「ハコモノ行政」という言葉がある。国や地方公共団体が公共事業を実施する際、施設すなわち「ハコモノ」の整備は、文化を育て、根づかせる手段にすぎないのに、ハコモノの建設自体が目的になって、施設が十分に活用されない状況を批判する表現である。
【画像】3年間も“水”を与えられなければ文化は…ほぼ使えなくなる「3施設」
事実、公立の劇場やホールの多くは、いまなお十分に活用されているとはいえない。1970年代には、それらは全国に400にも満たなかったのが、2010年代には3,000を超えるまでに増えた。とりわけ「ハコモノ行政」批判が繰り返された1990年代には、10年間で1,000を超える施設が新設されている。
しかも多くの場合、そこで開催されるソフトについて検討しないまま、「ハコモノ」というハードだけを整えたため、極端な場合、すぐれた音響でクラシック音楽を楽しめるはずのホールが使われるのはカラオケ大会くらい、といった事例が批判的に報じられた。
だが、東京を中心とした首都圏の大規模な劇場やホールは、こうした批判を浴びるまでもなく機能している。なかでもバレエやオペラを上演できる舞台機構が備わった大きな劇場やホールは、首都圏でも数がかぎられ、各団体で取り合いになっている。これは言い換えれば、ハコモノとソフトが不即不離の関係にあるということで、文化が根づいている証である。
むろん、それは現場が日々、自主企画を重ねるなどしてソフトの醸成に尽力してきた結果でもある。こうして劇場やホールが機能しているかぎり、「ハコモノ行政」というそしりを受ける必要はない。
ところが、その首都圏でハコモノとソフトの関係が、一気に崩れようとしている。
JR上野駅前にあり、東京都歴史文化財団が指定管理する東京文化会館が、2026年5月7日から28年度いっぱいまで約3年にわたって休館すると、所管の東京都生活文化スポーツ局が発表したのは、9月27日のことだった。
「1961年に開館して約60年が経過し、設備をはじめ施設全体の経年劣化が進んでいているため、全面的な設備機器更新などの大規模改修工事を行う必要が生じ、休館することになった」というのが東京都の説明だが、結論を先に言えば、これはせっかく根づいている文化を無配慮に破壊する暴挙だといえよう。なぜ暴挙であるのかは、追って説明したい。
今回、とくに問題になるのは2,303席の大ホールである。一般にこうしたホールの稼働率は、6割を超えればまずまずといわれるなか、東京文化会館大ホールの稼働率は94%で、ほぼ毎日、バレエやオペラ、クラシックコンサートなどが上演されている。
舞台もバックヤードも広く、同じフロアに楽屋があるなど、バレエやオペラに適した構造であるうえ、低料金で借りられるので、主催団体の負担が小さい。観客にとっても、駅前にあってアクセスしやすく、どの席からもステージが見やすく、音響がいいなど、好条件がそろっている。ある招聘会社の責任者も、「東京文化会館を使ったほうが、ほかのホールで上演するよりも、確実に集客が望める」と話す。
また、バレエやオペラは欧米の芸術であるため、欧米から人気カンパニーを招聘して公演を開催することも多い。その場合、出演料や装置などの運搬費用に加え、出演者からスタッフまで大人数の旅費や滞在費もかかるなど、経費が莫大になる。収容人員が少ないホールを使用すると入場料が跳ね上がってしまうので、2,000席はほしいといわれる。その点でも、東京文化会館大ホールは理想的なのである。
そんなホールが約3年間閉まると、どんな影響があるのか。
まず、代替施設があるかどうかを確認したい。東京文化会館と同じように使用されているホールとしては、まず、横浜市中区の神奈川県民ホール(2,439席)が挙げられるが、老朽化で耐震性をたもてないことから、2025年3月31日をもって休館することが決まっている。しかも再開は未定である。続いては東京都渋谷区のオーチャードホール(2,150席)だが、隣接する東急本館が解体されて工事中のため、使用できるのが工事のない日曜や祝日に限定され、その後の改修もスケジュールに入っている。要するに、主要な3施設は、いずれもほぼ使えない状況になる。
