「蔵持」という言葉がある。倉庫を持つほどのお金持ちという意味だ。地方の農村地帯ではかつて、蔵と同じように長屋門が、一つのステータスになっていた。令和の今となっては、長屋門の存在、つまり家柄と言うステータスが生きている地区も少ないが、まだ残っている。
正幸さん(仮名・享年59歳)は、そんな家の長男だった。末期の胃がんで闘病し、いよいよとなったとき一族が駆けつけ、妻・幸子さん(仮名・55歳)が見守る中、生涯を終えた。
そして臨終直後、妻は立ち上がり、一族に向かってこう言ったのである。
「本日限りで、離婚します」
これは愛する妻を残して旅立った、正幸さんの「謀計」である。私は正幸さん夫婦と、夫婦を医療サポートしていた関係者らの証言をもとに再構成する。プライバシー保護の観点から、一部を改変するがご理解いただきたい。
前編記事『「本日限りで離婚します!」…59歳夫の臨終直後、親戚の前で宣言した55歳妻の「衝撃の決断」』よりつづきます。
正幸さんは、醸造業を営む一族の本家の長男だった。都内の大学を出て、そこそこの商社に勤めていた。妻の幸子さんは都会生まれで、二人は職場結婚すると、都内近郊に暮らしていたという。夫婦は子供を望んだが、残念ながら二人の間には恵まれなかった。
正幸さんが五十歳を迎える頃、親の命令で地元に戻された。その後、家業を継いだが、醸造業も時代の流れによって廃業したという。
幸子さんは、田舎の生活や慣習に慣れることができず、大変な苦労をされたと思う。そして、正幸さんもまた、自身の生まれ育った場所とはいえ、この集落での二人の扱いに胸を痛め、帰郷を後悔していた。
そんなストレスのせいか、正幸さんは57歳で胃がんを発症。手術も化学療法も行ったが病魔には勝てなかった。リンパ節への転移も見つかり、末期と診断されて自宅での療養を選択した。
献身的な看病を続ける幸子さん――。しかし、近所には親戚や一族、姑、小姑が住んでおり、年中、正幸のもとを訪れては心無い言葉を発していった。
正幸さんの病室は、いつも騒がしかったという印象がある。親戚や一族がひっきりなしに訪れ、時に励ましの言葉を、時に無神経な言葉を投げかけていった。
「ああ、かわいそうに。正幸も、こんなに痩せちゃって」
「奥さんも、もっとしっかりしないと」
「跡継ぎはどうなるんだ」
そんな言葉が、夫の看病で疲れている幸子さんの心を深く傷つけていたと思う。彼女はいつも反論もせず、ただひたすらに正幸さんの手を握り、寄り添っていたように感じる。
二人は、この家を出たがっていたが、それは許されなかった。気丈だった幸子さんも、自宅療養から半年ほどたった頃にはノイローゼ気味になった。
「家を出たいが、病気の夫をおいては行けない」
心のSOSを訪問看護師にも発するようになっていった。
そんな気持ちを憂慮したケアマネは、大胆な行動にでた。夫をデイサービスに行かせるプランをたてたのである。
「俺、そんな所へ行きたくないよ。病気だけどさ、50代だよ?」
最初こそ正幸さんは嫌がったが、ケアマネの狙いを聞いて二つ返事で通い始めた。ケアマネの企みは素晴らしいものだった。栄養士の資格を持つ妻を午前中、デイサービスの食事作りの場で働かせ、午後からはフリーにして夫の側につけたのである。
面倒な姑、小姑、親戚たちは、新型コロナ感染予防の名のもとに出入り禁止にした。つまりは、ふたりだけの静かな時間をケアマネは提供したのだ。粋なプランだった。
デイサービスでの時間は、二人にとってかけがえのないものとなったと思う。他愛もない話をしたり、昔の思い出を語り合ったり…。誰にも邪魔をされない、小言もいわれない穏やかな時間が、二人の心を癒していった。
しかし、正幸さんの病状は日に日に悪化していった。そして、ついにその夜は訪れたのである。正幸さんは、幸子さんの腕の中で静かに息を引き取った。
正幸さんの最後の時間に、一族たちは隣の部屋で無遠慮に煙草を吸い、葬式の話し合いという名目で酒盛りをしていたのは、前編でも触れた通りである。
