いまから50年前の1974年、『週刊文春』が7月1日号で、ある政治家のギャンブルにからんだスキャンダルをスクープした(以下、肩書きは断りがないかぎり当時のもの)。
【画像】涙を浮かべて…議員辞職の記者会見をする浜田幸一
自民党の衆院議員である浜田幸一(当時45歳)が、この年のゴールデンウィークに入る4月27日から5月5日にかけて、国会会期中にもかかわらず、国際興業社主の小佐野賢治のグループとともにハワイのホノルルへ飛び、さらに米国本土のロサンゼルス、ラスベガスにも足を延ばした。ラスベガスではカジノで有名なサンズホテルに宿泊する。そこでの浜田の行動について、記事は次のように伝えた(文中に出てくる浜幸=ハマコーとは浜田の愛称)。
文藝春秋
《本場のカジノをみて、すっかり浜幸さんは熱中してしまったらしい。(中略)手持ちのドルを張りに張った。ギャンブルの常で、最初は勝ち進む。賭け金がしだいに大きくなり、100ドル、1000ドルにアップしていく。(中略)浜幸さんの賭け金は、どんどんふくらんで行き、あげくのはては、スッテンテン。再度、挑戦してこれまたアウト。(注・一説にはドル、万単位で二ケタ、あるいは三ケタともいう。まさか……)そばでみていた小佐野氏が、さすがにたまりかねて、「君はまだそんな大金をバクチにかける実力はない」とたしなめた、ともいわれる。――以上、あくまでもウワサの域をでないが、「とにかくふつうのサラリーマンには、手のとどかない金額」(ラスベガス芸能紙記者)であったらしい》
引用文中にあるとおり、負けた金額などギャンブルの内容についてはあくまで噂の域を出ず(賭けたゲームが何なのかも書かれていない)、スクープのキモはあくまで、浜田が小佐野の渡米に同行したという事実にあった。なぜ、このことが取り沙汰されたのか? そこにはこんな背景がある。
小佐野は、当時の首相の田中角栄と親しい関係にあった。一方、浜田はこの前年の1973年、自民党のなかでもタカ派と目された石原慎太郎や中川一郎、渡辺美智雄らとともに既存の派閥の枠を超え、「青嵐会(せいらんかい)」を発足させていた。その発端は、田中内閣が、日本がそれまで国交を結んできた中華民国(台湾)との関係を破棄したうえで中華人民共和国との国交正常化を実現したことにある。浜田や石原たちはこれに異を唱え、「反田中」の旗のもとに結束したのだった。それだけに、田中と昵懇である小佐野の渡米に浜田がつきあうとはどういうことかと疑念の目を向けられたのである。
もっとも、浜田にも言い分はあった。前出の文春記事によれば、彼は小佐野のことを、衆議院員になる以前の千葉県議時代、地元財政の悪化を訴えたことに二つ返事で応じてもらって以来、「オヤジ」と慕ってきたという(浜田は後年の著書で、県議時代に小佐野のもとで不動産関係の仕事に携わっていたと記している。浜田はもともと政界フィクサーの児玉誉士夫のもとで書生をしており、小佐野も児玉から紹介されたという)。このときの渡米も、ハワイにゴルフ場建設を計画した人が金融引き締めで立ち往生し、《この援助をたのむべく、オヤジをわざわざ引っぱりだした》ものと説明していた。
それでも青嵐会の面々からすれば浜田の行動は軽率に見えた。記事中では、衆院議員の中山正暉が《事実とすれば、弱りましたな。ただ、ああいう豪傑だから、つい軽い気持ちでやったんじゃないか》とコメントするなど、仲間たちが遺憾の意を示している。

浜田自身も《「何といわれようと、不肖浜幸、一世一代の不覚でした」と両手をヒザについてがっくり》し、《国際興業の小佐野社主には、たいへん申し訳ないことをした、これだけは何としても書いておいて下さい。オヤジをハワイに引っぱりだした自分が悪かった。/青嵐会とは何の関係もありません。ただ、誤解を生む行動をしたことは青嵐会にたいしても、軽率だった。ただし、私は、誤ち(原文ママ)は二度とくり返しません。ラスベガスにも私は決して参りません》と、やや芝居がかった言い回しながら反省の弁を述べた。
結局、このスクープはとくに大きな問題に発展することはなかった。しかし、それから6年後、浜田がラスベガスでギャンブルをしたことは、思わぬ形で取り沙汰され、浜田個人のみならず自民党をも危機に陥れることになる。
口火が切られたのは1980年3月6日、東京地裁においてであった。同地裁ではこの日、ロッキード事件をめぐる裁判のうち、小佐野賢治を被告とする41回目の公判が開かれた。