ほかにも施設はあるが、新宿区立新宿文化センターは2025年9月30日まで、改修工事のために長期休館中で、東京都府中市の府中の森芸術劇場は2025年4月まで、やはり改修工事のために休館中だ。もっとも、これらは東京文化会館の休館とは重ならないが、先述した3つのホールが同時に休館してしまうと、バレエやオペラなどの舞台芸術は、事実上、公演を実施する場を失ってしまう。打撃は計り知れない。
東京都港区のサントリーホール、新宿区の東京オペラシティコンサートホール、墨田区のすみだトリフォニーホールなど、音楽専門のホールもあるが、バレエやオペラのための舞台機構がないので、本格的な上演はできない。簡易な形式にして音楽ホールで上演する方法もないではないが、じつは、サントリーホールは27年1月から数カ月、東京オペラシティも26年1月から半年ほど休館する予定で、すみだトリフォニーホールも休館の予定が組まれている。
あまりの休館ラッシュなのである。当然、ホールごとに異なる事情を抱え、致し方ない面もあるのだと思うが、各ホールの横の連携はどうなっているのか。なぜ、連絡を取り合って休館時期をずらすといった措置を講じることができないのか。不思議だというほかない。
ホールを利用する側は、どのホールもそれぞれが文化を醸成するために、補い合いながら機能していると認識している。自然とそう気づいていると思う。ところが、ホールを運営する側は、全体における自身の位置づけを理解せずに、あるいは見ようとせずに、自身の都合だけで休館を決めているように見える。
なかでも代替が利かない東京文化会館が、同様のホールも休館する時期にぶつけるように、3年間も休館するというのは、やはり暴挙だと思う。ホールの現場は時間をかけて、良質の文化を提供する場をコツコツと整え、ホールと観客の良好な関係を築いてきた。3年近いコロナ禍のダメージは大きかったが、めげずにふたたび、その場を整備してきた。
種をまき、毎日水をやりながら、ていねいに育てるのが文化である。3年間も水をやらなければ、時間をかけて育てた苗は、生育できずに枯れてしまう。東京都生活文化スポーツ局は、首都東京の「文化」を支える組織であるはずなのに、いったいどういうつもりなのだろうか。都政に詳しい記者に聞いてみた。
「東京文化会館大ホールがバレエやオペラ、クラシックコンサートを上演するうえで、どれほど特別なホールなのか、生活文化スポーツ局の人たちは理解していないと思います。いまは2022年4月から25年度いっぱいまで江戸東京博物館が、大規模改修のために休館していますが、それが終わるので、次は東京文化会館だというだけです。でも、江戸博と東京文化会館では補い合える点はありません。彼らは、東京文化会館は数あるホールの一つくらいにしか認識しておらず、バレエやオペラにとって代替が利かない施設だという認識がありません。たしかに老朽化は放置できませんが、改修を急がないと壊れるというほどではありません。使う団体や観客にとっての会館の価値を知らないから、自分たちの都合だけで休館スケジュールを決められるのだと思います」
自分たちが所管する東京文化会館が、文化におよぼしている意味や価値を理解できれば、休館時期をほかのホールと重ならないようにする以外にも、工事は平日に行って土日は開館するなど、工夫の余地はあるはずである。むろん、欧米の劇場なども改修のために長期間閉めることはある。だが、その場合はたいてい仮設劇場をもうける。東京都にはそういう発想もない。
これが私企業であれば、収益が途絶えないように仮設ホールを設置するのではないだろうか。営利団体が運営していないことが、むしろマイナスに働いている。首都東京の文化を支えるセクションが、文化の破壊にこうも無頓着であるという事実に、怒りや悲しみを通り越して、深い諦念に襲われる。
香原斗志(かはら・とし)音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。
デイリー新潮編集部