「地下鉄サリン事件」から30年。オウム真理教はこの事件の前に熊本県の波野村(現在の阿蘇市)を拠点にしようとしましたが、住民の激しい抵抗を受けて撤退しました。
【写真を見る】教団側が道場を建てようとした土地、反対する住民の「監視小屋」、 両者が激しくもみ合う場面も
あの時、村で何が起きたのか。反対運動を行った関係者が、当時の恐怖を振り返ります。
30年前、東京の朝のラッシュ時間帯。オウム真理教の信者が地下鉄の電車5本に猛毒ガスのサリンをまき、14人が死亡、6000人以上が重軽傷を負う無差別テロ事件を起こしました。
その5年前、オウム真理教は波野村の民有地約15ヘクタールを購入して道場を建設し、拠点を作ろうとしていました。
教団は直前に政治団体を作って衆議院議員選挙に立候補したこともあり、当時約2000人が住む村に500人近くの信者が押し寄せたことで「村が乗っ取られる」と危機感を抱いた村民が反対運動を展開しました。
その先頭に立っていたのが、高宮信一(たかみや しんいち)さんです。
高宮信一さん「単純に考えて、4人くらいはすぐに村議を誕生させるくらいの信者の人数だったんですよ。何としても村に住民票を受け付けてもらっては困るということで、反対運動を始めた訳ですね」
村民は見張り小屋を作って監視し、村には転入届を受け付けないように呼びかけました。
これを受けて村は信者が提出した転入届を受け取らないと決めましたが、教団側は反発。住民側と教団側の対立は激しさを増していきました。
しかし国の規定上、村長は転入届を受け入れて住民票に記載する責務がありました。
そのため村が9億2000万円を支払う代わりに教団は土地を村に譲り、信者も去ることで教団と和解しました。村民の賛否は分かれましたが、苦渋の決断でした。
高宮さんは、多額の金を払ってでも村が解決を図ったのは正しい判断だったと強調しました。
事件後には、警察関係者からこんな話を聞いたといいます。
高宮さん「信者が、波野の『水源地の地図』を持っていたそうです。何のために地図が必要だったかを考えると…恐ろしいことを考えていたのではないかと」
村と教団が和解したのは1994年。「地下鉄サリン事件」が起きたのは、その翌年でした。
あれから30年。波野の住民たちが見張り小屋を建てて教団を監視していた跡地は雑草に覆われ、見る影もありません。
現在は教団とは無関係の民間企業が利用し、住民の間でも当時のことが話題になることは減ったといいます。若い世代にとっても「地下鉄サリン事件」は過去の出来事になりつつあります。
――地下鉄サリン事件を知っていますか?15歳「知らないです」15歳「知ってはいます。深い話は知らないけど」18歳「地下鉄にサリンをばらまいて、大量に死者を出した。その時に生きていなかったので、オウムは恐いイメージだけが少しある」
高宮さんが懸念するのは事件の風化です。
高宮さん「30歳以下の人は知らない訳だからね。人口が少ないから波野が狙われたと思う。人口が増えないと、今後も危ないことがあるということ」
当時の若者などがオウム真理教に入り、その後起こした凄惨な事件。繰り返さないための取り組みは今も求められています。