〈大物政治家やヤクザを稼がせ、1000億以上動かしたが…“伝説の相場師”の妻が明かした壮絶な生涯「身体障害者の子を持つ母親の投稿に胸を打たれ…」〉から続く
1980年4月25日、東京都中央区銀座で一般人が1億円を拾うという事件があった。このことは全国的に報道され、拾い主のトラック運転手は一躍時の人となったが、落とし主は現れないままで“昭和史の謎”として位置づけられている。
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しかし実は、落とし主には名乗り出られない理由があったのだという。ここでは『株の怪物 仕手の本尊と呼ばれた男・加藤の生涯』(宝島社)より一部を抜粋。当時、“伝説の相場師”として株式市場を席巻していた加藤の妻が明かす、「1億円拾得事件」の真相とは――。(全3回の3回目/最初から読む)
“伝説の相場師”加藤
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東京・銀座の昭和通り。仕事帰りのトラック運転手、大貫久男(当時42歳)が、ガードレールの支柱の上にあった古びた薄茶色の風呂敷包みを発見したのは1980年(昭和55年)4月25日の午後6時頃のことだった。風呂敷からは新聞の端がはみ出ていたため、大貫は古新聞の束だと思い、町内会の古紙回収にでも出そうと荷台にそれを放り投げた。
帰宅後、風呂敷包みを置いたまま銭湯に行った大貫が自宅に戻ると、そこには茫然とした妻の姿。包みの中にあったのは1000万円の束が10個、合計1億円の現金だった――。
札束は100万円ごとに日銀の紙封がしてあり、それらを纏め、さらに1000万円ずつ十文字に封が巻かれて透明のビニール袋に包まれていた。札束の上には4月24日付の『日経新聞』夕刊と『株式新聞』が乗せてあった。大貫は午後7時50分に110番通報。届け出を受けた警視庁本所署が日銀に持ち込んで鑑定を依頼すると、紙幣は連続番号になっておらず、市中から集まった古い紙幣を日銀が再使用のために束ねて市中銀行に出したものだと判明した。
大貫は一夜にして「時の人」となった。当時年末ジャンボ宝くじの一等賞金は3000万円。
夢の億万長者を巡るニュースは瞬く間に広がり、大貫の自宅にはマスコミが押し寄せ、脅迫状やいたずら電話が相次いだ。「表に出せない選挙資金」説や「株の仕手戦の資金」説、「麻薬取引の代金」説など様々な憶測が飛び交ったが、落とし主の権利が消滅する半年後の時効期限(現在は3カ月)を迎えても、落とし主が名乗り出ることはなかった。大貫は一億円の小切手を受け取り、税金を差し引いた6600万円を手にした。2年後に3700万円で3LDKのマンションを購入したが、残りは老後に備えて生命保険や貯蓄に回す堅実ぶりだった。
「幸せになるか、不幸になるか、僕の人生が終わった時に答えが出る」
遺失物の時効が成立した直後、そう語っていた大貫は、62歳となった2000年12月、趣味の釣りに向かう駅のホームで倒れ、帰らぬ人となった。心筋梗塞だった。
その後も1億円拾得事件は、昭和史の謎としてたびたび話題になったが、当初から落とし主として本命視されていたのが、投資家グループ「誠備」を率いていた加藤である。
約4000人の誠備会員を擁し、隆盛を極めていた加藤は当時、黒川木徳証券に歩合外務員として勤めながら、1億円の拾得現場から約200メートル離れた場所にあるスポニチ銀座ビルに事務所を構えていた。
事件の真相について加藤の妻、幸子に尋ねると、事もなげにこう明かした。
「あれは石井さんに届けるお金だったんです」
石井さんとは、稲川会横須賀一家総長で、のちに稲川会の二代目を襲名する石井隆匡こと石井進である。幸子が、今まで語られることのなかった当日の詳細を語る。
