秋篠宮家の次女・佳子さまが、6月に外交関係樹立130周年を記念してブラジルを訪問される。2023(令和5)年から3年連続の外国公式訪問となり、複数の宮内庁関係者も「正式には外交とは呼びませんが、いわゆる皇室外交に対する佳子さまの意欲には、並々ならぬものがあります」と、口をそろえる。佳子さまのモチベーションが高まっているのは、かつてアイススケートやダンスに打ち込んだご姿勢にみられる情熱的なご性格や、ご公務の担い手が年々少なくなり必要に迫られているという理由だけではないはずだ。宮内庁OBは「それは佳子さまが覚醒されたからなのです」と解説する。どういう意味なのか……宮家周辺の証言から探る。
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佳子さまの姉・小室眞子さんは、皇太子だった天皇陛下よりも先に結婚した秋篠宮さまの第1子として誕生した。天皇だった上皇陛下の“初孫”として国民の注目を一身に集め、多くの国民から愛された。
天皇皇后両陛下はご結婚後もなかなか子宝に恵まれず、皇室全体に男の子が生まれてこない状況も続いた。万が一にも男系男子の後継者不在となれば、歴史上8人いた女性天皇として「眞子さんに白羽の矢が立てられるのではないか」との観測も、宮内庁内ではささやかれていた。
2006年、小泉政権(当時)が女性天皇を認める皇室典範改正法案の提出方針を明らかにした際も、最有力候補は愛子さまだったが、長く国民から親しまれていた眞子さんも「俎上に載せるべき」との声が庁内にはあったとされる。悠仁さまが41年ぶりの男性皇族としてご誕生されるまでは、少なくとも眞子さんも天皇候補の一角にいたというわけだ。
悠仁さまの存在は、天皇について皇室の血筋を受け継ぐ男系男子に限定している前述の皇室典範が変わらない限り、唯一無二の天皇候補として特別なものである。
「天皇候補に挙げられる姉と弟に挟まれた佳子さまは、これまで皇室をどこか客観的というか、第三者的な視点でご覧になっていたように思います」
と、宮内庁OBは振り返る。
悠仁さまは、成年を迎えたことを受けて3月に臨んだ記者会見で、外国留学について「海外に行くことによって、今までとは異なる経験をすることができたり、様々な国や地域から集まった人々やいろいろな文化に出会えたりする」とした上で「父や姉も留学をしていた。母も海外で生活していた」と語り、ご家族の豊富な国際経験を踏まえて、留学を前向きに検討している事実を明かされた。
同OBは「皇族にとって、皇室外交は最も重要な役割との考えを持つ秋篠宮さまの意を汲んで、ご留学の意向を固めておられるのでしょう」と推察する。
眞子さんも佳子さまも外国留学をご経験。また学業以外でも海外に足を運んで、国際感覚を身に着けた上で、公式訪問のご公務に臨むというステップを踏まれている。
眞子さんの場合は2003年8月のタイ、06年8月のオーストリア、07年8月のマダガスカル、10年3月のラオスとタイの歴訪、同年7月のアイルランドと英国の歴訪と、渡航を重ねられた。さらに12年8月には英エディンバラ大に短期でご留学。この機会に仏、伊、バチカン、蘭も訪れ、国際基督教大の卒業を待って12年から15年までは英レスター大の大学院に留学しており、ここで修士課程を無事修了されている。その後は皇室外交を本格化。15年12月のエルサルバドルとホンジュラス、16年9月のパラグアイ、17年5月のブータン、18年7月のブラジル、19年7月のペルーとボリビア歴訪と、ご結婚で皇室を離れるまで毎年、旅をして国際親善に努めていた。
一方、佳子さまは03年8月にタイを訪問した後、13年8月に米国へご旅行。17年9月に英リーズ大に短期留学され、国際基督教大を卒業した19年9月、オーストリアとハンガリーを公式訪問。その後、4年間のブランクを経て、23年11月のペルー、昨年5月のギリシャ、そして今度の6月には2国間の友好親善を深めるためブラジルへと向かわれる。
秋篠宮さまは、ご両親である上皇上皇后両陛下の影響で、日本人の移民やその子孫の日系人に心を寄せる活動も続けてこられた。上皇上皇后両陛下と秋篠宮さまが定期的に足を運ばれてきたのが、JICA横浜(国際協力機構横浜センター)だ。ブラジル移住者を取り巻く環境の変化を常設展示で解説しているJICA横浜の海外移住資料館は、人気の商業施設「横浜ハンマーヘッド」や「横浜赤レンガ倉庫」の目の前にあり、同センターには上皇上皇后両陛下が04年4月と23(令和5)年2月に訪ねられたほか、美智子上皇后が単独で09年12月に訪問している。
秋篠宮さまは06年9月と15年6月、23年2月に訪れており、祖父母や父の薫陶を受けた眞子さんも、18年5月と19年4月に訪問している。また今回、招聘に応えてブラジルを訪れることとなった佳子さまも、23年9月に足を運ばれていた。
国際親善で活躍した近現代の女性皇族を代表する1人が、有栖川宮慰子妃だ。1889(明治22)年に夫妻で欧米を訪れ、伊では国民から広く敬愛されていたマルゲリータ王妃になぞらえて「日本のマルゲリータ」と報道されたとのエピソードも残る。
「マルゲリータ・ピザ」の名は一説に王妃が語源と言われており、慰子妃の振る舞いによって、ピザが愛好されていた伊で、いかに日本人のイメージが向上したのかは想像に難くない。慰子妃は外遊以前から欧州各国の王室による社会事業や教育といった活動に関心を持ち、夫に同行することを強く希望して実現した渡欧だった。
渡欧3年前の86(明治19)年、小松宮彰仁親王に同行して洋行した頼子妃が欧州でカネに糸目を付けずにブランド物を買いあさり、明治天皇に激怒されたという逸話が『明治天皇紀』に残っているように、反面教師がいたこともあって、慰子妃の名は皇室外交の歴史に深く刻まれている。
実は秋篠宮さまは、眞子さんとともに何度も海外に行かれている。タイ訪問やマダガスカル訪問、ラオスとタイの周遊は、いずれも一緒に赴かれているのだ。秋篠宮家関係者は、こう回顧する。
「『父君とお嬢様の親子旅行とは珍しいな』と感じたものです。それはまるで、眞子さま(当時)が公務での国際親善を始める前に、歴史的にも重い皇室外交への心構えを、伝授されるためだったかのようでした」
佳子さまは、皇室外交を始められる前の私的な外国旅行自体が少ない上、秋篠宮さまとご一緒したのは眞子さんと3人で訪れたタイのみ。留学したのも英リーズ大のパフォーマンス文化産業学科で、皇室外交のために国際感覚を磨くというよりは、ダンスなどの舞台芸術を、文化とビジネスの2つの側面から学ぶためだったと揶揄されたこともあった。
ある宮内庁首脳経験者はこう話す。
「いよいよ今月から始まる大阪・関西万博で、来日するVIPとの皇室外交でホスト国の“顔”として大きな期待が寄せられている若き日本のプリンセスたちにあって、佳子さまには相手国に渡って、懐に飛び込む型式でのハイレベルな皇室外交も求められるようになっています。22年9月に1人暮らしを始めてから佳子さまに大きな変化がみられるのは、ご自身がこれに気が付き、覚醒されたからなのです」
朝霞保人(あさか・やすひと)皇室ジャーナリスト。主に紙媒体でロイヤルファミリーの記事などを執筆する。
デイリー新潮編集部