〈「オナゴにしてほしい」娘の結婚が決まると、親は村の宿老に依頼しに行った…昔の日本では当たり前だった“よばい”の実態〉から続く
近年、マッチングアプリで出会った相手と結婚する人は珍しくなくなり、出会いの可能性が広がっているように思えます。インターネットを介した出会いは、「リアル」での出会いと何か違っているのでしょうか。
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社会学者の阪井裕一郎さんは、未だ高齢世代の中には、マッチングアプリという単語を聞くだけで眉を顰める人も少なくない印象があるといいます。ここでは、阪井さんの『結婚の社会学』(筑摩書房)から一部を抜粋。どうして否定的な感情を抱く人がいるのか、その理由を考えます。(全4回の3回目/最初から読む)
写真はイメージ maruco/イメーシマート
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国勢調査における「50歳時において一度も結婚経験のない人」の割合は、1970年には男性1.7%、女性3.3%に過ぎませんでした。
ところが、2020年には男性が28.25%、女性は17.81%まで大幅に上昇しています。未婚率は当初の推計を上回る勢いで上昇しており、「誰もが一生に一度は結婚する」という皆婚社会は終焉したといえます。
皆婚社会では、「適齢期」になれば縁談が持ち込まれ、たとえ受け身であっても多くの結婚が決まっていました。しかし、1990年代に入ると、配偶者選択における自助努力の側面が高まりました。
2010年の「出生動向基本調査」で、未婚者が単身にとどまっている理由として挙げる第一位が「適当な相手にめぐり会わない」で多数を占めました。そんななかで、2000年代には「婚活」という言葉が急速に社会に浸透していき、近年ではインターネットが新たなマッチメーカーとしてその存在感を増しています。
2022年11月に明治安田生命が発表したアンケート調査では、同年に1月から11月に結婚した夫婦の「出会いのきっかけ」はマッチングアプリが22.6%とトップに躍り出ました。
2009年以前に結婚した人のうち、「マッチングアプリ」で出会ったと回答した人は0%、2015~2019年に結婚した人では6.6%、2020年代以降に結婚した人では18.8%が「マッチングアプリ」で出会ったと回答しました。コロナ禍の影響もありますが、2022年単年で22.6%です。
生活のすみずみがデジタル化され、効率化が進んでいる現在のデジタル社会において、結婚相手を探すという作業がデジタルの領域へと移譲されつつあることは、特に驚くべきことではないかもしれません。
私自身、この数年でマッチングアプリをめぐる学生や周囲の意識が大きく変化したことを実感します。
最近は「自分も利用したことがある」「友だちが利用している」と語る学生も多く、卒論の研究テーマでマッチングアプリを扱う学生も多いです。マッチングアプリを利用して結婚した話も聞きます。
少し前であれば、他人に話すことを憚る人が多かった印象ですが、その傾向が薄れつつあります。
とはいえ、マッチングアプリに対しては否定的な感情を抱く人は多いでしょう。特に高齢世代では、マッチングアプリという単語を聞くだけで眉を顰める人も少なくないという印象です。
正直、私自身も世代的な感覚としてその心情がわからなくもないのですが、その理由は何かと考えてみると案外難しいものです。私は以前に書いた論考で、大きく2点その理由をあげました(以下の議論は「マッチングアプリは「家族」を変えるか」をもとにしています)。
まずひとつの理由として、マッチングアプリでの出会いが「正しい出会いではない」という認識があるように思います。
今も「マッチングアプリで出会った」と周囲に伝えるのをためらう状況があると聞きます。これはつまり、「正しい出会いはこうだ」「普通の出会いはこういうものだ」という何かしらの想定が人々の価値観のなかにあって、マッチングアプリはその「正しさ」から外れているという感覚があるわけです。
しかし、結婚の歴史を見れば「出会いの正しさ」をめぐる社会規範は変化し続けてきました。