ロッキード事件とはよく知られるように、アメリカのロッキード社(現ロッキード・マーチン)が、旅客機トライスターや対潜哨戒機P3Cなどを売り込むため、日本の代理店である丸紅および全日空、また児玉誉士夫に多額の工作資金を贈賄し、自民党国会議員と政府高官の買収を行ったという疑獄事件である。1976年にアメリカで発覚するや、日本でも東京地検特捜部が真相究明に乗り出し、同年7月には前首相の田中角栄の逮捕という事態にまで発展した。
児玉誉士夫はロッキード社の秘密代理人であり、小佐野は児玉の依頼で政界工作を行ったとの疑惑を持たれた。小佐野はこのために事件発覚直後の1976年2月16日に国会で証人喚問を受け、全日空へのトライスター慫慂(しょうよう。しきりに勧めること)や、対潜哨戒機P3Cの売り込みでの児玉への協力、またロサンゼルス空港でロッキード社からの資金20万ドルを受領したことなどについて追及されるも、「いずれも事実無根」と否定する。検察はこれを偽証として議院証言法違反で小佐野を告発した。
公判で最大の焦点となったのが「ロス空港での20万ドル受領」であり、検察と小佐野の弁護団のあいだで激しい論争が繰り広げられていた。そこへ来て検察は第41回公判において、小佐野がロッキード社からロス空港で受け取った20万ドルは、「K.ハマダ」なる人物がラスベガスのサンズホテルのカジノで大敗したときの借金の一部の返済に使われたという事実を、冒頭陳述の補充という形で暴露したのだ。そこであきらかにされた事の一部始終は次のようなものであった――。
ハマダは、1972年10月5日から14日(先の文春がスクープした渡米の1年半前)にかけてオサノ一行の渡米ツアーに参加し、ラスベガスのサンズホテルのカジノで5日間にわたってバカラに興じた。
バカラとはトランプを使うギャンブルで、バンカー側とプレイヤー側の双方に2枚ずつ(最大で3枚)カードが配られ、合計数が「9」に近いほうが勝ちとなる。客は勝敗を予想して、「バンカーの勝ち」「プレイヤーの勝ち」「引き分け」の三者択一でチップを賭ける。
オサノは自分の連れてきた客が負けた場合の支払いをホテル側に保証した。その際、ほかの客には上限を設けたのに対し、ハマダについては「無制限保証」とする。結果、最終日にはハマダしか賭けず、ほかの客はまわりで見ているだけとなっていた。すでにハマダは大負けが続き、借金は膨れ上がっており、さすがに見かねたオサノはとうとうホテル側に「150万ドル(当時のレートで約4億6000万円)を限度にしてくれ」と申し入れ、ストップをかけたという。
保証をしたオサノはハマダの支払いを引き受けたものの、12月に再びサンズホテルを訪れると、負債の150万ドルを120万ドルに値切った。ホテル側も、日本からの外貨持ち出しの厳しさを理解し、アメリカ国内でのドル決済を条件にこれを受け入れる。
返済は4回の分割払いとなり、1973年1月に50万ドル、同年4月と7月に25万ドルずつ支払われた。そして残額の20万ドルが支払われたのは、当初の約束の同年10月からやや遅れ、11月3日にずれ込む。それは、小佐野の初公判(1977年7月)の冒頭陳述で「小佐野は一行を率いてロス空港に着き、ラスベガス行きの飛行機に乗り換えるあいだに、ロッキード社の元日本支社長から20万ドルを受け取った」とされた、まさにその日であった。

公判ではそれまで、弁護側が、小佐野に20万ドルを渡したとされる元ロッキード日本支社長のアリバイを主張して一時優勢に立っていた。検察はこれを挽回すべく、20万ドルの受領を、そのカネの使途をあきらかにすることで証明するという作戦に出たのである。そのために、サンズホテルの「K.ハマダ」に対する個人別貸付勘定元帳カード、補助元帳、20万ドル受領書、同ホテル副社長の供述書、「K.オサノの取引」と題する書面など、多数の証拠によって綿密に立証を行った。
この時点で検察は「K.ハマダ」を浜田幸一と断定することは避けたものの、浜田が小佐野が率いるラスベガスツアーに数回同行していることはこれまでの法廷であきらかにされており、サンズホテルでの借金主が浜田であることも、アメリカ司法当局の捜査で確認されていた。
出入国記録では、小佐野は1972年8月~74年11月の2年あまりのあいだに計10回、ハワイ、アメリカ本土(主としてロス、ラスベガス)へ国際興業グループや政財界人とともに海外出張しており、浜田はこのうち、疑惑を持たれた1972年10月を含め、1974年4月まで計数回同行していた。文春がスクープしたのは、小佐野一行との最後の渡米だったことになる。
〈「死んでも言えないことがある」カジノで4億6000万の大敗→疑惑の金で借金返済…浜田幸一が晩年に語った“事件の闇”〉へ続く
(近藤 正高)