1999年11月28日、幼い姉妹の命が失われた。
【映像】「子どもがいるの!」炎上する車に叫ぶ母親
「危ないよ、お姉さん! 逃げろ! 逃げろ!」(事故現場の男性)「子どもがいるの! 子どもがいるの!」(姉妹の母・井上郁美さん)
【2024年11月28日 大分市内】
郁美さん「保育園のお便り帳。読んでいくとハマってしまって。やっぱりこういう記録ってすごい大事だったんだなって」「『お部屋ではキティちゃんの塗り絵をしました。時々クレヨンを食べようとしていました』って書いてある。クレヨン食べるなー笑」
奏子ちゃん(かなこ・事故当時3歳)、周子ちゃん(ちかこ・事故当時1歳)。事故から25年、2人の母・郁美さんと父・保孝さんが2人の思い出の品を見つめている。
保孝さん「身長87センチだった、3歳で。手形もあるね。『大きくなったらおばけになりたいなあ』」
郁美さん「『大きくなったらオリンピックの選手になりたいなあ』って周子さん」「だいたいいつも命日になるまでが辛いんですよね。だから早く終わらないかなーって、いつも思ってる。みんな“命日病”って言うけれど、その日が来るまで『何年前までこの日は生きてた』って思い出してしまうから辛いんですよね」「(手帳を読みながら)『最近ママが帰るなり、お買い物袋を解体して、ちゃんとネギや玉ねぎ、じゃがいも、牛乳などをしかるべき場所にしまってくれました』。えらいね。3歳と6日だよ、これ。こんなことできてたのね」
1999年11月28日、午後3時半ごろ、東京世田谷区の東名高速上り線で、大型トラックが乗用車に追突して炎上する事故があり、乗用車の後部座席に閉じ込められた子ども2人が死亡した。 当時の状況について、郁美さん、保孝さんは以下のように振り返る。
郁美さん「私の後ろの後部座席の右側が周子で後部座席の左側が奏子。私が運転席で助手席が夫、そういう配置でした」「ちょうど東京都と神奈川県の県境に多摩川が走っていて、それを超えたら2車線になって用賀料金所がある。その2車線になってすぐ、後ろからトラックが来てるなって」「料金所に向かってみんな減速し始めていて『後ろも減速してるかな』と鏡を見て、もう1回見て、『2回目に見た時よりグワッと近づいてきてる感じがするな』と。3回目見た時にはもうミラーいっぱいにトラックが映っていて『ああ!』と思った次の瞬間にはゴー!という音をたてて、ものすごい振動もあって縦揺れがあって」
保孝さん「私は助手席にいて、完全に眠ってたわけじゃないんですけどちょっと、ウトウトとしていたんですが、突然、ガガッ!ていう音がしてそのあとは、ガガガガガガッ!と押された。それで、前の車に、ガシャンって、音がして、止まって」「後ろの子どもたちも『わーっ!』と言って『とにかく逃げよう』と2人で話をして、扉を押そうとしたんですけどその時にもう私の左腕が挟まっているのが分かってそれで、とにかく『そっち側開かない?』って聞いたら『開かない』と」
郁美さん「『窓から逃げよう』と声をかけて、パワーウインドウのボタンを押したら、窓がスルスルスルッと降りてくれて、私はそこからするりと抜けることができました」「すぐに後ろを振り返って『周子・奏子を引っ張り出さなければ』と思ったんですけれど、車の後ろの扉には触ることはおろか近寄ることさえできないくらい、ものすごい熱に包まれてしまっていて…。その瞬間に『奏子たちはダメだ』って思いました」
保孝さん「窓が開いたからだろうと思うんですけど、後ろからふわっと火がお尻の下に、お尻の下が熱くなってきて、挟まっている腕と体がやっぱりものすごく熱くなった」
二人の姿は見えたのだろうか?