ほんの数十年前の日本では「好きな人と結婚する」こと自体が否定的にみられ、まともな家の人間なら「見合い」を経て結婚するものだと考えられていたのです。
90年代には「合コン」が普及しますが、現在でも結婚披露宴では「友人の開いた食事会」という慎重な言い回しが用いられたりします。つまり、われわれの抱いている「出会いの正しさ」は、さほど自明なものではないということです。
今日スマホを使用しないで知人と連絡をとることが不可能なように、デジタル化が進行する社会において、マッチングアプリが今後その存在感を増していくことは不可逆的な現象ととらえるべきだと思います。
もうひとつの理由として、「マッチングアプリの出会いは危険だ」という意識の存在があるように思います。
相手の素性が知れないことやその手軽さが「リアル」な出会いに比べて危険だという認識です。実際にニュースでもマッチングアプリに関連した事件がたびたび報道されるので、人々がこうした懸念を抱くのも、もっともにも思えます。ただ、本当に「マッチングアプリだけがそんなに危険なのか」という視点も大切でしょう。
こちらも歴史をみれば、男女の出会いを危険視する言説は、いつの時代もあふれていました。
戦前は男女が同じ空間にいること自体を危険視する道徳が規範化されていましたし、戦後も学校教育で男女交際を危険視する言説は長い期間支配的でした。結婚媒介業や結婚相談所も、すでに明治時代には数多く存在しており、当時からその危険性はさまざまなメディアで語られていたのです。
自分たちの世代になかったものや新奇なものを過度に危険視してしまう傾向は、普遍的な現象なのかもしれません。
マッチングアプリが危険ではないと言いたいわけではありません。対面でリアルな出会いでも、出会いには常に危険がつきまとう可能性があるということです。
マッチングアプリに限らず、日常生活にはスマホゆえの危険以上に、スマホがあったおかげで回避できた危険の事例も多くあるように思います。危険な側面のみを過剰にクローズアップし、一括して否定するのは冷静な議論を阻むように思います。
「正しさ」への思い込みからマッチングアプリを否定するのではなく、デジタル社会における出会いの変容を前提に、つながりの形成をどのようにサポートするかを議論するほうが建設的だと思います。
マッチングアプリを安易に否定する傾向には注意が必要ですが、それが及ぼしうる社会的影響についても考えてみましょう。
第一に、人々の持っている既存の価値観を補強するという側面があるように思います。
マッチングアプリのような新しい手段が登場すると、世間ではそれが社会をどう変えるかに関心が集まります。
しかし、新しく登場した手段が必ずしも新しい価値観を生むわけではないという視点も大事です。むしろ、新しい手段が古い価値観を補強することもありえます。「出会いの手段」が多様化しても「出会いの目的」が画一化する可能性があるのです。
AIによるアルゴリズムは各個人の初期傾向に沿って生成されるため、すでに存在する価値観をより強化する傾向を持っています。マッチングアプリもまた、社会通念に沿って、それを後押しするかたちで、既存のジェンダー規範や結婚をめぐる価値観を補強していく可能性があります。これが異質な他者への理解を妨げることも考えられます。
以前、ある結婚相談所で取材を行った際に、最近は「結婚相手が見つからない」という理由ではなく、「より良い結婚をするために」20代前半から利用する女性も増えているという話を聞きました。結婚相手との出会いを偶然に任せていては非効率だし、リスクが高いというのです。
結婚相談所では最初から学歴や年収、趣味、家族構成などの詳細な情報を得られます。自分の理想に合ったパートナーときわめて効率的に出会うことができるというわけです。
社会学者エヴァ・イルーズは、親密な関係性が経済モデルに侵食される傾向に警鐘を鳴らします。今日では、パートナー選択がますます合理化モデルに依拠するようになり、ウェブ恋愛はその「道具化」を加速させていると指摘するのです(Eva illouz, Cold Intimacy)。
マッチングアプリはあらかじめ「条件の合わない人」を排除できるため、リスクが少なく合理的な手段だと認識されるでしょう。しかし、効率性を求め自分の利益を最大化しようとする行為が支配的になれば、人はあらかじめ自分自身にとって「価値がある」と考えた人とだけ交流することになりかねません。
