「経済格差を利用した貧困ビジネス」、「女性の子宮の搾取」など、負のイメージと結びつきやすい代理母出産。有償で行う場合は報酬として大金を受け取ることができるため、生きるための手段として貧困国では代理母になることを希望する女性もいる。
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なお、日本では代理母出産について定めた法律はまだない。一方、アメリカでは複数の州で代理母出産が認められており、なかでもカリフォルニア州は法律の整備が進んでいるという。
カリフォルニア州在住の石原理子さんは、17年前に代理母出産で子どもを授かった。その後、精子提供や卵子提供、代理母出産をコーディネートする「ミラクルベビー」を立ち上げた石原さんは、なぜ当時代理母出産を選択したのか。そして、カリフォルニア州における代理母出産の実態とは。(全2回の1回目/続きを読む)
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――そもそも石原さんがアメリカに移住したきっかけについてお聞かせください。
石原 大学を出たあと日本でしばらく会社勤めをしていたのですが、若いうちに違う世界を見ておきたいと思って、カリフォルニア州のロサンゼルスに行くことにしました。もともと2つ下の妹が当時ロサンゼルスに住んでいて、休みの度によく遊びに行っていたんです。
親には「1年で帰国する」という約束でしたが、かれこれもう30年になります。現地の弁護士事務所で働いていたときに日本人の夫と知り合い、私が37歳、夫が36歳のときに結婚しました。
石原さん親子と、代理母となった妹さん(右)
――石原さんご自身のこれまでの妊娠の経過についてお聞かせください。
石原 妊娠の経験は2回あって、最初の妊娠は結婚して間もない頃で、初期で流産してしまいました。掻爬手術で処置をしましたが、その際に大きめの子宮筋腫があることがわかり、後日、筋腫の切除手術を受け、その手術のあとに2回目の妊娠をしました。でも妊娠3カ月を迎えたころ、あるとき突然お腹がものすごく痛くなり、冷や汗がバーッと出て止まらなくなって。
タイミング悪く夫が不在で、このままでは気を失ってしまうと思い、自分で救急車を呼びました。向かった先の病院で、子宮の一部が裂けていることが分かって。日本語だと「子宮破裂」と言うそうです。子宮筋腫の手術が影響したようで、大量の輸血を受け私の命は助かり、なんとか子宮も温存できましたが、赤ちゃんは亡くなってしまいました。
――2度の流産をご経験され、しかも子宮に大きなダメージを負われたのですね。
石原 はい。入院中に赤ちゃんがダメだったんだと聞かされたときは、「ああ、そうなのか」と、現実を受け止めるのに精いっぱいでした。喪失感と同時に、まだ胎児も小さい時期で、私も激しい運動をしたわけでもないのに、なぜ子宮が裂けてしまったんだろうって不思議でしかたなかったです。
――もともと石原さんは、子どもを授かることについて、どう考えていましたか?
石原 今でこそ代理母出産に関わる仕事をしていますが、当時は妊娠に関する知識がまったくなくて、30代後半という年齢的な危機感もなく、「いつかできればいいかな」とのんびり構えていたとろがありました。
ただ、夫のほうは強く子どもを希望していたので、「夫に子どもを抱かせてあげたい」という気持ちはとても大きかったです。
――代理母出産という選択肢はどのような経緯で出てきたのでしょう?
石原 2度の流産を経験して身体の状態が落ち着いたころ、婦人科医に今後のことを相談しようとしたところ、不妊治療医をたずねるように言われました。最初の数人の不妊治療医は妊娠初期で子宮破裂したケースをあまり聞いたことがないということでしたが、何人目かで行きついた産科医で不妊治療医でもある医師が、過去に私のようなケースを見たことがあるとのことでした。
その医師が言うには、私の場合、妊娠の過程で再び子宮破裂を起こすリスクがあるということでした。自分で産むとなると再び同じことが起きる可能性があって、そうなると私の命も危ないし、子どもも何らかの障害をもって生まれる、または死亡するかもしれない。そのリスクが何パーセントあるかまでは言えないが、自分が死んでしまう危険を冒してまで、子どもを授かりたいのかどうか、その点を考えなければならない。そう言われました。
私も妊娠中、ずっとお腹に爆弾を抱えているような状況で過ごすのは精神的にもたないと思いましたし、夫からは自分で産むことはしないでほしいと強く言われました。代わりに不妊治療医から提示されたのが、養子縁組と代理出産の2つの選択肢でした。ご存じのように、カリフォルニア州では代理母出産が法的に認められています。結論は一旦家に帰って考えようと持ち帰りましたが、自分で産むという選択肢はこの時点でもうありませんでした。
――最初に代理母出産と聞いてどう思われましたか。
石原 代理母出産自体については、夫の友達にロサンゼルス在住で、日本人の夫とアメリカ人の妻のご夫婦がいて、その奥さんがかつて代理母になったことがあると前から聞かされていました。なので「ああ、あの事ね」と、なんとなくイメージすることはできました。
ただ、自分事として考えたとき、当時、私は妊娠に子宮や卵巣が必要ということすらよくわかっていないほど無知でした。ましてや医学用語をたくさん用いた英語での説明だったので、実際にどんなことをするのか、完全には理解できてはいませんした。
自分でよくよく調べてみて、まずは注射で私の卵胞を育てて採卵し、採れた卵子と夫の精子で受精卵をつくり、それを代理母の子宮に移植するという一連の流れを知って、こんなことが本当にできるのかと、信じられない気持ちでした。
――養子縁組については検討されましたか?