保孝さん「いや、思い出せないですね。左腕が挟まっていたから後ろを見えるような角度じゃなかった。右手は外の方につかまれていた」
郁美さん「私はそのあと、助手席側に回って、主人の体が一部見えたんですね。近くにいた人に『一緒に引っ張り出してください』と手を貸してもらって、ずるずるずる、と主人が引きずり出された」
保孝さん「引っ張り出されていく時に、かなこが赤ちゃん言葉っていうのですかね、『熱い』とは言えずに『あちゅい』って発したのがずっと耳にこびりついている」
郁美さん「事故車両にとても近づけるような状況ではなかった。『消防車呼んでくれてますか?』『119番してくれましたか?』って。あまりにも消防車って到着できないんだなって。永遠に到着しないんじゃないかなって思うくらい消防車が来なくてその間どんどん炎は、激しくなっていて…」
郁美さん「奏子・周子が取り出されたのは私がもう救急車に乗せられて、現場から去ったあと。完全に炎が消し止められて。トラックのタイヤが私たちの乗用車のトランクの上に乗り上げて、それを引き裂くようなことをやって、やっと奏子・周子たちを取り出すことができた、とあとから分かった」
保孝さん「合計7回、手術受けています。皮膚の移植手術。「5回目が、くっついていた左腕と脇腹を剥がす手術。これはかなりでかかったですね」「眠らされてた時に奏子・周子が出てくる夢を見たんです。どこかの公園で階段を登っていく様子。時々振り返って『パパ大丈夫?』って言いながら気遣ってくれた」「3月に初めて退院して帰ったときに子どものおもちゃがまだ置いたままだったんです。おもちゃを見たときに初めて号泣しました。もう子どもたちはいないんだ。もう二度と会えないんだという思いが本当につらかった」
弁護士の内藤秀雄氏。彼はかつて東京地検交通部の検事を務めており、その際、井上さん夫婦の事件の担当をした。
内藤弁護士「実は、東京地検に来て頂く前に、郁美さんは写真週刊誌の取材を受けておられました。私はそれを見て、少し驚きました。大体ご遺族の方は、一人でひっそりと、悲しみと苦しみ、悔しさに耐えていらっしゃるイメージがあったのですが、郁美さんは自ら取材を受けられて、ご自身やお子さんたちの写真を掲載させていた。私は郁美さんに『どうして取材を受けられたのですか?』と尋ねました。すると郁美さんは、『私は亡くなった2人の娘の死を絶対に無駄にしたくないんです』とはっきりと言われました。その言葉が今でもとても印象に残っています」
郁美さん「国が違えば多分殺人罪並みの厳しい法律が適用されていたかもしれない。でも、私は全く法律を知らない。何人死なせても懲役5年止まりだとも知らなかったし、交通事故が全て“過失”という言葉のつく罪でしか裁かれていないことも知らなかった」
内藤弁護士「正に、まれに見る悪質な事故が重大な結果を引き起こしたと感じました。被疑者はサービスエリアで飲酒をして、しかも、大型トラックを運転している。料金所で通行カードなどを出そうとした時に手元がふらついてそれを落として、車から降りて拾う時に、係員からふらついているという指摘を受けた。自らも足元がふらついていることを十分そこで自覚をしたうえで運転をして、この重大な事故を発生させた」
保孝さん「『加害者は、業務上過失致死傷の罪で裁かれるんですか?』と(担当の検事に)聞いたら『はいそうです』と。その最高刑を聞いたら『懲役5年です』と言われて」
内藤弁護士「実はこの事件の処理をする際に、交通部内で『未必的な故意による殺人もしくは傷害致死に問えないか?』という意見があったくらいです。しかしながらそれは故意というものを法的に厳密に判断するとやはり難しかったものですから業務上過失致死傷罪の最高刑である懲役5年を求刑することにしました」
2000年6月、東京地裁は懲役5年の求刑に対して懲役4年の実刑判決を言い渡した。
(当時を振り返って)保孝さん「1年減刑されたことに『なぜだ』という思いがずっとあった。判決理由を読んだ時に、『情状酌量の余地』と書いてあってどれをとってみても、もう我々にとっては納得できなかった」
