食料政策が国の根幹であることは言うまでもないが、わが国では農業人口の減少に歯止めがかからず、農地も年々消失。その“現場”、例えば半導体世界最大手の工場進出に沸く熊本県では何が起こっているのか。ノンフィクション作家・奥野修司氏がレポートする。
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【写真を見る】この土地が1坪90万円? 異様なバブルに沸く熊本県の田舎町
熊本空港から北に向かって10分も車を走らせると、水田が広がる先にこんもりと盛り上がった台地が見えてくる。その上に白と黒のコントラストも鮮やかな巨大な建物が森の向こうに立っていた。まるで現代の“山城”だ。
ここは熊本県菊陽町。ニンジンが特産物の小さな町である。それが一躍全国に知られるようになったのは、半導体受託製造で世界最大手のTSMC(台湾積体電路製造)の工場が進出してきたからだ。その工場こそ“山城”の正体である。敷地約21万平方メートル、地上4階地下2階の延べ床面積は約22万平方メートルにおよぶ。
第1工場は年内に生産を始める予定で、すでに第2工場の用地買収も終わったという。日本政府が補助する金額は第1第2を合わせて1兆2000億円、投資総額は3兆円を超える見通しである。これだけの金額が、人口わずか4万人余りの菊陽町に投下されるのだ。その衝撃は尋常ではないだろう。
周辺には現在もキャベツ畑やニンジン畑が広がり、まるで畑の中に突如として近代的な建物が現れたような印象である。工場の前を走る2車線の県道は、熊本市内から隣の大津町を抜けて阿蘇に向かっているが、工場が稼働するまでに6車線になる予定だ。熊本市内のメインストリートと同じ規模の車線が、田舎の町にいきなりできるのである。
私はレンタカーを駆って、TSMCの工場前から大津町へと向かった。目的はTSMCの取材ではない。この企業が菊陽町に進出したことで、一帯は土地バブルの大騒ぎだが、それだけではない。今回の騒動から、日本の「食」の未来が見えてくるのである。
今、貴重な農地が毎日のように消えている。それも大量に、である。
田畑の地目変更などで農業ができなくなることを「潰廃(かいはい)」と言うが、農水省が発表した令和5年の熊本県の「潰廃面積」は2080ヘクタール(荒廃農地を含む)。実に東京・港区の面積に匹敵する農地が1年で消えた。同じように農地転用ブームに沸く千葉県は熊本よりも少ないが、1210ヘクタールが消えている。他にも千葉県以上に潰廃面積が大きい都道府県が7県あり、全国で1年に3万7000ヘクタールもの農地が消えた。この数字は年々増えていて、仮に今後も同様の水準が続けば、20年後に74万ヘクタール、つまり熊本県の面積に相当する農地が消えることになる。ちなみに、耕作放棄地は耕作しないだけで農地として存在するので潰廃面積に含まれない。
農水省は現在の農業人口116万人が、20年後には7割以上減って30万人になると予測している。農業の要は農地と農家である。それが想像もできないほど激減する未来の日本で、果たして食料を確保できるのだろうか。自給できなければ輸入すればいいとはいえ、外貨がなければ地獄を見ることになりかねない。
私が大津町に向かったのは、土地バブルの実態を知りたければ菊陽町よりいいと聞いたからである。
工場から1キロも走ると大津町に入る。菊陽町内では道路際に店らしい店がなかったのに、いきなりコンビニやガソリンスタンドが現れた。これが菊陽町より人口が少ない大津町の土地価格が上昇している原因だとは、この時点でまだ知らなかった。
「土地バブルの兆し? いえいえ、もう本格的なバブルですよ。投資目的の業者さんがあちこちで荒らしまくっています。今は誰がババをつかむかです」
長年、大津町で不動産会社を営んでいるAさんに、TSMCの進出をきっかけに沸き上がった土地バブルの状況を尋ねたら、こう言ったのだ。
「正直いってもう限界ですね。地元の人が買える値段じゃないですよ」
先ほどの県道が大津町に入るとすぐ国道325号線と交差する。最近、このあたりで取引された土地が2カ所あって、90万円と100万円だったという。思わず「1坪ですか?」と聞いた。「もちろん坪です」とAさんは笑う。水田やニンジン畑が広がる田舎の土地が坪100万円と言って誰が信じるだろう。
「TSMCが来る前の地価はいくらでしたか?」
「宅地で10万円以下です」
それがわずか数年で10倍以上の100万円にどうしてなったのか。
「あそこはTSMCが来る前に20万円で出ました。20万なんて無理だろうと笑っていたら、TSMCが来ると分かった途端、中間買い業者が入って値段がつり上がったんです。地主さんと交渉して売渡承諾書をもらっても、次に行った時は、あの金額では売らんと言われる。他の業者と約束したんですね」
坪90万円で売却された土地に2軒のビジネスホテルが建つ予定で、すでに工事が始まっていた。その近くに1区画200坪で分譲された住宅地がある。道路沿いではないが、そこでも坪71万円で売れたそうだから、道路沿いならそれより高い価格で取引されても不思議ではないだろう。