そんな彼らに幸子さんは、「本日限りで、離婚します」と集まっていた一族に向けて宣言したのだ。
一同は幸子さんの言葉に息を飲んだ。
予想だにしていなかった言葉だったに違いない。
「何を言っているんだ」
「頭がおかしくなったのか?」
そんな言葉が幸子さんに投げかけられていた。
非難の声が飛び交う中、幸子さんは毅然とした態度で再度言い放った。
「これは死後離婚です。私たちのけじめです」
家の中はざわついた。ここには書きづらい罵声まで飛び交った。
「正幸さんは、最期まで私のことを心配していました。このままでは、私は生きていけません。ここで生き続けるのは無理です。死後離婚が正幸さんの唯一の遺言なんです」
「死後離婚」という言葉に理解が追いついていなかった一族も、幸子さんが発した「遺言」という言葉に反応し、一同は言葉を失った。
正幸さんは、最期の最後まで、幸子さんのことを想っていた。幸子さんの未来を案じ、幸子さんを愛していたのだ。その愛を貫くように、死後離婚という形を選び、幸子さんを自由にしたのである。
死後離婚の話がでたのは、正幸さんが亡くなる3ヵ月前のことだった。
デイサービスを受ける形で、2人の時間を過ごしていた正幸さんの身体は、著しい筋肉の低下がみられ、日を追うごとに細くなっていくのがわかるほどだった。
それでも精一杯の笑顔を幸子さんに向けていたとスタッフたちは証言する。正幸さんのその笑顔自体が、まるで別れを告げているようで胸が締め付けられる思いだったと幸子さんは振り返っているが、その日、正幸さんは、
「幸ちゃん、ちょっと、大切な話があるんだ」と掠れた声で言ったという。
「ん? なになに? どうしたの? 急に改まってさ」
幸子さんが不安を押し殺して聞き返すと、こういった。
「あのな、もし俺が…その…逝ったら、死後離婚をしてほしいんだ」
耳慣れない「死後離婚」。幸子さんが想像すらしたことのない言葉だった。
「何を言ってるの? あなたまで…」
幸子さんの声は震え、目からは涙が溢れ出した。
「聞いてくれ、幸ちゃん。俺が心配なのは、お前のこれからのことなんだ。俺が死んだ後、あの一族の中で、お前がどうなるか…。俺には、手に取るように分かるんだ。
お前には、そんな苦労をして欲しくない。だから、自由になってほしいんだ。これがいまの俺の唯一の願いと言うか、遺言」
正幸さんの言葉に理解が追い付かず、幸子さんは何も言い返すことができなかった。
「勘違いしないでね、俺は死ぬけど、お前と“離婚”するわけじゃないんだよ」
その言葉を聞いてほっとした幸子さんは、正幸さんの手を握りしめて、彼の意志を尊重して静かに頷いたそうだ。「死後離婚」と「離婚」、いったい何が違うのか。
「死後離婚」とは、法律上の正式な離婚とは異なる意味をもち、配偶者が亡くなったときに「姻族関係終了届」を市区町村役場に提出することを指す。大きなメリットは義理の両親や兄弟姉妹との親族関係を解消できる一方で、配偶者の遺産は相続でき、一定の要件を満たせば遺族年金も受け取ることもできる点だ。
幸子さんが死後離婚をすれば、正幸さんの遺産を相続できるものの、正幸さんの両親の介護や扶養の義務は一切なくなる。一族の墓の管理も必要ない。正幸さんは闘病のさなか、幸子さんを自由にする一手を考え、「死後離婚」を遺言として伝えることで、最愛の人を守ったのである。
葬儀の後、幸子さんは正幸さんの遺志に従い、死後離婚の手続きを行った。それは、正幸さんとの永遠の別れを意味すると同時に、幸子さんの新たな人生の始まりでもあった。
そして、あの長屋門を出た。もちろん、正幸さんの遺骨もスーツケースに入れて。
平野国美先生の連載記事『仕事を辞めた途端、無表情になった認知症妻が「奇跡的な回復」…!認知症薬より効果があった、看取り医の「突拍子もない提案」』もあわせてどうぞ
【さらに読む】仕事を辞めた途端、無表情になった認知症妻が「奇跡的な回復」…!認知症薬より効果があった、看取り医の「突拍子もない提案」