「コスパ」や「タイパ」を重視し、学歴や年収、外見などの条件で相手を絞り込むことが、既存の価値観をかえって強化していないかという懸念です。すでに存在する「スペックの社会的序列」がいっそう固定化される可能性があるように思います。
アプリは人々を「最適解」へと導いてくれます。しかし、そこで失われるのは偶然性です。
人は他者との偶然の出会いや関わりのなかで、絶えず価値観の修正や刷新をおこなうものです。しかし、固定化された最適解に従うことで、自分に合わない(と思い込んだ)他者への理解や自分自身が変わる可能性が阻害されてしまいます。
そもそも最適解とはあくまでその時点における個人から導き出されたものにすぎません。それが長い目で見て本当に最適解であるという保証はないのですが、このことが省みられる機会が奪われ、自由を奪われることがあるように思います。
さらに指摘しておきたいのは、個々人の合理的行為が社会全体に合理的に働くとは限らないということです。
実際、マッチングアプリの普及はそれほど成婚率に寄与していないという調査結果もあります。婚姻件数全体に占める「アプリでの出会い」の割合は増えていても、婚姻数の増加にはあまり貢献していない可能性も指摘されます。
個々の単位で見たときには合理的な行動であっても、皆が同じような行動をとってしまうと、全体としては悪い状況がもたらされてしまうことを「合成の誤謬」といいます。
各人が効率的にパートナー選択をおこなっていると考えていても、それが社会全体のマッチングを効率化するとは限らないのです。
各人が持っている初期傾向がより固定化される結果、全体においてマッチングの「非効率」が生じるわけです。
もうひとつ、「コミットメント・フォビア」について述べておきます。
オンライン上のマッチングは、パートナー選択の張荷を大幅に拡大しました。一人当たりのパートナー候補の人数は、リアルな出会いとは比較になりません。しかし、こうした状況が結果的に「決定」や「持続的関係」を困難にする可能性があります。
選択の範囲が広がったことで、個人が「もしかしたらもっと良い人がいるかもしれない」と理想のパートナーを探し続けてしまうような状況に陥ることは、以前から指摘されてきました。
社会学者アンソニー・ギデンズは、著者『親密性の変容』(原著1992)で、現代の関係性は、外部の規制や伝統的拘束から自由であるがゆえ、明確な「ゴール」が定まらず「もしかしたらもっと良い人がいるかもしれない」と永遠に理想のパートナーを探し続けてしまうようなアディクション状況に陥りうると指摘しています。
マッチングアプリはこうした傾向をより推し進める可能性があります。
近年、注目されるコミットメント・フォビアとは、端的に言えば、特定の誰かと深い関係になることを忌避(嫌悪)する症状を意味します。
パートナー選択の可能性が無限に拡大することで、ある特定の関係に深くコミットしてしまうことへのためらいが生じたり、あるいは、いったん交際を始めても「もっと良いかもしれない」という可能性が持続的な関係を脅かしてしまう。特定の相手にこだわるインセンティブが低減してしまうことで、個々人の不安定性が増大するということです。

エヴァ・イルーズは、特に男性にコミットメント・フォビア傾向が強まっていると指摘します(Eva Illouz, Why Love Hurts)。恋愛市場で男性に重視される経済的資源は加齢により高まる傾向があり、「性的魅力」も女性より男性のほうが持続期間が長いと思いこまれているというのです。
一方、女性はパートナー選択において出産などの身体的リミットを考慮する傾向が強く、選択肢が広がる状況では、子どもや献身的な関係を求める傾向の強い女性たちが不利な状況に置かれやすいというのです。
いつまでも幻想にとらわれ続けコミットメントを忌避する男性と、早期に安定的な関係を望む女性との間でミスマッチが生じるという指摘です。議論の余地はありますが、マッチングアプリが及ぼしうる社会的影響のひとつとして紹介しておきます。
〈「男の名字を名乗るのも、女の名字を名乗るのも平等とはいえない」“夫婦同姓”に疑問を投げかける、福沢諭吉の意外な主張〉へ続く
(阪井 裕一郎)