「ラーメン 大山家」の店主・大山修司さん。他では食べることのできない「とき卵ラーメン」を提供している(筆者撮影)
日本中に広がる横浜家系ラーメン。横浜にある「吉村家」を総本山とし、その出身店を中心に広がってきたラーメンだが、近年は「資本系」と呼ばれる大手が手掛けるお店が急増し、全国に進出している。
一方で増殖することで客の奪い合いになり、淘汰されていくお店が出てきているのも事実。その中で、各店がどう個性を見せるかが今後の注目ポイントになる。
今回は武蔵境にある「ラーメン 大山家」を取材した(筆者撮影)
JR中央線・武蔵境駅南口から徒歩16分。連雀通り沿いに28年続く一軒の老舗の家系ラーメン店がある。「ラーメン 大山家」だ。
1997年オープンで、横浜家系ラーメンの名店「近藤家」出身の店主・大山修司さんの繰り出す独創的な一杯が長く愛されている。
「ラーメン 大山家」の店主・大山修司さんが作る看板メニューの「とき卵ラーメン」。独創的な一杯が長く愛されている(筆者撮影)
このお店は家系ラーメンの流行にまったく左右されることなく、独自の立ち位置を築き上げている。今回はその秘密に迫ってみよう。
大山さんは東京都練馬区生まれ。14歳で武蔵野市に移る。父は工務店を営んでおり、実家は父自身が建てたというからすごい。
不景気で仕事がうまくいかず、工務店を畳み、母の希望から中華料理屋を開業することにした。
ラーメンや定食などを出すいわゆる町中華的なお店だった。大山さんは友達を店に呼んで、よく料理を食べていた。
豪華客船のコックに憧れ、洋食の料理人を目指そうと調理師学校に入る。その後、フレンチのお店で7年、イタリアンのお店で3年働いた。
ちょうど30歳になる頃、横浜にある友達の家に遊びに行ったついでに、横浜家系ラーメンの老舗「近藤家」のラーメンを食べた。このラーメンの美味しさに衝撃を受ける。
「この頃、店をたまに手伝っていて、出前にもよく行っていたのですが、たびたびお客さんにひどい扱いを受けたりして落ち込んでいました。出前をやめて、お店に食べに来てもらえる料理を出せないかと考えた時に、ラーメンに集中できたらいいなと思ったんです。スープにも興味がありましたし、ラーメンを勉強しようと決意しました」(大山さん)
「近藤家」で修業させてほしいとお願いに行くが、この時募集はなく、30歳を過ぎていたこともあって断られてしまう。しかし、しばらくしてから懲りずにまた食べに行くと、店主から声をかけられ、働かせてもらえることになる。こうして大山さんの修業が始まった。
修行先だった「近藤家」の外観(筆者撮影)
「近藤家」ではまずお客さんのオーダーを丸暗記するのが大変だった。ラーメンの種類、麺のかたさ、味の濃さ、油の量をすべて丸暗記しておかなければならないのだ。
「流し」といって順番に注文を聞いていく作業があるのだが、ここで忘れてしまうと大変なことになる。ラーメン作りの前に、まずは家系ラーメンならではのこの作業にとても苦労した。
料理の経験はあったので、スープの作り方は見れば覚えられる。大山さんは味作りよりも店の運営を身につけるべきだと感じた。いくら美味しいラーメンが作れても、たくさんのお客さんを呼んで利益を出さないとお店を続けていけないからだ。「近藤家」は忙しい店だったので、とにかく必死でお店をガンガン回していった。
「長くやってきた洋食に比べ、ラーメンは寸胴一本で勝負をかけるところが楽しかったです。メニュー数が少なく、作業としては洋食に比べて単純なのですが、一つのものに集中できるというのが自分の性格にも合っていたんです。直感で『これは自分に向いているな』と思いました。
また、『近藤家』は場所が良くないのにとにかくお客さんが入っていて。『これなら実家の場所でもやっていけるかもな』と思ったんです」(大山さん)
その頃、父がリウマチを患い、出前ができなくなり、店の存続が厳しくなってきた。このままでは続けられないという話が出てきたので、「近藤家」に退職を申し出て、独立に向けて準備を始める。大山さんは実家をラーメン専門店に改装しようと考えていた。
