今年1月2日、羽田空港で日航機と海保機が衝突し、海保機の乗員5名が死亡する痛ましい事故が起きた。日航機の大きな事故は、昭和の時代に起きた御巣鷹山日航機事故以来である。
【画像】遺体の間にはさまるように、毛布にくるまって夜を明かす捜索員たち
この39年前の事故の犠牲者は520名にも及び、今もってなお、単独の航空機事故としては、世界最多の犠牲者を出した事故として記録されている。その凄惨な現場を取材したカメラマンの橋本昇氏(70)が、当時の状況を語った。
遺体をヘリへ運び込む自衛隊員たち。自衛隊員たちは「丸太」と呼んでいたという 橋本昇
1985年8月12日、18時12分に伊丹空港に向けて羽田空港を飛び立った日本航空123便は、そのおよそ12分後に操縦不能に陥り、18時55分の交信を最後に消息を絶った。
機体は“ジャンボジェット”の愛称で知られたボーイング747。日本の需要に合わせ、短距離路線でなるべく多くの乗客を運べるようカスタマイズされたSR100型と呼ばれるタイプで、乗客定員は500名を超え、導入当時、民間航空機史上最多を誇っていた。その機体が、お盆の時期でほぼ満席の状態だった。
日航123便は18時56分に群馬県の高天原山(通称:御巣鷹山)の山中に墜落。乗客乗員524名のうち520名が死亡、生存者はわずか4名。今日に至るまで、単独航空事故としては世界最多の死亡者を出した事故とされている。

「便利になればなるほど、リスクは大きくなるのではないかと感じましたね」
そう話すのは、フリーランスのカメラマンで、当時、事故現場を取材した橋本昇氏だ。新幹線なら東京ー大阪間は3時間かかるが、飛行機なら1時間ほどで着く。しかし、「早く、快適に」を追求していくと、少しずつリスクが上がっていくという意味だ。飛行機事故が起きる確率は極めて低く、移動距離あたりの死亡事故率で比較すれば、飛行機は自動車よりも低く、安全な乗り物とされるが、ひとたび事故が起きると多数の犠牲者が出る。
橋本氏は、39年前の事故の日のことを今でも鮮明に覚えているという。
「あの日は夕方頃に北九州の実家から東京に帰ってくる日でした。私が羽田に着いたちょうどそのころに、日航123便が飛び立っていたはずです。暑い日で、日野市の自宅に着いたら、熱がこもっていて、窓を全開にして空気を入れ換えたのを覚えています。
一息ついたところで、週刊文春のグラビアページのデスクから電話がかかってきました。『大阪行きのジャンボ機が行方不明になったらしい。取材に行ってくれないか』と。驚いて、『墜落したんですか?』『まだわからないが、たぶんそうだろう』といったやり取りの後、同行する記者は誰かと尋ねたら、『いや、1人で行ってくれ』と言う。『もうハイヤーがそっちに向かっているから』と。有無を言わせないデスクの態度から、とんでもない事態が起きたことは伝わってきました」
羽田空港から帰宅するほんの数時間の間に、未曾有の大事故が起きていたのだ。

「テレビをつけたら特番で羽田から中継をしていたけど、まだ墜落場所も判明していませんでした。撮影機材を準備して、近所の店で弁当を2つ買ってきたらハイヤーが来た。乗り込むと登山用リュック、2リットルの水が3本、登山靴などが置かれていた。自宅の冷蔵庫で保存していた白黒フィルムを持ち、現場がどこかもはっきりしないまま、とりあえず深夜0時ごろに長野方面に向かって出発しました」

高天原山の山中で火災が発生しているのを最初に発見したのは、たまたま上空を通りかかった米軍のC-130輸送機だった。それが19時15分ごろで、捜索のために出動した航空自衛隊のRF4ファントムという偵察機が大規模な火災を確認した。
だが、墜落場所は普段は人が入らない原生林で、月明かりもない日だったので、地上は暗闇に包まれていた。GPSがない時代で、空から目視で位置を確認しようにも、真っ暗な森林に航空燃料の燃える煙が広がっていたため、場所の特定は困難だったという。
橋本氏は目的地も定まらないまま、中央道に乗り、長野方面に向かった。スマホも携帯もインターネットもない時代である。車内で情報を得る手段は、ラジオしかなかった。
「ラジオは、日航123便の乗員乗客の名前を延々と読み上げるだけでした。他に情報が何もなかったのでしょう。歌手の坂本九さんを筆頭に有名な人が何人も搭乗していたことを後で知ったんですが、名前を聞き逃したのか、本名(大島九:おおしまひさし)で搭乗していたのか、まったく気づかなかったですね。
車中では、カメラにフィルムを装填するためにフィルムロールを短く切ってパトローネに巻き直す作業に没頭していたのですが、ふと車窓を眺めたら、自衛隊車両が見えたんです。追い抜いていくと、また自衛隊の車両がいる。これについていけばいいと思い、運転手さんに追いかけるようにお願いした。自衛隊車両を追って、長坂インターから中央道を降りました」

自衛隊の車両だけでなく、遺族を乗せているとおぼしきバスもみかけた。窓にはカーテンが閉まっていたが、その隙間から無表情で固まった遺族らしき人の姿が見えたという。
「ようやくその頃になって、ラジオのニュースで南相木村(長野県)の公民館に対策本部が設置されたという情報が入ってきたので、じゃあ、そこへ行こうと。着いたら、暗がりのなか、村役場の人や日航の関係者、報道関係者などが200人くらい集まっていました。大手新聞の記者が日航の関係者に向かって、『てめえら落としやがって! 舐めてんじゃねえぞ!』と怒鳴りつけていたのが印象に残っています」
橋本氏が対策本部に到着した時点でも、墜落地点については情報が錯綜し、正確な位置がはっきりしていなかったという。

「朝の5時半ごろだったと思いますが、自衛隊員からぶどう峠の先らしいと聞いて、とりあえずクルマで行けるところまで行ってみようと、運転手さんにお願いして走りはじめました。ところが、そのぶどう峠の道は、未舗装の砂利道で、幅もクルマ1台分くらいしかない。ガタガタの曲がりくねった道を走っていたら、とうとうハイヤーのタイヤがパンクしてしまったんです。運転手さんが『この辺で勘弁してください』と言うので、そこで別れ、リュックを担いで歩きはじめました。しばらく歩いたら、農作業に行く軽四輪が通りかかったので乗せてもらった。道の脇の斜面の上の方から自衛隊員の声が聞こえる場所があったので、そこで降ろしてもらって山に入りました」
まだ現場は見えなかった。
〈「人間のくるぶしから先の部分が落ちていて…」史上最悪の飛行機事故現場に駆けつけたカメラマンが見た“戦場よりも凄惨”な光景〉へ続く
(清水 典之)