日本では、約1300万人が慢性腎臓病に苦しんでいると言われている。毎日新聞記者の倉岡一樹氏も、慢性腎臓病を発症した1人だ。末期腎不全を患った彼は、2019年夏に母親からの生体腎移植を受けた。闘病生活は、死の淵をも垣間見るほど壮絶だったという――。
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ここでは、倉岡氏が闘病の日々を綴った『母からもらった腎臓 生体臓器移植を経験した記者が見たこと、考えたこと』(毎日新聞出版)より一部を抜粋。腎臓病が発覚するまでの経緯を紹介する。(全2回の1回目/2回目に続く)
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私には腎臓が3つある。
生まれ持った2つは機能していない。命綱は残りの1つ。母が「生きなさい」と、私にくれた。夫であり父親である私は、老いた母の「1人の体じゃない」という言葉に、生体腎移植手術を決意した。
思えば、慢性腎臓病の発症から7年がたつ。医療関係者はもとより、家族や友人や同僚らの支えで職場に復帰できた。1300万人ともいわれる同じ病気の方々の参考に少しでもなれば、と書きためた日誌を開いた。
私はいわゆるスポーツ記者だった。2003年に大学を卒業して毎日新聞社に入社し、長崎県の佐世保支局を振り出しに、記者の仕事を続けていた。身長179センチ、体重75キロ。頭脳に自信はないけれど、体は丈夫だった。スポーツを担当する運動部に移ってからは、とりわけアマチュア野球(高校、大学、社会人)取材に打ち込んだ。
体の異変に気づいたのは2016年、酷暑の夏だった。足の甲がむくみ、靴が入りにくくなったのだ。その年の4月に東京本社運動部から中部本社(愛知県名古屋市)の報道センタースポーツグループに異動し、大相撲やサッカーの取材を担当した。
妻と娘を自宅のある神奈川県川崎市に残しての単身赴任で、節約のため食事は自宅から送られてくるレトルト食品が中心。晩酌をする習慣もなく、酒は付き合い程度だった。「暑いし、疲れたのだろう」。むくみは軽く、ほかに体調の変化がなかったので、医者にかからなかった。
だが、むくみはその後も一向に引かない。酷暑は過ぎたのに、疲れはたまる一方だった。やがて、外見にも変化が表れる。顔と手の甲が腫れぼったくなり、赤みを帯びてきた。さらに、体を動かすと腰や膝が痛い。歩くとすぐに息切れするようになった。晩秋の月だった。
上司や同僚に心配され始めたのもこのころからだ。そして年末、先輩記者と会社で擦れ違った時、決定的な一言をかけられた。
「お前、体が変だぞ。病院行きなよ」
むくみは日々、ひどくなっていく。それでも「忘年会続きの肥満」と自己診断し、炭水化物を抜くダイエットを始めた。偉丈夫を信じ、周囲の心配と忠告に耳を傾けなかったのだ。
明けて2017年元日、久々に川崎市の自宅に一時帰宅した。体重は増え続け、妻からも病院行きを強く促されたが、ダイエットをしていることを理由に突っぱねた。体の異変を認めつつ、病院に行くことが怖かったのだ。
1月31日。むくみはいよいよひどくなり、特に下半身は尋常でなかった。睾丸が「たぬきの置物」のそれのように腫れ上がり、太ももは2倍近くになった。体中が痛い。膝の裏は、皮膚がズボンと擦れて水が染み出るようになっていた。息切れもひどく、50メートルほど歩くと立ち止まって息を整えた。それでも職場では平静を装い、沖縄に飛んだ。プロ野球、中日ドラゴンズの担当となり、気合がみなぎっていた。
が、そこでの日々は――。
沖縄県中部、北谷公園野球場(北谷町)での1軍キャンプの取材は“地獄”だった。練習の合間に移動中の選手を追いかけて話を聞くのだが、ついて行けないのだ。他社の記者に助けを仰ぎ、球団広報に「早く病院に行ってください」と心配される始末だった。
ホテルに戻って体重計に乗ると、以前は75キロだった体重が100キロを超えていた。腎臓病であることは、疑う余地がなかった。慢性腎臓病が進むと、体にむくみが表れるのだ。それはまず顔と足に出やすい。すねや足の甲、目の周りに腫れが見られたら「黄信号」。体の複数箇所がむくむのは「赤信号」。
一刻も早く病院の腎臓内科を受診しなければならないが、この期に及んでも尻込みしていた。放っておけば命に関わる。それが分かっていながら、病気が明らかになれば、仕事を休まなければならない。家族や同僚らにも迷惑がかかる――。現実から目を背け続けた。
