東日本大震災の直後から東北で暮らし取材を続けるルポライター・三浦英之氏が出会った木工作家の遠藤伸一さん夫婦。前編では子どもの死に責任を感じ、「もう生きている意味がない」とまで苦しんだ遠藤さんの「その日」をお伝えした。
【写真を見る】がれきの前で呆然と立ち尽くす女性 【実際の写真】
中編では、主に妻の綾子さんの視点による被災からわが子との悲しい再会までをお伝えする。三浦氏の著書『涙にも国籍はあるのでしょうか 津波で亡くなった外国人をたどって』から一部抜粋・再編集してお届けする。【文中敬称略・本記事は前中後編の中編です】
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大地が激しく揺れ始めたとき、遠藤の妻・綾子は看護助手として勤務する高台の病院で、患者の入浴作業を手伝っていた。院内の器具がガシャガシャときしみ、患者が泣き出したり、失禁したりし始めていた。断水に備えて容器に水をためようとしていたとき、ラジオが津波警報を伝えた。
「沿岸部に津波警報が発令されました。海の近くにいる人は──」
家族と連絡を取りたかったが、あいにく携帯電話が手元になかった。
しばらくすると、上司から帰宅許可が出たため、綾子は高台を降りてJR石巻駅へ向かった。すると不思議なことに周辺の地面がうっすらと「濡れ」ているのに気づいた。
「何、これ?」
地面の「濡れ」はすぐさま「水たまり」へと変わり、やがて小さな「波」となって周辺の市街地を埋め尽くし始めた。
「津波?」
水位がどんどん上昇して綾子の膝下ぐらいに達したとき、彼女は見知らぬ男性に腕をつかまれ、石巻市役所の止まったエスカレーターから上階へと引き上げられた。
市役所内はすでに大勢の避難者でごった返していた。全身ずぶ濡れの人や、ケガをしている人もいる。
子どもたちは大丈夫だろうか──。
心配だったが、携帯電話には「子どもたちは体育館に避難しています」という小学校からの一斉メールが入っていた。
石巻市役所周辺の冠水が引かなかったため、綾子は結局2晩を市役所の椅子で過ごした。
震災3日目の朝、自家発電で視聴可能になった市役所内のテレビに自宅近くの南浜地区の映像が映った。一帯に津波が押し寄せたらしく、家屋はどれも原形をとどめていない。自宅がある渡波地区も相当な被害を受けていると覚悟した。
「渡波の自宅に戻りたいのだけれど……」
そう懇願すると、市役所にいた男性に「自己責任で戻ってくれ」と告げられた。
近くにいた別の男性が彼女に聞いた。
「渡波のどこ?」
「長浜町です」
そう答えると、男性は天を仰ぎながら「希望は捨てないで」と声を潜めた。
市役所を出ると、ほとんどの道ががれきで覆われていたため、綾子はトンネルを抜けて避難所になっていた渡波小学校へと向かった。
体育館に到着すると、誰も彼女と目を合わせようとしない。
「綾子さん、よく聞いて」
遠い親戚が近づいて来て言った。
「花ちゃんと奏ちゃん、ダメだった。侃太(かんた)さんはまだ見つかっていない……」
彼女はその日本語で語られたはずの言葉がまったく理解できなかった。
「侃太と奏は小学校にいたはずじゃ……」
近くにいた男性に連れられて、住民が避難しているという渡波保育所へと向かうと、たき火のまわりで夫が待っていた。
夫は涙を流しながら妻に謝った。
「ごめん、花と奏、助けられなかった……」
周囲に抱きかかえられるようにして保育所の2階へと上ると、愛する2人の娘が保育士のエプロンを掛けられて横たわっていた。
まるで誰かにほおを突然ひっぱたかれたような気分だった。
痛みも怒りも感じない。涙さえも出ない。
「何で、何で……?」
口ごもりながら意識を必死につなぎとめた。
「だって、侃太と奏は小学校にいたはずでしょう?」
夫に刃物のような質問を向けた直後、記憶の一部を失った。
翌日、綾子は一睡もできないまま保育所の床で朝を迎えると、夫と一緒に自宅の周辺へと向かい、まだ行方のわからない長男の侃太を捜した。夫の母である恵子が座っていた自宅周辺を中心に捜すものの、無数のがれきに覆われて手がつけられない。
綾子はいっそ自分が重機になってしまいたかった。そうすれば、愛する息子をこの冷たい泥の中から救い出してあげられる。
「侃太なら、どこかに走って逃げていてくれるかもしれない」
夫婦はそんな期待も心のどこかに抱いていた。引っ込み思案だった侃太はとりわけ足が速かった。徒競走で1番になれるかもしれないと、父子は毎朝近くの堤防で駆けっこの練習をしていた。
しかし1週間後、そんな夫婦の小さな希望も裏切られてしまう。
保育所に自衛隊員が訪ねてきて聞いた。
「ここに恵子さんという方はいませんか?」
津波で壊滅した家屋の近くに恵子宛ての年賀状が散乱しており、近くで小学生とみられる男児の遺体が見つかったという。
綾子が保育所を飛び出して自衛隊車両に駆け寄ると、荷台に侃太が寝かされていた。
「うっ、うっ、うっ」
絶望的な気持ちに打ちのめされながら、綾子は避難所の住民が手渡してくれた貴重なきれいなタオルで息子の顔を必死に拭いた。
侃太の遺体は、震災後に臨時の遺体安置所となった石巻市の旧青果花き地方卸売市場へと搬送された。
現地に赴くと、ブルーシートの上に数十の遺体が寝かされ、毛布がかぶせられていた。
遠藤は3人の子どもたちが寂しがらないよう、侃太の遺体をすでに搬送されていた花や奏と隣り合わせになるよう並べてもらった。
「もう俺が生きている意味なんてないな」
目の前の小さな三つの遺体を前に彼は心の底からそう思った。
「俺が小学校から連れ戻しさえしなければ。俺が『父ちゃんがいるから、大丈夫だ』なんて言っていなければ……」
震災直後の石巻市では遺体をすぐに火葬することができず、3人は仮埋葬になった。
石巻体育館前に掘った等身大の穴の中へと、自衛隊員たちが木の棺を運び込む。その軽さから子どもの遺体であることがわかるのか、自衛隊員たちも棺を担ぎながら大泣きしていた。
仮埋葬では関係者が棺に土をかけることになっていた。でも、綾子はそれがどうしてもできなかった。
私の取材に吐き出すように言った。
「だって、実の母親が我が子に土なんてかけられるわけないじゃないですか……」
3月下旬、綾子は避難所に設置された電話で、東京で暮らす両親に初めて事実を伝えた。
「ごめんなさい、私、子どもたちを守れなかった」
3人の孫を溺愛していた父親にそう謝ると、電話口には母親が出た。
「お母さん……」
直後、彼女は被災してから初めてわんわん泣いた。
感情を抑えられず、言葉も継げられず、涙だけが次から次へとあふれ出てきた。
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あまりの悲しみからこの後、遠藤さん夫妻は感情を失ったロボットのようになって過ごすことになってしまう。
転機が訪れたのは、一人の外国人被災者と遠藤さんの仕事である「木工」とを結びつけた依頼だった。その経緯については後編でご紹介する。
※本記事は、新聞記者でもある三浦英之氏が被災地の取材を続ける中で「東日本大震災で亡くなった外国人の数を、誰も把握していない」ということを震災から12年たって初めて知り、その外国人被災者たちの足跡をたどった著書『涙にも国籍はあるのでしょうか 津波で亡くなった外国人をたどって』の一部を再編集して作成したものです。
デイリー新潮編集部