石原 アメリカでは養子縁組は珍しいことではなく、同じ屋根の下で、肌の色が違っていても自分たちの子どもとして愛情深く育てている家庭がとても多いので、違和感はありませんでした。
ただ、医師からは、「自分たちの精子と卵子が使える状況なら、二人の受精卵で、代理母に産んでもらうことを検討してもいいのでは」と言われたことは大きかったと思います。それで一連の話を妹に話したところ、思いもよらず妹が代理母に名乗りを上げてくれたというわけです。
――妹さんの申し出にどう思われましたか?
石原 あれは2度目の妊娠で、子宮が裂けてしまったときのことです。私がまだ入院中でベッドで寝ていると、夫が妹と電話で繋いでくれました。電話口で妹に、流産してしまったこと、子宮も裂けてしまって今後どうなるか分からないことを伝えたら、「いつか私が産んであげるから大丈夫」と、妹が言ってくれたんです。もちろん、その時は代理出産のことはまったく頭になくて、妹もただ私を励ましたくて言ったことなんですけどね。
その後、あらためて医師から子供を授かる方法として代理母出産か養子縁組の選択肢を提示され、そのことを妹に電話で話したら、「私が産めるのかな」と、妹がまた言ってくれたんです。彼女から「私が産む」と聞いたのは、これで2度目でした。
すでに妹には2人の子どもがいて、妹が言うには、自分は妊娠しやすい身体だろうし、妊娠の際に合併症もなく経過も順調で、子どもも健康体で生まれてきたから、きっと代理母になれるだろう、と思っていたようです。妹の提案に夫はポジティブでした。
――一気に代理母出産の現実味が増したのですね。
石原 でも親族間で本当にそんなことができるのか。妹の身体は大丈夫なのか。とにかく私は分からないことが多かったので、主治医に妹が産むことは可能かどうか聞いてみたんです。そしたら、その医師が提示する代理母になる条件として、子どもを実際に産んで育てていること、妊娠・出産の過程において合併症などトラブルがなかったこと、あとはアメリカ在住であるということで、妹が代理母になる条件が揃っていました。
医師からは、妹にすぐ来てもらうようにと言われました。それで妹が住んでいた他州からロサンゼルスまで来てくれて、代理母になるための医療的な適性検査をパスし、妹が代理母になることが決定したのです。
急な展開に私自身の気持ちは追いつかずにいたのですが、妹はもともと楽観的で、悩みがないのが悩みという性格。このときも「悩んでても始まらないから、とにかく一回やってみよう」と、妹に背中をどんどん押されていきました。
――妹さんが代理母になることに対し、周囲の方々の反応はいかがでしたか。
石原 妹のアメリカ人の夫は、「君がお姉さんを助けられるなんて、とてもいいアイデアじゃないか!」と、とても喜んでくれました。
私たちの父はすでに他界していましたが、妹家族と同居していた母には、心配するのが分かっていたので、すべて決まってから事後報告しました。母に打ち明けたとき、やはり最初は不安そうでした。フルタイムで働く妹が、妊娠しながら仕事と自分たちの子の育児をこなすことができるのかと。でも「もう決めたことなら、食事とか自分ができることはヘルプするから」と、最終的には賛成してくれました。
――妹さんに代理母をお願いするうえで、金銭的な契約は結ばれましたか?
石原 医師からは、親族とはいえ、代理母をお願いするにあたっては必ず弁護士を通して代理出産契約を結ぶようにと言われていました。そうしないと、医師としても投薬などの医療処置ができないからです。当然私たちも、妹という関係性に甘んじることなく法的なことはしっかりしようと、謝礼金や生命保険については一般的な代理母出産で結ばれる契約とほぼ同じ内容で契約を結びました。
――カリフォルニア州における代理母出産では、依頼する側と代理母の間で一般的にどのような契約が結ばれるのでしょうか?
石原 アメリカにおける代理母出産では、胎児の心拍が確認された時点で妊娠の始まりとされます。
カリフォルニアでは有償での代理母出産が認められていますので、たとえば謝礼金が4万ドルとすると、心拍が確認されてから出産するまでの10カ月間に、だいたい10回払いで月4000ドルずつ支払われる形です。
ほかにもたとえば、受精卵の移植のため指定された医療機関に行かなくてはならない際や、妊娠中に医師から安静の指示が出た場合などは、自分の子どもの育児が難しくなりますよね。ですので、その間のメイドさんやシッターさん代のほか、緊急帝王切開になってしまった場合や、双子出産になった場合は追加で謝礼金を支払うなど、「こういうケースになったらいくら支払う」というのをあらかじめ詳細に決めていきます。
また、金銭的なことだけでなく、代理母は医師とのアポイントメントはちゃんと守ること、決められた通りに服薬すること、親権は依頼者側にあること、そして子どもが何らかの障害を持って生まれてきた場合でも依頼者が引き取り育てていくことなどが、契約として決められていきます。
――石原さんの場合、資金面はどのように確保されましたか?
