「学費も家賃も、いくらかかるのか卒業まで知らなかった」という恵まれた環境で育ち、特に躓くこともなく医学部を卒業した筆者。ところが、なにを間違えたのか研修先は「治安が最悪な風俗街の病院」を選んでしまった。
ここでの日々は、衝撃的な体験の連続だった。その一部は『「風俗街の病院」に勤める新人女医が驚愕…トイレから血まみれで出てきた14歳少女の「衝撃の姿」』に書いているが、これは氷山の一角に過ぎない。一番多様な層の人間と接することになる「救急外来」で起きた、驚きの体験を振り返ってみたい。
吹雪の夜だった。当直の空き時間、コンビニでカップラーメンにお湯を注ぎ、白衣の上からコートの前を固く閉めて早足で歩いた。
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こういう夜は患者が少ない。これは医者の間では常識なのだが、天気の悪い日には救急外来を訪れる患者が明らかに減る。外に出たくないのだろう。ついでに深夜に面白いテレビ番組がある時も患者が減る。そんなものだ。
「天気が悪いくらいで来なくなるなら、朝の開院まで待てよ」などと、いちいちイラつくのも馬鹿馬鹿しい。
熱いラーメンとホットレモンティーの容器を空にして、ぐっすり眠っていた午前三時にピッチが鳴った。
「78歳男性、主訴は全身の痺れ。ご家族はおらず一人で来院。逮捕されながら来院していて警官付き添いです」
……逮捕されながら来院??
聞いたことのない言い回しだ。起きぬけの頭に全く入ってこず、どんな状況ながら分からないながら外来へ向かった。
文字通りだった。担架に寝かされたその老人の手首には、厳つい銀の手錠がはめられている。その鎖の先に、明らかに面倒くさいことになったという顔をした、仏頂面の警官が付き添っていた。
初めて本物の手錠を見た。いや、それよりも、この腐ったような臭いだ。近付くと鼻が曲がりそうになり、一瞬表情を取り繕うのを忘れた。
老人の髪や髭はボサボサと伸びっぱなしで、そこに垢なのか食べかすなのか分からないものがいくつも付着している。元が何色だったのかよく分からない薄汚れたジャンパーには、ぼろ雑巾のようにいくつも穴があいていた。短いズボンの裾から飛び出した脚は枯れ木のように痩せ細っており、おまけに足元はサンダルだ。
点滴を取ろうとするも、手錠で腕が動かせないため非常に取りづらい。
その上、アルコール綿で拭いても拭いても真っ黒な垢がへばりつく。老人の全身は垢で茶色く染まっており、何日というレベルではなくお風呂に入っていなさそうだった。
二重にマスクをして、できるだけ息を吸わないように処置をする。
救急隊から受けた説明によると、この78歳男性は住所不定無職、つまりホームレスとして暮らしていた。本日の夜、この付近のコンビニに入り、110円のパンをその場で開けて食べてしまい、警察を呼ばれた。警察署にて事情聴取を受けていた所、急に全身のしびれと痛みを訴え、倒れ込んだため救急要請したという。
その場で食べた?随分と馬鹿なことをしたものだ、捕まるに決まっている。受け答えは問題なくできているように見えるが、少し認知症が入っているのだろうか?
そう思いながらも、ルーチンとなっている診察と検査を行った。が、どうも結果がおかしい。
四肢の痺れを強く訴えながらも、神経系の診察は問題なく全てクリアする。種々の検査結果も全て正常だった。周りに医師や看護師がいると痛みを訴え唸り声をあげるが、誰もいなくなると静かになる。庇う部位がその時々によって違う。
いったい何が起きていたのか。『警察官に連れられて「風俗街の病院」にやって来た“78歳万引犯”が語った、「犯行の動機」と、当直医が言い放った「残酷すぎる一言」』に続く。