「3億円を預かって株の運用を任されていたのですが、先方の都合で、その株を売却して精算することになったんです。当日は運用利益1億円を付けて4億円を渡すことになっていました。私は自宅にいましたが、受け取りに来たのは、石井さんの東京の内妻、伊藤明子さんや浅草に拠点がある稲川会の関係の方などでした。日中にスポニチビルの前の歩道橋の辺りでクルマに積み込んで持ち帰ったはずが、夕方になって『1億円がない』と大騒ぎになったんです。主人は『誰かが誤魔化しているんじゃないか』と怒っていましたが、石井さんの関係者だけでなく、明子さんまでジーパン姿で必死に探していたという話を聞いて、置き引きだろう、と。そうしたら夜になって落とし物として届け出があったことが分かったのです」
加藤が後に聞かされた事の末は、至って単純だった。元金の3億円と利益分の1億円を別々に分けて持ち帰る際、それを運んだ稲川会の関係者が3億円分だけをクルマのトランクに積み、1億円の束を置き忘れてしまった。まさにその1億円は、石井が手にすべき利益で、元金の3億円は石井が借り入れた先に返済するカネだった。荷物を二つに分けたことで、完全に見落としてしまったのだ。それに気付いた稲川会の関係者が5分後に現場に戻った時には、すでに1億円は消えていたという。

「きっとトラックの運転手はカネを運び込むところを見ていたのだろう」
大貫が1億円を発見したとされる場所は、現金の受け渡し場所とは約200メートル離れていたことから、敢えて違う場所を申告したというのが、加藤側の見立てだった。1億円を包んでいた風呂敷は、黒川木徳証券の同僚が新築祝いに配ったものである。金の運搬に頻繁に使用しているうちに傷みが酷くなり、古い風呂敷だと認識されたようだ。
事情を知った加藤の仲間の証券マンからは、「私が落としたことにして名乗り出ようか」という申し出もあったが、加藤はこれを断っている。名乗り出られない理由が他にもあったからだ。
石井の株投資の原資は、実際には加藤の大口顧客でもあった京都の老舗石材会社、久保田家石材商店からの借入金で、その窓口だった久保田家石材の役員、木倉功は当時疑惑の渦中にいた。
疑惑の発端は1980年3月6日。戦後最大の疑獄事件と言われたロッキード事件の公判で、小佐野賢治被告がロッキード社から受け取った資金が、ハマコーこと浜田幸一衆院議員のラスベガスのカジノホテルでの約4億6000万円の賭博の損失に充てられた経緯が明らかになったことだった。

浜田はこの件で4月10日に議員辞職に追い込まれたが、その後も国会では浜田のカネを巡る疑惑追及が続いた。1億円拾得事件の当日も、浜田が関わったとされる千葉県富津市金谷の通称、砲台山の元国有地を巡る土地転がしの件について共産党の衆院議員、井上敦から質問が出ていた。田中角栄の金脈問題を追っていたジャーナリストの立花隆が、「『九億円の土地が一日で十六億円になった』怪」と『週刊現代』(1975年6月12日号)でレポートした土地取引の問題である。
わずか一日の間に、東産業から富洋物産、輝伸興産を経て、16億円で田中のファミリー企業である新星企業が取得しており、その4カ月後には田中の盟友だった政商、小佐野賢治の日本電建に渡っている。この一連の取引で中継役を務め、約3億5000万円の利益を上げた輝伸興産の社長が浜田だった。その後、社長は浜田から木倉に移っており、二人の関係について井上は質問のなかで、こう言及している。
「浜田幸一元代議士とこの木倉功氏との関係、これについては御存じロッキード商戦の夜の舞台となったそのエル・モロッコの社長自身が詳しく供述をされているわけであります。その幸(英二郎)社長の供述調書では、浜倉商事を設立し、エル・モロッコを開店する資金は、自宅を担保に入れて、銀行から融資をうけた以外は、木倉に出して貰いました。浜倉商事の設立当時の資本金も、木倉に出して貰いました。私を含めて株主は、いずれも自分のカネは出していません。木倉が出してくれたお金の内、5000万円は浜田先生が木倉に貸してくれたカネであることを後で聞いた記憶があります。云々とあって、木倉が不動産の取引で、浜倉商事に儲けさせてくれると言っていたことがありました。浜倉商事という名前は私がつけたものです。浜田先生と木倉の名前からとったのです。こういうように供述しておられる」
赤坂の高級クラブ「エル・モロッコ」は、ロッキード社の元日本支社長のクラッターやジャパンPR社長の福田太郎、シグ片山などのロッキード事件関係者が通った店として知られていた。