郁美さん「一番、許せなかったのが、加害者にもその社会復帰を待ち望む妻子がいる。奥さんがいようが子どもがいようが、彼は生きているわけだから、何十年、刑務所に放り込まれても、戻れるだけまだいいじゃないか」
(2000年当時の会見にて)郁美さん「奏子や周子のこれから70年80年って生きられたであろう命の重さに比べて懲役4年というのはあまりに軽いんじゃないか」
(当時を振り返って)郁美さん「私たちの娘たちは戻ろうとしても戻れないんだから、なぜそれが加害者の情状酌量の理由になってしまうのか、全く理解できない。本当に絶望的な気持ちになってしまいました」
駅前で署名活動を行う郁美さん「どんなに悪質な事故、飲酒運転、無免許運転、無車検の車に乗って起こした事故でも、車による事故であれば、何人殺しても最高5年までしか認められません。この最高刑があまりにも低すぎるのではないかと我々は疑問に思っています。どうか皆さま、ご賛同いただける方には署名への協力をお願いいたします」
(当時を振り返って)内藤弁護士「正直なところ井上さんたちのご活動によって『法定刑が変わるか』というぐらいの感じは持っていました。しかしながら、“過失犯”を“故意犯”という概念に変えるまでの改正がなされるということは当時は全く考えていませんでした」
2001年、井上さん夫妻は法務大臣に署名を提出した。
2001年3月24日、事故車が公開された。
(車を触りながら)郁美さん「これはアンパンマンのタオルとか…意外とこういうのが残ってるんですよね。ひとつひとつを見るにつけ、酔っ払いの運転手の無謀な行為に対して今までの中で一番、私は怒ってます」
保孝さん「飲酒運転は犯罪である。悪質な交通事犯に対してはもっと厳罰を、という訴えを今後も続けていかなきゃいけないと」
2001年、井上夫妻は国会にも足を運ぶ。
(参院法務委員会にて)郁美さん「私たちは今回の法改正がまず第一歩だと思っています。やはり量刑の問題については引き続き法務省や警察庁、それから国会の先生方とともに改正していただけないかと、これからも継続的に協力をお願いしたいと思っています」
そして、2001年11月28日、飲酒運転や著しい高速度運転などの悪質かつ危険な運転行為により人を死傷させたものに対する罰則は強化された。
(当時を振り返って)保孝さん「その日が、奏子・周子が私たちのもとから旅立った日だったものですから、これは二人が自分たちのことをいつまでもいつまでも覚えておいてほしいという、精いっぱいの自己主張をしている、そういうことなのかなと」
(法改正を経て当時の)郁美さん「もはや軽い気持ちで危険な運転をしているドライバイーさんたちにそういう運転は続けさせない。1日も早く今やってる人はやめてほしいと思います」
「危険運転致死傷罪」(創設時):アルコール又は薬物の影響により正常な運転が困難な状態で四輪以上の自動車を走行させ、よって、人を負傷させた者は十年以下の懲役に処し、人を死亡させた者は一年以上の有期懲役に処する。その進行を制御することが困難な高速度で、又はその進行を制御する技能を有しないで四輪以上の自動車を走行させ、よって人を死傷させた者も、同様とする。
(当時を振り返って)郁美さん「私たちの中ではやっぱりせっかく作ってもらった危険運転致死傷罪がちゃんと使われているか、ということも、見守り続ける必要があるだろうと思っていたところ、やっぱりいろいろと問題が出てきてしまった。飲酒ひき逃げが急増してしまってその背景には飲酒運転をして、そのままそこで現行犯で逮捕されてしまったら、危険運転致死傷罪ですごい厳しい罰が適用されちゃうかもしれないから『やばい、逃げちゃおう』と」

2006年8月25日、悲惨な飲酒事故が起きた。福岡市東区の「海の中道大橋」で、乗用車に追突されたRV車が海に転落し、子ども3人が死亡したのだ。
