「私、父の名前を知らないんです。父とは15歳まで一緒に暮らしていたのですが、母や私に暴力を振るうので、名前で呼んだことは一度もなくて、いつもアイツって呼んでました。もしアイツに会うことがあったら、その時は…殺してやりたい」
この春、大学院を卒業した杉原美優さん(24歳・仮名)は、就職を選ばず、演劇の道を進んだ。
彼女が手がけた演劇には、虐待や貧困と隣り合わせで育った子供たちが登場する。修士課程を卒業してまで、暗く重いテーマと向き合い、創作活動を続ける杉原さん。その原動力には、冒頭のセリフからも垣間見える、父への憎悪や虐待された過去があった。
「本当は、家族や恋人とささやかな生活が送れるなら、演劇なんか必要ないんだと思います。ただ、私がずっと死にたいと苦しんできた半生を、演劇に昇華させることで、自分の輪郭が保たれて、まともでいられる気がするんです」
一体、彼女はどのような半生を送り、どのように再起の道を歩んできたのか。
杉原さんが産声をあげたのは、関西にある母の実家だった。母、祖父母、大叔母の4人に囲まれて育った杉原さんは、何ひとつ不自由のない家庭で幼少期を過ごす。父親が不在なこと以外は。
「母は里帰り出産で私を産みました。本当は父も出産に立ち会う予定だったらしいですが、約束をすっぽかしたらしいです。以来、実家を出るまで、父とは一度も顔を合わせたことがありません。それどころか、家族から父の存在を聞かされることは一度もなく、父がいないのは当たり前のことだと思っていました」
ごく普通の生活に転機が訪れるのは、杉原さんが9歳の頃。祖父が新興宗教にのめり込み、多額の献金を繰り返したことが発端だった。祖父母の関係には亀裂が入り、間もなく2人は離婚を選択、実家を売り払うことになった。そこで杉原さんと母は、父が一人暮らしをしていた神戸に向かうこととなる。
「お父さんが住んでるお家に行くから、学校も転校しなきゃね」
ある日突然、母から告げられて、父との共同生活が決まった。当時は家庭の事情も飲み込めず、見ず知らずの男性との暮らしが始まることに、杉原さんは困惑した。そして杉原さんの半生は、そこから歯車が狂い始めていく。
間もなく母娘は神戸に転居し、杉原さんは父の実家で初対面を果たす。
「初めて父を見た時の印象は、最悪でした。そもそも妻と娘が来るのに、父は迎えに来ないで、自室でゲームをしていて、私たちには無関心のよう。家はボロボロの2DKのアパートで、タバコでヤニ臭かったのを覚えています」
そもそも9歳まで娘に顔を見せないことが異常だが、杉原さんは父と母との生活が始まった。しかし、杉原さんが父に抱いた悪い印象は、日増しに強くなっていく。
「父は自室からほとんど出ず、働きに行ってもいないようでした。私と母はもうひとつの別の部屋で暮らしていて、父とは会話や交流がほとんどなく、3人で食卓を囲むことは一度もなかった。そもそもダイニングには、家族3人が座れるテーブルも椅子もなく、引越しで運んできた段ボールが無機質に積み重なっていました」
労働も家事もしない父の代わりに、一家の生活を支えていたのは母だった。移住してたちまち、杉原さんの母はアパレルと水商売のダブルワークで、帰宅するのは深夜だった。引越しで運び込まれた段ボールは、荷解きされないまま放置され、杉原さんはそれをテーブル代わりに出来合いの夕食を済ませた。
「母との時間が減って寂しかった」
下校してから、自室で一人の時間を持て余す杉原さんだが、そこで父からの虐待を受けることとなる。
「父はなんの予兆もなく、私の部屋に入ってきて暴言を吐いてくるんです。『美優は出来損ないやから』『美優は頭の悪い子供』『ママみたいに働いて俺を養えよ』って、一方的に人格否定してくる。
それで私が無視していると、次は馬乗りに抑えつけて殴ってくる。布団に私を押し倒して、『お前なめとんのか』って怒鳴り散らし、『今からお前を殴る』って暴力を振るうんです。耐えきれず私が泣きだして『ごめんなさい、ごめんなさい』って訴えると、父は満足したように笑って自室に戻っていく。父からの暴力は、いつも私が泣くまで続きました。
父は身長が高く、長い腕が上から降ってくるのがとても怖かった。家の中で父の足音がすると、私の自室にやってくるのではないかと、自然と体がこわばるようになりました。
父はいわゆるアダルトチルドレンでした。機嫌が悪いと突然キレ出して、私をストレス発散のはけ口にするんです。父は三人兄弟で、兄は産婦人科医だそうです。初めて聞いた時は衝撃的でしたが、そんな兄に囲まれた父は、出来が良い兄と比較されたように感じ、劣等感があったのかなと思います」
深夜に母が帰宅すると、矛先は母に向いた。杉原さんは深夜、布団に入りながら、父と母の揉め事を部屋越しに聞いていたという。
「父と母のいざこざは、ほぼ毎日父の自室で起こっていました。働かない父に対して、母が文句を言って、次第にイラついた父が手を出すのがお決まりのパターンでした。毎回、口論した後に、壁越しに母の甲高い悲鳴が聞こえてきて、『あ、お母さんまた暴力振るわれちゃった』って分かるんです。