そして3月、私はついに、布団から自力で起きられなくなる。
床をはい、壁と机に爪を立てて、我が身を起こした。泣きたかった。もう布団から起き上がることができなくなった私は、机に突っ伏して寝た。
2017年3月。休日に単身赴任先の名古屋から川崎市の自宅に帰った私を見て、妻と娘は顔色を失った。体はむくみを通り越してパンパンに膨れていた。風呂に入ろうにも、体が浴槽に収まらない。体重計の数字は117キロ。半年で40キロも増えていた。

仕事に戻る日の朝、妻が新幹線の新横浜駅まで車で送ってくれた。助手席で「ダイエットがうまくいかなくて」と頭をかく私に、ハンドルを握る妻は前を向いたまま言った。
「死ぬよ」
さすがにこたえた。新幹線を降りて名古屋市中心部の病院へ直行。内科の診察室に入るなり、医師は目を丸くした。「帰れませんよ。いいですね」。車椅子に乗せられ、そのまま病棟の6階へと向かった。即入院だった。
検査後、あきれ顔で医師に言われた。「ネフローゼ症候群です。それもかなりひどく、肺や心臓付近にまで水が達していました。よく歩いていましたね」
ネフローゼ症候群――。血中に含まれるたんぱく質の「アルブミン」が尿に多く出て、血中濃度が下がることで「低たんぱく血症」となる。アルブミンには血管に水分を引き込む役割があり、血中濃度が下がると水分が血管の外に漏れて体内にたまる。結果、足や顔がむくみ、ひどくなると肺や腹部、心臓などにも及ぶ。医師は続けた。
「倉岡さん、ご家族に糖尿病の方はいらっしゃいませんか」
父も、祖父も。そして、実は私も……。
糖尿病の診断は2006年3月に受けていた。28歳。大学を出て記者になり3年目、初任地の佐世保支局にいた時だ。医師は「若く、太っていないのに発症したのは、遺伝以外にあり得ない」と首をかしげた。記者になって3年。体力には自信があったが、事件や事故は昼夜を問わず、不規則な生活が続いた。「持病」で体が悲鳴を上げた。ただ、それから10年以上、体重は75キロ前後を維持していた。
名古屋の病院の医師は、眉間にしわを寄せて言った。
「見た目は変化がなくても、糖尿病はじわじわ進行します。その結果、腎臓悪化に行き着きます。あなたは糖尿病性腎症の発展形としてのネフローゼ症候群です」
糖尿病性腎症は、糖尿病の合併症の1つだ。高血糖状態が長く続くと、たんぱく質と血中のブドウ糖が結合した物質が増えて、全身の血管が詰まったり破れたりする。その影響が腎臓にも及ぶのだ。自覚症状が表れるまで約10年かかる。その間には、尿が泡立ったり、体重が増えたり、むくんだりとサインがある。私はそれらを全て無視してしまった。
名古屋では、入院当日から利尿剤と降圧剤の治療が始まった。「今は休め。大丈夫だから」。見舞いに来た上司や同僚らは、異口同音に気遣ってくれた。体にむくみが出てからずっと「病院に行った方がいい」と繰り返した上司も「仕事のことは考えなくていいから」と言ってくれた。忠告を無視し続けた私は、ただ頭を垂れるばかりだった。
電話で状況を伝えた妻に言われた。「あれだけ言ったのに、なぜ病院に行かなかったの。親として、夫としての責任感が全くない!」
元テレビ記者の妻は冷静で、めったなことでは怒らない。その妻の声が、電話口で震えていた。入社2年目に結婚し、3年後に一人娘を授かったが、仕事にかまけて家を顧みることはほとんどなかった。「見限られる」、妻の静かな怒りに、ようやく事の重大さを認識した。家族も、同僚も、裏切り続けた……。ベッドに潜り、声を押し殺して泣いた。
追い打ちをかけるように医師から告げられた。
「あまりに重篤で面倒を見られません。転院先を見つけて、できるだけ早く退院してください」
退院? 医師にも見捨てられるのか――。
「どうしていいか、分かりません」
うろたえる私に、医師も困惑を隠せない。「ある程度までは治療します。でも、ご家族の近くの方がいいですし、転院先は紹介します」。治療のおかげで入院14日目の退院日には体重が94キロまで落ちた。
転院の日、妻は何も言わず、娘と共に車で名古屋まで迎えに来てくれた。紹介されたのは川崎市の自宅近くの大学病院だった。この転院が人生の岐路でもあったことは、後に知ることになる。
〈67歳の母が突然「腎臓あげるわよ。1個なくなったって平気!」と…末期腎不全になった記者が、母親からの臓器移植を受けたワケ〉へ続く
(倉岡 一樹/Webオリジナル(外部転載))