「政治家としてできることはやり尽くしたと思っているので、後悔はないです」
そう17年間の国会議員時代を振り返るのは、昨年10月の衆議院議員選挙で議席を失い、3月31日をもって、政界引退を表明した義家弘介氏(53)だ。
義家氏は母校・北海道の北星学園余市高等学校の教師を経て、2005年、横浜市教育委員会教育委員に就任。2006年には安倍内閣に設置された内閣官房教育再生会議会議の担当室長に抜擢された。
2007年の参議院選挙に比例区で自民党から出馬し初当選。2012年には衆議院に転じ、神奈川16区から出馬して4回当選。文部科学副大臣、法務副大臣、衆議院文部科学委員長、同法務委員長などの要職を歴任した。
義家氏が一躍脚光を浴びたきっかけは、担任教師の卒業生を送り出すまでの過程が、ドキュメンタリー番組として全国放送されたことによる。連続テレビドラマや映画化なども続き、いつしか「ヤンキー先生」という愛称で知られるようになった。
地元の長野県から北海道の高校に編入した当時を、義家氏が回顧する。
「私は長野の県立高校2年生のとき、暴力事件を起こして中退しました。その後、両親に絶縁されて里親に預けられました。当時はドロップアウトをした子どもたちの受け皿になる学校はまったくなかったのですが、ある日、里親さんが『全国から不登校生を受け入れている高校が北海道の余市町にある』と教えてくれて、編入したのが1988年のことでした」
北海道の北星学園余市高等学校は、あらゆる問題で学校に行けなくなった生徒たちを全国から集めていた学校だったが、当時は暴力事件などが頻発していた。
先生たちと衝突しながらも、寮生活では仲間たちと切磋琢磨し、何とか1990年に卒業。弁護士になることを目指して明治学院大学法学部法律学科に入学した。教師になろうと思ったことはなかったという。
「大学4年生の秋にオートバイ事故で内臓が破裂し、意識不明の重体になったとき、北星余市高校時代に担任だった女性の先生が、事故の一報を聞いて、搬送先の横浜にある病院まで駆けつけてくれました。意識が朦朧としている中、先生は涙ながらに『死なないで』と声をかけ続けてくれたのです。
私は0歳で両親が離婚していて、父方に引き取られていたので、母親という存在なしで育ちました。しかし、そのとき先生が実の母親のように感じたのです。とはいえ、どんなに望んでも私は彼女の子どもではありません。
ならば、もし生が続くなら、彼女が向き合ってきた教育という名の道を歩いて行こうと病院のベッドで考え続けていくうちに、教師になろうと決心しました」
大学卒業後の1995年、北海道の大手学習塾へ就職。1999年、念願が叶って母校の教師に採用された。赴任して2年目の2001年に、世間を大きく騒がせた事件が起こった。
「2001年9月、全校生徒600人中70名以上が過去を含め大麻などの薬物に関わっていたことが明らかになったのです。この事件はマスコミに大々的に取り上げられ、その影響で新入生も激減、学校は存続の危機に陥りました。
当事者の生徒と薬物に関わっていない子たちとどう向き合っていくべきか、教師たちで連日連夜議論が続きました。当事者で停学処分を受けた子たちには毎日各担任が厳しく対峙し、学校に残った子たちに対しては『仲間とは何か、なぜ知っていたのに言えなかったのか、言わなかったのか』という問題を徹底的に話し合いました」
この事件が新たな契機となり、学校は生まれ変わり、停学処分を受けた生徒も学校に戻ってきた。そして、同校出身で元不良少年という経歴の義家氏が、特に注目を浴びることになり、氏の本が出版され、ドキュメンタリー番組、テレビドラマ化が続き、一躍時の人となった。
「もともと、テレビには出たくなかったのですが、多くの人に母校の大事な教育活動を知ってもらうための唯一の手段だと決心しました。私には過ちの多い歴史があるので、教師としてひっそりと生きていたかったのが正直なところでした。
私の生い立ちや教師としての活動がドキュメンタリーやドラマになったことで、全国を回って講演活動もするようになりました。
世間からは『ヤンキー先生』と呼ばれるようになり、たまたま人とは少し違う経験をしただけの凡人である私が、半ば公人扱いされることに戸惑いも感じていました。
『これからも母校の一教員として生きていきたい』というのが偽らざる本音でした。しかし、全国から悩み相談が寄せられる中で、『ヤンキー先生』として、より大きな教育という名の森をつくり直すことも求められている。やがて私は『私』と『公』の二者択一を迫られるようになったのです」
念願の母校の教師になったはずが、思いもよらぬ形で「ヤンキー先生」として名を轟かせることになった義家氏。
後編記事『「一生涯、若者と向き合っていきたいです」ヤンキー先生・義家弘介氏が明かした《日本の教育の問題点》と《政界引退後の目標》』では、一転、政治家を志すに至った理由や政界引退後の予定などについて、義家氏が語る。
【つづきを読む】「一生涯、若者と向き合っていきたいです」ヤンキー先生・義家弘介氏が明かした《日本の教育の問題点》と《政界引退後の目標》