4月28日に投開票された衆議院議員の補欠選挙は、2つの不戦敗を含めて、自民党が3戦全敗に終わった。
岸田文雄首相に対する支持率は低水準のままで、衆議院の解散・総選挙に向けた戦略に、さらなる暗雲が立ち込めたとも言われる。同時に、この選挙の東京15区で話題になったのが「選挙妨害」である。
政治団体「つばさの党」の根本良輔氏の選挙運動は、序盤から話題になっていた。根本氏のX(旧Twitter)や、YouTubeにはリアルタイムで、他候補への「質問」や「直撃」の様子がアップされ、賛否が渦巻いたからである。「質問」に答えない候補者に向かっては、罵倒ととらえかねない、大きな声を浴びせた。
投開票が終わるや否や、選挙期間中に用意していたとみられる報道が、テレビ・新聞各社からほぼ一斉に出された。警視庁が、根本氏や、「つばさの党」代表の黒川敦彦氏に「選挙の自由妨害」の疑いで警告を出していたとの内容である。
警告のもとになったのは、補選告示日の4月16日、東京都江東区のJR亀戸駅前で他の候補者の演説中に大きな音を鳴らすなどの行為だと報じられている。ネット上では、すでに多々報じられていたものの、あらためて規制の必要性をめぐって議論が交わされている。
根本氏は産経新聞のインタビューに対して「(街頭演説用)標旗を持っている以上、どこでも街宣してもいいわけだ」と答えており、警視庁は、逮捕まで至っていない。一方、「選挙妨害」を受け続けていると主張していた乙武洋匡氏は、選挙期間中の4月22日に「追加公約」として「公職選挙法の改正」を掲げた。乙武氏が述べる通り、「公職選挙法のもとで逆に保護されてしまっているのが現状」だからである。
根本氏らの行為は、本当に「選挙妨害」なのだろうか。この点を考える上でヒントになるのが、7年前の「ヤジ排除問題」である。
2017年7月15日、札幌市中央区で行われた安倍晋三首相(当時)による、参議院議員選挙の街頭演説に際して、ヤジを飛ばした市民を北海道警の警官が取り押さえ、排除した。当時の朝日新聞は、道警警備部の説明として「トラブル防止と、公職選挙法の『選挙の自由妨害』違反になるおそれがある事案について、警察官が声かけした」と報じている。
このときもまた「選挙の自由妨害」が争点になっていた。公職選挙法第225条に定められており、北海道での市民の「ヤジ」も、根本氏らの行為も、ともに同条2項「演説を妨害し(中略)選挙の自由を妨害したとき」にあたる恐れがある、そう警察が考えたのだと見られる。
札幌での「ヤジ」をめぐっては、「排除」された男女2人が北海道に賠償を求めた裁判で、昨年、2審の札幌高等裁判所が、道に賠償を命じる判決を出している。表現の自由を侵害された、と認めており、この問題をめぐるドキュメンタリー映画「ヤジと民主主義」が作られたように、「この社会で生活していく全ての人、あなた自身に関わってくる問題」(同作品ウェブサイト)と言えよう。
今回の東京15区での行為が「選挙妨害」かどうか。この「ヤジ排除問題」があったから警察が及び腰になったのではないか、との説が、ネット上を中心に見られた。根本氏らの「質問」や「直撃」は、「表現の自由」どころか、乙武氏も認める通り「公職選挙法のもとで逆に保護されて」いるからである。
「一般人のヤジと公人でもある候補者の行為を同列に扱うことは不適切」と、憲法を専門とする内藤光博・専修大学法学部教授は毎日新聞にコメントしている。まさしく同じではないのだから、その線引きは、とても難しい。安倍首相に対する「ヤジ」が保護される以上、公職選挙法によってさらに手厚く守られている「街頭演説」については、現時点では、議論の余地がないのではないか。
だからといって、根本氏を持ち上げたいわけではないし、逆に、彼や「つばさの党」を貶めたいわけでもない。そうではなく、乙武氏を筆頭に、公職選挙法の改正を声高に訴える「空気」を懸念しているのである。
乙武氏は、Xで「ある特定の候補者とその陣営による悪質な選挙妨害」によって、「負傷者も複数人出ました」と発信した。2年前の参議院議員選挙の最中に、安倍晋三元首相が殺された事件に触れた上で、「私自身がこうした選挙妨害と暴力の被害者に」なったと訴える。