(当時を振り返って)郁美さん「よりにもよって市の職員、公務員が、飲酒運転をしてひき逃げをして、大量の水をがぶ飲みして、お酒の数値をごまかそうとした」
2007年、署名呼びかける郁美さん「飲酒ドライバーが事故を起こしても、怖くなって逃げた、逃げてしまうことによって、刑罰が軽く済まされてしまっている、そのような現実があります。飲酒ひき逃げ犯に対して、もっと厳しい罰が言い渡されるよう、法律の見直しを求めて、署名をお願いしています」
遺族と共に会見に臨む郁美さん「危険運転致死傷罪の持つハードルの高さというものが、被害者遺族の前に立ちふさがって、どんなに被害者たちが危険運転致死傷罪の適用を求めても検察で断念されてしまったり、裁判の方でそのような判決が出なかったりということで打ちのめされてきました。この法律が出来ただけで喜ぶのではなく、使われ方というものをずっと見守っていかなければいけない」
2014年7月、札幌のビーチに通じる市道で道路の左端を歩いていた女性4人を飲酒運転の車が次々とはね、そのまま現場から走り去った。ビーチで大量に酒を飲んでいた運転手の男は事故直前スマートフォンを見ていたと供述している。
郁美さん「4人の女性を次々はねていて、うち3人も亡くなってしまっていて、そんな状態でよく何キロも先まで普通に止まることもなく、何事もなかったかのようにコンビニで買い物までして、そんな事件がまさか過失運転で最初起訴されるとは思っていなくて」
札幌地検は当初、男を危険運転致死傷罪(最高で懲役20年)ではなく、「過失運転致死傷罪」(最高で懲役7年)で起訴した。
危険運転致死傷罪の適用をめぐる問題について法社会学の視点から分析・検討している、福岡大学の小佐井良太教授「例えば『スマートフォンをずっと見たわき見によって事故が起きた』と被疑者が述べたとき、事故がアルコールの影響によるものだと証拠に基づいて裁判の場で証明していくハードルがおそらく非常に高いと感じ、検察において危険運転致死傷罪による起訴をためらわせる原因になった」
内藤弁護士「検事も法律家です。被害者ご遺族の方あるいは一般の方が『これだけの結果を生じた事件なのだから、当然、危険運転致死傷罪を適用すべきだ』とお考えになっても、検事は法律家として、緻密にその部分を法律適用が可能かどうかという判断をします。ここで法律の解釈と、国民の感情・考えに乖離が生じてしまうことはやむをえないかもしれません」
札幌地検は補充捜査を行った末、2014年10月、危険運転致死傷罪への訴因変更を札幌地裁に請求した。
2024年10月、井上さん夫妻は群馬県トラック協会の集会で講演に立っていた。
保孝さん「私たちはあの事故の日以来、二度と以前と同じ生活に戻れなくなってしまいました。体の傷は皆さんにお見せすることができますが、目の前で子どもが焼き殺される、そういった体験をした私たちの喪失感、絶望感、心の傷は残念ながら皆さんにお見せすることができません。この心の傷をずっと、抱えて生活していかないといけないのかな、と覚悟を決めています。そんな私たちが何よりもつらいのは、その後も私たちと同じような思いをする被害者、被害者遺族の方が出ている、そういう報道を耳にし、目にすることです」
2024年5月、群馬県伊勢崎市でトラックが中央分離帯を越えて乗用車に衝突し家族3人が死亡した事故で、警察はトラック運転手の男を危険運転致死傷の疑いで逮捕した。事故の後に、血液から基準値を超えるアルコールが検出された。
遺族会見にて死亡した塚越湊斗くんの祖母「そこまでお酒を飲みたいのなら、なぜトラックのドライバーをやっていたのか、犯人に聞きたいです。なんか悔しくて、悲しくて、気持ちがよくわからない」
郁美さん「ほんとに何にも変わってないと思ったんですね。私たちが25年前に東名での事故を起こされた時とほんとに似ている事件だな、と。職業運転手が業務中にわざわざお酒を飲んで、車のハンドルを握ってしまったこと。そして幼い子どもが犠牲になってしまったこと」