喧嘩の詳細は聞こえませんが、所々で父が『殺してやる』『うるせえ』と喚く声がトラウマでした。私が直接暴力を振われるより、壁を隔てた先で母が傷付けられていると感じる方がつらかった。すぐ近くに恐怖がある感覚が本当にきつくて、布団にしがみついていました」
子どもの目の前で、親がパートナーに暴力を振るうことを面前DVという。子供は肉体的被害を受けないが、自身の大切な存在が傷つけられるのを目の当たりにすることで、心理的に深いダメージを負う。つまり杉原さんの心身には、直接的な暴力と心理的な虐待、ふたつの傷が蓄積されていく。
引っ越してきてから1ヵ月ほど経過した夜、両親の揉め事の最中に、杉原さんは「どごっ」と鈍く大きい音を耳にする。嫌な予感がして、杉原さんは自室を飛び出した。
「母は父親に突き飛ばされ、床に倒れていました。母は号泣しながら謝っていましたが、父はお構いなしに近くにあるものを母に投げつけて、母を蹴っていました。母が暴力を振われているのを目の当たりにした私は、ショックでどうしていいのか分からず、ただただ泣いていました。
父の怒りは収まらず、そのうち部屋にあった大きな姿見を、母に向かって投げつけました。それが母に命中して、また大きな鈍い音がして、母の泣いた声が止まったんです。『お母さん殺されちゃった』って、直感的にそう思いました」
やがて泣き止んだ母を見て、事態の深刻さを自覚した父は、そこからさらに衝撃の行動に出る。
「母への暴力を止めた父は、そこで電話をかけるんです。相手は父方の母で『なんか怪我したみたい』って伝えていました。その時の一連の出来事が衝撃的すぎて、これが現実なのか、目の前にいる父が同じ家族なのかよく分からなかった。
いくらか時間が経つと、父方の母が来て、おどおどした感じで母を寝かせようとするんです。『ごめんなさいね、大丈夫かしら』って。『いや大丈夫なわけないだろ。救急車を呼んでくれ』って泣き叫びました。
それでも祖母は困惑したようにおろおろするばかりで、そのうち母が起きて自力で病院に向かいました。母も私も混乱していましたが、深く父に関わってはいけないと思うようになったのは確かです。結局、母は肋骨を折る重症を負い、その日から私は、心の中で父を“アイツ”と呼ぶようになりました」
「健」。杉原さんの父の名前はそう書くが、一度も父を名前で呼んだことがないため、どう読むのかわからなかった。
そんな得体の知れない男性がなぜ父なのか、そして母はなぜ父との暮らしを選択したのか。小学生だった杉原さんにとっては、理解できない現実だった。
「父の苗字は『山下』で、私たちと違った。母と父は籍を入れてないはずです。両親の馴れ初めは知らないですが、母方の父いわく、母が神戸の大学に通っていた時に知り合ったそうです。
父がこれまで何をしてきたか、どうやって暮らしてきたかは定かではありませんが、長らく仕事はしてないはず。かつて父が暮らしていた地域には、いわゆるドヤ街があって、工場労働者や水商売で働く人が多かった。父の母はスナックを営んでおり、きっと父も似たような境遇の家庭で育ってきたのかもしれません。
母は肋骨を折られた後、『早く引っ越そうね』なんて言って、不動産に貼られている物件を見ていましたが、結局父の元から離れることはなかった。父とやり直したかったのか、単身世帯で私に寂しい思いをさせるのが嫌だったのか、実家に帰りづらい事情があったのか…。
いまだによくわかりませんが、母はあまり語りたくなさそうで、骨折したことも祖父母に内緒にして欲しいと言われたので、それ以上の詮索はしませんでした。連日仕事に疲れ、父からDVを受けている母に、これ以上迷惑をかけてはいけないと、できるだけ良い子にしていようと振舞っていました」
父に怯えながらの生活は続き、暴力はエスカレートしていった。杉原さんが小学校高学年に入ると、父は包丁を持ち出して母を脅すようになり、見かねた杉原さんが警察に通報することも二度あった。
「1回目に呼んだのは、小学校5年生の頃、父が母を包丁で追い回していた時。2回目は、小学校6年生の頃、父がベランダから母を突き落とそうとしていた時です。母の悲鳴があたりに響いているのに、周りの住民は誰も通報してくれないし、本当に母が殺されちゃうと思って。
それで警察が来たんですけど、ダイニングは散乱していて、しかも父が飼っていた猫の糞尿が垂れ流しの状態だったんです。父は猫の面倒を母に任せているし、母は働きっぱなしで掃除する気力もなくて。それで糞尿にまみれた家の中を、警官が足場を探しながら入ってきて、それを見た時にすごく惨めになりました」
父は留置所に連行された。現場検証が深夜まで続き、杉原さんは心身ともに疲弊しきった。後日、留置場にいる父から手紙が届いたが、母に見せることはなかった。
「手紙には、汚い字で『もう一度みんなでやり直したい』って。すごい偽善的で、余計に腹が立ったので捨てました」
そう嘆願した父だが、結局留置所から戻ってきても、家族を顧みる様子はみられなかった。中編記事『父の壮絶DVで家庭崩壊、孤独のどん底にいた女性が「里親家庭」で覚えた「強烈な違和感」』へ続く。
父の壮絶DVで家庭崩壊、孤独のどん底にいた女性が「里親家庭」で覚えた「強烈な違和感」