輝伸興産は当時、赤坂にある「エル・モロッコ」の事務所内に拠点を置いていたという。立花隆の『田中角栄研究全記録(上)』(講談社文庫)では、木倉の経歴はこう紹介されている。
〈〈昭和十八年生まれで、三十二歳。父親は第一肥料という会社を経営していて、藤山愛一郎氏を後援していた。それがきっかけで木倉功氏も政界人との付き合いがはじまったらしい。早大商学部卒業後、エルサルバドルに留学。帰国してから、輝伸興産を設立するまでは、浜田幸一代議士の私設秘書のような仕事をしていたという〉〉
木倉の知人によれば、第一肥料は富山県出身の木倉純郎が設立した全国に販売網を持つ大会社で、純郎は富山から衆院選に出馬したこともあるという。
「かつては東京・中野に豪邸があり、藤山愛一郎の有力スポンサーとして“中野銀行”の異名をとったほどでした。功は四男にあたり、すぐ上の兄、誠は強豪校の岐阜商でキャッチャーとして活躍し、大学卒業後は第一肥料や叔父が営む木倉音楽事務所で働いたり、不動産業を手掛けていた。誠は馬主としても知られ、スーパークリークのオーナーでもあった」
資産家一家に生まれたとはいえ、木倉功の30代とは思えない腹の据わった仕事師ぶりは、その特異な交友関係からも窺い知れた。加藤の妻、幸子が明かす。
「木倉さんは稲川会の石井さんとも親しい間柄でしたが、それとは別に山口組三代目の田岡一雄さんの長男、田岡満さんとは、幼なじみのように育ったそうで仲が良かった。そこに旧川崎財閥の川崎雄厚さん(のちの川崎定徳社長)が加わって一つのグループのような感じでした。主人と木倉さんとは、久保田家石材を通じて知り合いました」
明治創業の久保田家石材商店は、二代目の久保田茂太郎が、お墓の形状などを見て吉凶を判断する墓相学をベースに『世にも不思議なお墓の物語』(筆名は久保田茂多呂)を著し、そのタイトルを大々的に謳った広告宣伝で知られていた。のちに「六星占術」で有名な細木数子ともビジネスでがりを持つ。加藤夫妻は、たまたま東京支社を訪ねた時、売りに出されていた高尾のお墓を買ったことで縁ができたという。そこから京都在住の久保田茂太郎らは加藤にとって大きなカネを動かす有力顧客となった。
加藤は、自らが相場を通じて最も儲けさせたのは、久保田家石材グループだったと言って憚らなかった。その久保田家石材に墓石事業や霊園開発のノウハウを学ぶ修行の一環で入社し、役員を務めていたのが木倉だった。一億円拾得事件で世の中が騒然となるなか、木倉は加藤にこう告げた。
「落とし主だと名乗り出て、私の名前が出れば、ハマコーさんの名前も出てしまう。そうなると逆に加藤さんの評判を落としてしまうことになる。だから返して貰わなくていい」
確かにとても名乗り出られる状況ではなかった。だが、宙に浮いた1億円をそのままにしておく訳にもいかず、加藤はその年のうちに3000万円、3000万円、4000万円と三回に分けて木倉に渡し、全額を返済したという。幸子が後日談を明かす。

「石井さんが失くした1億円は、久保田家石材側が補填したはずでした。ただ、私たちの返済金は、実際には久保田家石材側には戻っていなかったようです。どういう事情があったのか。それは私にも分かりません。1億円の件があってから、私も事ある毎に『あれは加藤さんのおカネでしょ?』と聞かれましたが、その度に否定していました。誠備事件で検察側から任意の事情聴取を受けた際にも、検事さんから『あれはどういうことですか?』と尋ねられましたが、『主人は、俺は落とすようなバカなことはしない。そこまで耄碌していないと言っていましたよ』と説明しました」
木倉は、その後も加藤の仕手戦に深く関わり、加藤の晩年まで付き合いを続けた。会うのは決まって旧ホテルオークラにあった「バーハイランダー」だったという。木倉に改めて取材を申し入れたが、「僕の名前はちょいちょい出てくると思いますけど、加藤さんとはそんなに深い付き合いじゃないです。あの人は秘密主義だから、会ってくれないんですよ。お金儲けのことだから、秘密にしなきゃしょうがないんですけどね。僕は(株投資の収支は)トントンくらいかな」と煙に巻き、それ以上は何も語ろうとはしなかった。
(西 伸彦/Webオリジナル(外部転載))