石原 私たちの場合、ざっくり見積もっても、当時で費用総額は1000万円以上はかかることが分かっていました。お金については準備できるのか常に不安でしたが、当時夫婦で所有していた投資用の物件を売って、代理母になってくれる妹への謝礼も含め、代理母出産の費用にあてることにしました。
――いよいよ40歳目前にして姉・妹間の代理母出産がスタートするわけですが、お子さんを授かるまでのプロセスについてお聞かせください。
石原 医師からは、代理母出産を成功させるためには私の年齢がキー(鍵)で、「一日ごとに歳を取っていくのだから、あまり悩んでいる時間はない。毎日がチャレンジだよ」と言われていました。正直、最初はピンとこなかったのですが、本当にそうでした。年齢のせいか、なかなかいい卵子が育ってくれなかったんです。
1回目は排卵誘発剤を使って卵胞が育つのを待って採卵することになりました。でも結局、卵胞が3つしか見えず、仮に採卵できたとしても移植できるものが1つ残るかどうかという状態でしたので、その周期の採卵はキャンセルになりました。
それから2、3カ月ほど卵巣を休めたあと、再度同じ薬でチャレンジしたところ、8個卵胞が見え、3個の受精卵ができました。そのうちの1個を妹の子宮に移植したのですが、着床はしませんでした。残った2つの受精卵は、状態が悪いということで廃棄になりました。
3回目のサイクルでは、同じように8個の卵胞が育ち、3個の受精卵ができました。着床の確率を高めるために2個の受精卵を妹の子宮に移植した結果、1つが着床してくれました。このときの子が今の娘です。
――妊娠の陽性判定を聞いたとき、どのようなお気持ちでしたか?
石原 「やった」の一言です。1回目の採卵は私の卵巣機能が思わしくなく、採卵がキャンセルになり、2回目は採卵後に移植できたものの、何が悪かったのか着床しなかった。ここまでですでにかなり費用がかかっていましたし、何より他州から来てくれた妹に申し訳なくとても落ち込みました。妹は「1回妊娠できなかったくらいで諦めるのは早いよね」と常に楽観的で、その前向きな言葉には大いに救われましたね。
先が見えず、いつまで続けるんだろうと思いながら挑んだ採卵3回目でようやく着床にこぎつけたときは、本当に「やった!」と。有難いことにその後の妹の妊娠の経過も順調で、無事に出産の日を迎えることができました。
――妹さんの出産には立ち会われたのでしょうか?
石原 はい。出産の場では妹の足側のほうに立たせてもらい、まさに赤ちゃんが生まれる瞬間を見させてもらいました。だけど、生まれてくる赤ちゃんよりも、強烈に印象に残ったのは、出産に臨む妹のとても苦しそうな顔でした。妹とは大人になるまでずっと近くで過ごしてきたのに、妹のこんなに苦しんでいる表情を一度も見たことがなかった。とにかく壮絶でした。
「本当に大変なことをしてくれているんだ。そしてこれは本当は私がすべきことだったんだ」。妹の表情を見ながら強くそう思い、それは今でも忘れることができません。
夫も妹の出産に立ち会いましたが、出産する妹の姿に「子どもは簡単に生まれるものではない。出産はすごい大変なことで、それを妹が引き受けてくれたんだ」ということを夫にも分かってもらえたことは、よかったと思っています。
――生まれてすぐ、自分たち夫婦の子だという実感は湧きましたか?
石原 実は娘が生まれてから3日後に、私に緊急の仕事が入り、ロサンゼルスに戻る必要が出てきてしまいました。生まれて間もない娘と一緒に帰るにも、飛行機にはまだ乗せたくないという状況で、さて困ったという時に妹が「私が面倒みておいてあげるよ。母乳もそのうち出てくると思うし、仕事が落ち着くまで育てておいてあげる」と言ってくれました。
その時の私たちは、親としての自覚もずいぶん足りなかったと思います。結局、妹の言葉に甘え、1カ月ほどは娘なしの生活を送ったこともあり、実感が湧くのに時間がかかりました。
でも、子どもが生まれてから初めて迎えた母の日のことです。母を労うために、レストランへ行ったんです。母と私、夫と子どもが席に着くと、ウエイトレスの方が、「Happy Mother’s Day!」と言って、カーネーションを2本、私たちのテーブルに置いてくれたんです。
最初はなんで2本なのかなって。でもよく考えると、1本は母で、もう1本は私にだった。そのとき「あ、私も母親なんだ」って初めて気づかされ、それが自分でもおかしかったです。ようやく実感がこみ上げてきた瞬間でした。(続きを読む)
〈代理母と依頼者は「対等な関係」なのか? 当事者が語る、アメリカにおける“代理母出産のリアル”〉へ続く
(内田 朋子)