保孝さん「もう二度と私たちと同じ思いをしてほしくない。そういう思いで私たちは今も活動を続けています」「『飲酒運転はゼロにできるはずなのに』という思いを持っての活動を死ぬまで続けていくことになるのかな。そういう意味ではまだまだやることがあるんだと実感として持ってます」
被害者である小柳憲さん姉・長文恵さん「夜中に、固定電話が鳴るっていうのは、いい知らせではない。電話をとった主人が私に『けんちゃんが…』と言ったので弟が電話をかけてきたと思ったが、その先に『亡くなったって』と続いたので驚きというか『なぜ?』という…」
2021年2月、当時19歳の少年の運転する車が時速およそ194キロで走行し、交差点を右折しようとした小柳憲さんの車に衝突した。小柳さんは出血性ショックで死亡した。
長文恵さん「194キロと聞いたとき『聞いたこともないような速度だ』と思った。一般道ですよ」「電話がかかってきて、検事が名乗ってその後に『この事故は過失で危険運転には問えませんでした』という話をされた」
郁美さん「『直線道路だから、適用できないんです』という説明を平気で被害者遺族にされていた。だが、私たちは『そんなことは法律に書かれていないのに』と思う」
危険運転致死傷:次に掲げる行為を行い、よって、人を負傷させた者は十五年以下の懲役に処し、人を死亡させた者は一年以上の有期懲役に処する。二 その進行を制御することが困難な高速度で自動車を走行させる行為。
福岡大学の小佐井良太教授「自車の進行を制御することが困難な高速度でこれまで危険運転が認定された例は、典型的にはカーブでスピードを出しすぎたりして曲がりきれずに道路を外れて事故を起こした、こういった事案が典型だった」
2022年8月14日会見にて長文恵さん「検察官の説明としては、以下の通りでした。本件の加害者は衝突するまで真っ直ぐ走れている。例えばカーブを曲がり切れなかったというのなら、危険運転の証拠になるが、直線道路での走行を制御できていたということになるので、危険運転には当たらない」
小佐井教授「直線道路で進行を制御することが困難な高速度、この類型を認めることがこれまでなされてこなかったため、過去の裁判例に照らしたときにハードルが高い、このように検察の担当者には捉えられた」
長文恵さん「危険運転にならないって言われたときに『でもこんなスピードなんですよ。194キロって危険じゃないですか?』と(聞いたら検事は)『普通の感覚では危険だと思う』と。だけど『法の危険運転と致死罪の危険運転は違う』とおっしゃったんですよ。そしたら何キロだったら危険なのかなと」
郁美さん「もし悔しい思いをされていて、それでちゃんと危険運転致死傷罪を適用してほしいと思っていらっしゃるのであれば、闘う方法はいくつかあるよ、と私たちのほうからも助言させていただいた」
その後、郁美さんは大分で署名活動に協力した。
郁美さん「多くの国民の声を受けて国が動いて、法律を作ってくれたのに、結局各地の検察庁がなかなかその法律を潔く使ってくれないことに遺族が苦しめられてる。こう聞かされると、私たちもいたたまれなくなってしまいます」
2022年12月1日、大分地検は危険運転致死罪への訴因変更を大分地裁に請求した。
長文恵さん「電話1本でした。『危険運転で裁判所に請求しました』と言われたんです。驚いて郁美さんに連絡したんですよ。そしたらすごく喜んでくれて。『側にいたらハグしたいわよ』って言ってくれる。私も多分泣きながらしゃべってましたよね。こんなに嬉しいことはないという気持ちで」「郁美さんたちも私たちが、こうやって辛い思いしてるっていうのを知ると、自分たちのことように悲しんで下さるんですよ。すごく応援して下さってるし、危険運転になるってなると信じてくださってるので、心強い」
2024年11月5日、初公判で被告側は過失運転については認めたものの「危険運転致死にはあたらない」と起訴内容を一部否認した。
裁判長「判決は11月28日15時から」