はっきりとは書いていないものの、経緯から推測して根本良輔氏と「つばさの党」を指すのだろう。乙武氏は、Xへの同じポストで「公職選挙法の改正」の案として、以下のような公約を掲げた。
「一定以上」とは、何を意味するのだろうか。それは、誰が、いつ、どのように判断するのだろうか。言うまでもない、警察である。都道府県警察が、「候補者」に対して、「妨害」や「威圧」「暴力」を認めた上で、その場で(現行犯で)捕まえられるようにする、と「公約」したのである。
「ヤジ」と「選挙妨害」の線引きは難しい。同じように、いや、それ以上に、乙武氏がここで主張している「一定以上」のラインは、どこにあるのかを区別するのは、極めて困難ではないか。また、根本氏らは、「街頭演説」を行っている(と主張している)ため、「威圧したり暴力をふるった場合」(原文ママ)については、今回の選挙のように、警視庁からの警告に留まるのではないか。
事実、乙武氏の陣営への選挙妨害については、暴行の疑いで現行犯逮捕された容疑者が、「選挙の自由妨害」で身柄を検察庁に送られている。「適正かつ迅速なる刑法の適用ができる」ほうが、乙武氏の主張する「日本の民主主義の危機」につながりかねず、言論統制へと道を開く恐れがあるのではないか。
裏を返せば、それほどまでに、乙武氏をはじめとする今回の立候補者や、関係者の恐怖心が強かったのだろう。小池百合子東京都知事が「命の危険を感じる」と振り返ったように、「表現の自由」や「選挙の自由」といった法律の文言を超えて、心の底から恐怖心を覚えたと思われる。
しかし民主主義を守るためには、言論を縛るのではなく、できる限り自由にするほかないのではないか。そう考える理由は、この国が、良くも悪くも「空気」に支配されているからである。
昨年、作家の島田雅彦氏が、安倍晋三元首相の銃撃事件について「暗殺が成功してよかった」と発言し、炎上、謝罪に追い込まれている。島田氏の発言だけではなく、その後の「謝罪」についてもまた、多くの批判が殺到した。彼の「言論の自由」を認めよう、という「空気」は、どこにもない。不謹慎であり、不穏当であり、不適切だという「空気」が作られると、その流れには逆らえない。
暴力を許さない、そんな「空気」は、多くの人が共有している。相手が安倍元首相であれ、乙武氏であれ、誰であれ、選挙期間中であろうとなかろうと、言葉には言葉で向き合わなければならない。たとえ建前だとしても、いや、建前ゆえに、みんながそう考えている。島田氏をめぐる騒動は、そうした「空気」を象徴している。
今回の「選挙妨害」に関する「空気」も同じである。根本氏らの行為をどうとらえるかについては、見方がわかれるかもしれない。それでもなお、選挙をはじめとする民主主義の仕組みを守るためには暴力は絶対にあってはならない、そうした「空気」は揺るがない。
だからこそ、「言論の自由」を最大限に守る必要があるのではないか。
島田氏も根本氏も、そして乙武氏も、みんなが自由に発言でき、政治にかかわれる。そのためには、たとえ「一定以上」と留保をつけたとしても、権力が勝手に使える余白を残す法律に頼ってはならない。言論には言論を、という近代社会の原則を粛々と、淡々と貫く。あくまでもその範囲で、「表現の自由」も「選挙の自由」も守られねばならない。
こうした教訓を与えてくれた点で、根本氏らの選挙活動は、大きな意味があったのではないか。
———-鈴木 洋仁(すずき・ひろひと)神戸学院大学現代社会学部 准教授1980年東京都生まれ。東京大学大学院学際情報学府博士課程修了。博士(社会情報学)。京都大学総合人間学部卒業後、関西テレビ放送、ドワンゴ、国際交流基金、東京大学等を経て現職。専門は、歴史社会学。著書に『「元号」と戦後日本』(青土社)、『「平成」論』(青弓社)、『「三代目」スタディーズ 世代と系図から読む近代日本』(青弓社)など。共著(分担執筆)として、『運動としての大衆文化:協働・ファン・文化工作』(大塚英志編、水声社)、『「明治日本と革命中国」の思想史 近代東アジアにおける「知」とナショナリズムの相互還流』(楊際開、伊東貴之編著、ミネルヴァ書房)などがある。———-
(神戸学院大学現代社会学部 准教授 鈴木 洋仁)