日中の最高気温が9度にも満たない寒空に覆われた能登半島。朝から断続的な氷雨が続く12月17日、天皇陛下と雅子さまは、石川県輪島市を訪問された。
2024年9月の豪雨災害は、元日の地震で甚大な被害を受けた奥能登を襲い、輪島市では11人が亡くなり、1260棟あまりの住宅が損壊や浸水するといった“二重被災”が、人々を苦しめ続けてきた。両陛下は3月と4月にも能登地方を訪問し、以降も傷ついた被災者に寄り添おうとされてきた。
「天皇陛下と雅子さまは、“何としてももう一度2024年内に被災地へ”と、強く希望されていたと聞いています。復旧作業が進んでいた能登を豪雨が襲い、さらに人々を苦しめていたことに、いっそうお心を痛められていました。
今回訪問された輪島市の久手川町は、いまもがれきが散乱したままで、道路などの復旧はほとんど進んでいない状況でした。3月に足を運ばれた輪島市役所も再訪されましたが、玄関口の敷石がめくれ上がったままだったりと、時間が止まったような状況だったと……。復旧の遅れには、両陛下も驚かれたご様子だったそうです。
今回は宮内庁のマイクロバスを東京から運び、顔がよく見えるようにと、冷たい風が吹き込むなかでも、窓を全開にして手を振り、沿道の奉迎者に応じられていました」(宮内庁関係者)
被災地のご視察や黙礼、被災者へのお見舞い、災害救助や復旧作業に携わる関係者への労いと、現地では8時間ほどを、両陛下は分刻みで移動されていた。皇室担当記者はこう話す。
「両陛下は、バスでは進行方向の左側の席で前後に座られ、お車の右側に奉迎者が並んでいると、わざわざ右側に移動されていました。しかも雅子さまは、時折バスの中で立ち上がられ、沿道の人々に向けて身を乗り出すかのように、手を振られていたのです」
魂を込めて、被災者を励まそうと奮闘される雅子さまのお姿に、感動した表情で本誌に語るのは、沿道にいた藤澤香織さん(51)だ。
「ご成婚のとき、雅子さまがお召しになっていたコートに似たものを買って着ていたほど憧れていたもので……その雅子さまがお手を振ってくださって、本当にうれしくて元気が出てきました。両陛下がいらっしゃることで、全国に被災地の現状を知ってもらえるきっかけになるので、本当にありがたく思っています」
■お座りになる時間がほとんどないほど…
両陛下は、51人が避難生活を送る輪島中学校で、被災者に声をかけられた。その一人、前原郁夫さん(85)はこう振り返る。
「天皇陛下から『大丈夫ですか』とお声をかけられました。そして雅子さまからは、『これからの健康を気遣ってください』とのおことばをいただきました。大変光栄で、感謝感激です。なんとお優しい皇后さまなのかと、ひしひしと感じました」
避難所での陛下と雅子さまは、椅子に座る高齢の被災者に向かって、中腰で、時にはそれよりも腰を落とし視線を合わされて、お声がけを続けられていた。
「両陛下ともに、かなり腰にご負担がかかっていたとお見受けしますが、そうしたことをまったく周囲に悟らせないように対応されていました。またバスの中でも、人々が見えるたびに位置を変えられていましたし、ゆっくりお座りになる時間はほとんどなかったはずです。
お見舞いの後に両陛下は、お話しされた被災者には涙を流す人が多かったことに気を留められていたそうです。二重被災がいかに人々の心を傷つけてしまったのか、あらためて能登の被災者を励まし続けなければならないと、ご決意を新たにされたはずです」(前出・宮内庁関係者)
ほとんど“立ちっぱなし”で体力的にもご負担がかかったとしても、人々の涙を止めたい……。そう誓われた雅子さまは、これからはどのような形で能登の人々に寄り添われようとするのだろうか。元宮内庁職員で皇室解説者の山下晋司さんは、その“鍵”について次のように話す。
「大きな自然災害の場合、被災直後のお見舞いだけではなく、復興状況を視察されるために、再び訪問されることがよくあります。復興状況のご視察は、被災地の人々に“忘れていませんよ”というお気持ちが伝わると思いますが、被災直後の訪問に比べると、ポジティブな雰囲気に包まれることが多いですね」
能登の人々は、再び笑って過ごせるような日々を取り戻すため、一日一日を必死に生き抜いている。前出の皇室担当記者は、
「両陛下は2025年1月に兵庫県を訪問され、阪神・淡路大震災30年追悼式典に出席されます。追悼や鎮魂から、復興までの被災者へのお心寄せの形は、上皇ご夫妻から受け継がれ、最重要のおつとめとして臨まれています。
能登半島の被災地に対しても同じように、復興への歩みを見守られ、両陛下は実際に訪問されて激励されていくことでしょう。4度目のご訪問も、そう遠くない時期に行われると思います」
天皇陛下と雅子さまは今回の“氷雨のご慰問”でいっそう覚悟を固められ、これからも復興まで能登の人々に寄り添われていく。