(当時を振り返って)保孝さん「(東名の)事故が起きた日から2年目に出来た危険運転致死傷罪、それと同じ日に(大分の)判決が出る。危険運転致死傷罪が適用されるかどうか、これを裁判所が判断するのが同じ日だと。私としては本当に何か偶然以上のものがあるのでは、という思いをしてます」
郁美さん「裁判所が使っている物差しと、一般市民が持っている物差しがあまりにも違うんじゃないかと。今回の大分の194キロの事件の判決も果たして一般市民の感覚と裁判所が持っている物差しが近づいてきているのか、離れてしまっているのか、それを測る試金石になるかな、と思っています」
裁判長「主文、被告人を懲役8年に処する」
大分地裁は「制御困難な高速度だった」などとして危険運転致死罪を認め、当時19歳の男に対して懲役8年の実刑判決を言い渡しました。
小佐井教授「大分の裁判では、レーシング場での194キロの再現実験で実際にハンドルのぶれ、車体の揺れ、こうしたものがどのように現れるのか、それがドライバーの運転操作にどの程度影響を与えるのか試した。そして、一般道で194キロで車を走行させる、これはほんの僅かなハンドル操作のミスによって、重大な事故につながる危険性がある、このことを立証しようとした。検察側はそれに取り組んだ、こういうことだろうと思います」
判決後の記者会見で長文恵さん「この危険運転致死罪の意味そのもの、なぜ、この法律が作られてきたのかというのは悪質な故意犯を罰するためじゃなかったのかなって思うので。認められたっていうのは、今まで苦しかったですけど、でも今思えば当然であると思います」
内藤弁護士「どんな事件でもそれは重大な事件であることは変わりはないんですが、今回は特にご遺族や支援団体の方たちの声が県警や検察をさらに真剣にさせてその結果このような判決に結びついた印象は持っています。県警も地検も補充捜査は、大変な労力をかけたと思います。それによって結果がついてきた」
郁美さん「こういう画期的な判決が言い渡される日が娘たちの命日でもあり、危険運転致死傷罪が成立した、誕生した日でもある。空の上から、悪さというかいたずらをしてる子がいるんだなあと個人的には思った」
郁美さん「事件や事故にあって被害者になってしまった人たちというご縁のあった方をお誘いしていて、それも奏子・周子が作ってくれた縁かな、と思ってます」
2024年の偲ぶ会で内藤弁護士「井上さんたちに初めてお会いしたのは25年も前です。私も皆さんと同じように井上さんたちによって人生を変えさせていただいた。井上さんたちに会わなければ私は今こうやって被害者を支援する弁護士にはなっていなかった。本当にそういう意味では、これから私もがんばっていきます。どうか皆さんも一緒にがんばっていただければと思います」
(偲ぶ会を振り返って)内藤弁護士「皆さん、事件で被害を受けた直後は本当にもう、『誰も助けてくれない。この世の中で自分たちだけ』みたいな時に、井上さんたちが助けてくれる、一緒に話を聞いてくれる。もうすばらしいという言葉では足りないぐらい、大切なことだと思っています」
「いっち、にっの、さ~ん」
短冊に書いたメッセージを風船で飛ばす被害者の遺族。
郁美さん「奏子・周子たちだけではなくお空にいる多くの被害者や遺族に向けて飛ばしてる風船。その他の被害者の方々にとっても大切な家族がいて、その人たちへのメッセージどうぞ書いてくださいと思っていて」
保孝さん「本当に25年経ったのかという思いもありますね。でも、まだ25年しかやってないという感じもあります」「気持ちとそれから体力が続くかぎり、これはやらないと、天国にいる奏子・周子が『まだまだだよ』と言い続けるんじゃないかなと、思っています」
井上一家の事故があった1999年に9000人を超えていた交通事故の死者数は2022年には2610人まで減少した。だが2023年、わずかながらも増加に転じ今年も11月末までに2376人の命が失われている。(ABEMA NEWS)