現在、大津町にはビジネスホテルが10軒ほどあるが、さらに6~7軒は建つ計画だという。アパートも年内に20棟以上建つ予定だそうだ。Aさんは憤然として「みんな舞い上がっているんだ」と言った。
そうはいっても、数年前には1泊5000円程度で泊まれたビジネスホテルが、今では1万円以上、それも満室なのだ。この町が活況を呈しているのは間違いない。なにしろ、この町の居酒屋で食事をしながら話を聞こうと、ある農家に予約をお願いしたところ、2週間先でないと無理だと断られたそうだ。一晩数十万円で貸し切ってドンチャン騒ぎをするのは一組や二組ではないという。私がうらやましいと言うと、その農家からこう返された。
「TSMCが募集した食堂で働く人の時給が3000円。消防士を定年退職した方が、救命救急士の資格を持っているだけで時給7000円です。月に20日働いたら年俸1000万円です。初任給30万円というけど、職種によって月給50万円や80万円がざらです。TSMC工場内の清掃業務が時給1500円。一方で県の最低賃金は898円。うちで従業員を募集しても集まりません。飲食店はどこも人手不足で日当が上がっています。そのうち家賃も上がって閉店でしょうね。地元のJAが職員を募集しても集まらないのです」
このバブルが従前のバブルと違うのは、台湾人がからんでいることだと別の不動産業者が言う。
「うちで世話した分譲地があるのですが、エンドユーザーが台湾人だったらしく、中国語の看板が立っていました。そういうのはいくらでもあります。日本人が2~3戸買ったあと、台湾人が買い占めたという建売住宅もあります。ほとんどの台湾人は建物を見ないで買うんです。転売目的だから必要ないのでしょうね」
「台湾の業者が土地を買いに来ているんですか?」
「そうです。日本は土地の規制がないから、外国人でも買えます。昔は住民票代わりにパスポートで取引できたんです。そんな国はないですよ。日本は外国人に土地を売り過ぎです」
実際、台湾人による土地の買い占めを知らない業者はこの町ではいないらしく、こんな話もあった。
「昔、大津町に肌着などを製造する工場があって、かなり前になくなって敷地(約4ヘクタール)だけが残っていました。そこを台湾人が買ったそうです。なんでもマンション2棟と平屋の住宅を160棟ほど建てて、チャイナタウンみたいな町をつくるのだそうです」
今でも土地を買いに台湾人はよく来るそうだ。台湾人に土地をあっせんしたという業者は、こう言った。
「TSMCの関係で台湾から来た人でしたが、東京にも不動産会社を持っていました。ここで土地を安く買って台湾人に売るのだそうで、いわば土地転がしをやってるんです」
それにしても、どうして多くの台湾人が土地を買い求めるのだろうか。
「土地を買った台湾人から聞いた話ですが、中国がいつなんどき攻めて来るか分からないから、台湾有事の時はここに逃げてくるつもりで、お金持ちはどんどん買っているそうです。大津町に隣接する菊池市はTSMCとは関係ないと思っていたのに、今は土地の値段が上がっています」
少し間をおいて、冗談とは思えない表情で言った。
「中国が台湾を併合したら、ロシアのように、自国民を守るという名目で熊本に攻めてきませんかね。なにしろ、ここは東京より中国に近いんですよ」
今回の地価高騰のきっかけはTSMCの工場用地の売買だが、まずその売却の経緯を、農協の関係者に解説してもらった。
「第1工場と第2工場の土地売買の方法は違っていて、第1工場の用地は菊陽町が買い取り、それを造成してTSMCに売りました。仕入れ値が坪単価で2万円前後だから1反(300坪)あたり約600万円。これを造成して3000万円で売りました。1反600万円は安いと思うかもしれませんが、もともと農振(農業振興地域)に指定された優良な農地だから、農家にしか売れなかったんです。それに当時は1反50万円でも売れない土地でした」
地主の大半がサラリーマンで、純粋な農家はたった1軒だったという。
「あそこは阿蘇近辺の農家に反あたり年間1万円で貸していたんです。水田にできない土地だから、栽培するのはキャベツやニンジンです。まあ、自分で農業をしていない地主だから、土地に未練はないですね。1反600万円で買ってくれるならと、みんな喜んで売りましたよ。借りている農家は反対しましたが、それなら他の畑も貸さんと言われたら反対できません」
工場周辺でニンジン畑を所有していた農家は「持っているだけで草刈りもせんといかん、タダでもいいと思っていた土地が売れたんです。これで安心して眠れますよ」と言った。この思いが、この農家だけではないという事実が、日本の「食」の未来に深刻な問題を投げかけているのである。
通常、国の補助で整備した農業振興地域を地目変更するのは並大抵ではない。それが今回は「国策」ということで、簡単に地目が変更されたという。
問題は第2工場の土地だった。菊陽町がこの場所を買収しなかったものだから、いずれ工業団地になるはずだと踏んだ不動産業者が大挙して動いたそうだ。そのために農地の値段がどんどんつり上がっていったと地主の一人が言う。
