは良かったものの、ケガの手術からまた別の病気が発症して、28歳くらいまでは宮崎から佐賀の病院へと移りながら、入退院の繰り返し。右腕には障がいが残りました。
「ああ、もう右手が使えん」
そう思うと絶望的でした。ほとんど寝たきりだし、動くとしても車椅子。外には出られんし、バイクの仕事もできない。身の回りの世話も看護師さんに任せきり。将来なんてあったもんじゃねえ……。精神的にウツっぽくなって、自殺願望まで出てきた。
そんな僕を暗闇のどん底からすくい上げてくれたのが、同じ病院に入院していたばあちゃんたちです。
入院中、精神状態が不安定だった僕や、徘徊や転倒の恐れがあったばあちゃんたちは、夜になるとナースステーションの片隅で看護師さんたちに見守られて過ごしました。僕は慢性的な不眠症でずーっとボーッとしていた。そんな僕にばあちゃんたちはどんどん話しかけてくるんです。
「ねえねえ、あんた、どっから来たん?」「何があったん?」「いつからここに入院しとるん?」……ウザい。そう思った僕はガン無視しました。
ところが、ばあちゃんたちは全然メゲない。
「どこが悪いん?」「仕事は何しよるんね?」「家族はおるん?」今思えば若者が珍しかったんでしょう。でも、僕にしてみればガチガチに閉ざしていた心の壁を、遠慮なくよじ登ってこられる感じ。ウザくて、しつこくて、ものすごいパワーです。そのうちなんだか笑えてきて。しょうがねえなぁ、って。気づいたら、久々に人としゃべってました。
ただ、メンタル最強なばあちゃんたちも、ある日急に容態が悪くなるんですよ。「今日は姿を見かけんなぁ」と思っていたら、看護師さんが「昨日急にお亡くなりになったんですよ」と。そんなことがしょっちゅうでした。
昨日までうるさいほど元気だった人が、今日はもういない。その現実を僕はなかなか受け止められませんでした。
「生きるってなんやろう」
ばあちゃんたちの死を目の当たりにして、真剣に考えるようになりました。結局、僕は勝手にふてくされていただけだったんですね。人生が終わったと自暴自棄になって、「すべてが無意味だ、もう将来なんかない」みたいに思い込んで。
でも、入院4年目にしてようやく気づきました。
「俺の人生、まだ何も始まっとらんやないか!」
結局、僕は自分の人生を生きようとしていなかったんです。ばあちゃんたちの方が、よっぽど自分の人生を生き抜いていた。右腕が動かないくらいがなんだ、バイクの仕事ができないくらいがなんだ。自分の人生を生き抜いてやろう! 強烈にそう思うようになりました。ばあちゃんたちが僕を変えてくれた。
不幸だと思って「死」ばかり見つめていた若造を、「生」の方に引き戻してくれた。そんなばあちゃんたちに、何とか恩返しをしたい! それが、ばあちゃんビジネスの原点。僕の原動力です。
大熊 充うきはの宝株式会社代表取締役