「親には『ラーメンだけで大丈夫なのか?』『出前しなくて大丈夫か?』『餃子はやらないのか?』と何度も心配されました。ですが、当時家系ラーメンは都内に数軒しかなかったですし、やっていけると思ったんですよね。今思えば少しテングになっていた気がします」(大山さん)
こうして1997年3月、「ラーメン 大山家」はオープンした。メニューは家系の醤油の小・中・大のみだった。中休みなしで深夜2時まで営業し、両親とパートさんに手伝ってもらいながら営業した。中休みを作らないのは、「店はできるだけ閉めないように」という父のこだわりだった。
しかし、インターネットもあまりない頃で、口コミも広がらず、スタートダッシュが切れなかった。なんとオープンから3年間はつねに赤字だった。中華料理屋時代の常連客は「口に合わない」と1回来てはもう来なくなった。
親からは「やっていけるのか?」「閉めたほうがいいんじゃないか?」と言われたが、実家の土地で固定費が少ないので何とか続けていた。
公共料金を払うこともギリギリの状態だったが、製麺屋などの業者さんは「絶対うまくいくから大丈夫だ」と励まし続けてくれた。
(筆者撮影)
その頃に作ったメニューが今の看板メニューである「とき卵ラーメン」だ。祖母が即席ラーメンに卵をよく入れていて、これが大山さんの思い出の味だった。これをヒントに、家系ラーメンにとき卵を合わせるという斬新な一杯を作り上げた。
スープ、タレ、卵がそれぞれ引き立つように、ふわとろで絶妙な一杯に仕上げた。はじめはお試しで出していたが、データを見ると杯数が多く、ひそかな人気メニューになっていた。
この頃、母が入院し、病院に行く回数が増え、店を休みがちになり売り上げが落ちていた。コンサルタントに相談をし、外観を変えるなど工夫をして売り上げの回復を図る中で、「とき卵ラーメン」を看板メニューにする案が出てきた。他では食べることのできないとき卵ラーメンが「大山家」を一気にブレイクに導いていく。
「大山家」の名物メニュー・とき卵ラーメン(筆者撮影)
とき卵ラーメンを看板メニューに据えるや否や、一番落ち込んだ時からは4倍の売り上げになる。雑誌『TOKYO一週間』で紹介されてからは取材も相次ぐようになり、「大山家」は一気に有名店になった。
人気になると当然他の店からマネされるようになったが、それも一瞬で淘汰された。とき卵ラーメンはそう簡単に美味しくならないのである。
ふわとろに仕上げるのがとにかく難しい。これは今も門外不出のテクニックで、結局「大山家」は唯一無二になった。これはオープンから25年以上経った今でもだ。
「ラーメン 大山家」の店主・大山修司さん(筆者撮影)
「はじめは『卵入れるだけで100円も取りやがって』とかいろいろ言われて悩みました。ですが、一度食べるともう一度食べに来てくれるんです。
カッコいいラーメンでもありませんし、完全に大衆向けなラーメンなのですが、スープの温度帯など調整が結構難しくて、意外とできそうでできない商品だったのがよかったのかと思います。おばあちゃんのおかげです」(大山さん)
今の客層は地元客が大半で、ラーメンフリークは少ない。完全に地域密着だ。これが強い。
家系ラーメンとは少し作り方を変えて豚骨ラーメン寄りに仕上げ、とにかくはやりは追わないと決めている。オンリーワンならば、はやりは気にしなくていいのだ。
「お店の20周年の時に『200円ラーメン』というのをやったんですが、お店の駐車場を見ると自転車だらけだったんです。ほとんどが地元の方々だったんですね。それを見て、自分のやってきたことは間違いじゃなかったんだと思いました」(大山さん)
大昔のおばあちゃんの知恵から生まれたオンリーワンな一杯が、今日も地元のお客さんに愛されている。
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(井手隊長 : ラーメンライター/ミュージシャン)