「坪5万円で売買契約をしたと思ったら、しばらくして7万円で買いたいとくるんです。そのうち10万円にもなり、結局1反2000万円ほどで落ち着きました。1町歩(ちょうぶ・10反)持っていたら2億円です。2億円なんてどんな作物を作っても稼げる額じゃない。ここの地主から億万長者が4~5人出たはずです」
「先祖代々の土地を売りたくない人はいなかったのですか?」と聞いた。
「昔は水田が第一だから、相続では長男が水田をもらい、次男以下は水田にできない畑をもらったんです。そんな土地だから未練はないでしょうね。農地の貸し賃が反あたりでわずか年1万円だから、むしろお荷物ですよ。今の若い人は、家督を継ぐ時は農地より金をくれって言いますからね」
2020年の熊本県の地価上昇率ランキングは、TSMCの工場がある菊陽町が上昇率30%を超えてトップだったが、翌年には大津町がトップになっている。それも全国の商業地で1位である。なぜなのか。
実は、この取材をした時点で、TSMC関連の企業から大津町で用地を確保したいという要請が80件以上あるそうだ。
地元で建設会社を経営しながら農業委員もしている村上惠一さんは言った。
「菊陽町が選ばれにくいのは、熊本市に隣接していて市街化調整区域が多く、倉庫を建てようとしても、原則として認められないからでしょうね。ところが大津町はそれがほとんどない。つまり転用可能な土地が多いから、みんな大津町に集まってくるんです」
菊陽町から大津町に入った途端に店舗が増えたのはこのせいだったのだ。
大津町に集まる理由がもう一つある。地元で食品会社を経営する人物によれば、業者がTSMCと取引するときの条件だという。
「TSMCの工場はチップを作るだけで、必要な部品や人は周辺に置くトヨタ方式なんです。電話をしたら30分以内に持ってこい、10分以内に届けろと言われるので、工場の周辺に物流センターを持たないと採用されないんです。これは人も同じで、例えば水道工事の業者は、連絡したら20分以内に修理に来られる人を24時間体制で置くように言われます。工場は10分止まったら何百億円の損失が発生するそうです」
確かに、大津町を走ると、新しい倉庫があちこちで見えた。とはいえ、大津町の土地供給量は限界に達しつつあるようで、すでに隣接する菊池市や合志(こうし)市に物流センターができ、さらに人が集まることを予測して巨大スーパーやアウトレットモールの建設も計画中だという。
実は農地が大量に消えて倉庫や工場、アパートに変わっているのはなにも熊本県だけではない。先に触れた通り、同じことが千葉県の成田市でも起こっているのだ。
成田空港の周辺にある家のポストに、農地買取のチラシが入り始めたのは2022年に入った頃だという。前年の末に、成田国際空港会社が既存のB滑走路を延伸し新規にC滑走路を整備する計画を公表したからだ。これができると、成田空港の面積がほぼ倍になる。当時「C滑走路は物流のため」とうわさされたが、実際にそうだったようで、空港周辺の農地はあちこちでつぶされて物流センターができていた。この流れは今も続いていて、不動産会社の営業マンが、チームをつくって一帯をじゅうたん爆撃のように訪問しているという。信孝さん(仮名)はそんな訪問を受けた農家の一人である。
「拡張工事が始まる前は、この辺の土地は坪3万~4万円だったのに、今は10万円。しかも市街化調整区域だぞ。それが1反なら3000万円、1町歩なら3億円になる。規制が緩くて簡単に地目変更ができるから買ってるんだ。先日も業者がやってきて、『作物を作るよりも儲かりますよ』だって。どんな農地でも1年もかければ宅地にできると言ってたな。うちは断ったが、後継者がいない農家は売るだろうね」
「業者は、信孝さんが農地を所有しているのを知っていたんですか?」と尋ねると、
「農水省が開発した農地ナビというのがあって、調べたい農地が市街化調整区域かどうか分かるんだと。そこに表示される地番を法務局で照会すれば所有者が分かるんだそうだ。そうやって調べた農地をリストにして、業者が地区割りをしてみんなで回ってるんだよ」
「eMAFF農地ナビ」はネットで公開しているから誰でも使えるが、使われ方によっては怖いソフトだ。
他の農家も、「倉庫を建てたいので農地を売ってほしい」などとたびたび業者が訪ねてくると言った。後継者がいない農家はたいてい売るそうで、実際に信孝さんの案内で成田空港周辺を走ってみると、売却後に造成された土地や、雑草だらけになった農地が、あちこちに点在して虫食い状態になっていた。なんとも痛々しい光景である。
昨年だけで東京23区の6割に相当する面積の農地が日本から消えた。これが今年も、そして来年も続く。それにしても、国家の生命線である食料の生産手段である農地を、農家という農家がなぜ手放すのだろうか。
奥野修司(おくのしゅうじ)ノンフィクション作家。1948年生まれ。『ナツコ 沖縄密貿易の女王』で講談社ノンフィクション賞と大宅ノンフィクション賞を受賞。『ねじれた絆』『皇太子誕生』『心にナイフをしのばせて』『魂でもいいから、そばにいて 3・11後の霊体験を聞く』など著作多数。
「週刊新潮」2024年8月1日号 掲載