すき焼き店に変わって、焼鳥店、焼肉店が増えた理由とは(写真: shige hattori / PIXTA)
“現在は牛屋、鳥屋というものが数少なくなったが、俺の育つ頃は、今の洋食屋、支那蕎麦屋の如く、牛屋、鳥屋が到るところにあったものだ”(小島政二郎『下谷生れ』)
1894(明治27)年東京生まれの作家・小島政二郎の証言です。現在はその数を減らしてしまいましたが、戦前は牛肉のすき焼き(牛鍋)を中心メニューとした「牛屋」、鶏肉のすき焼き(鳥鍋)を売り物にした「鳥屋」が東京・大阪に数多く存在しました。
ところが戦後、すき焼きを提供する「鳥屋」「牛屋」が衰退。かわって数を増やしたのが、焼鳥店と牛肉を使った焼肉店。
“座敷へ通して、鳥鍋を食わせる家が少くなった。芝口に有名な家が一二軒残っている外は、みんな焼鳥屋になってしまった”(小島政二郎『天下一品』)
つまり外食業におけるメジャーな調理法が「煮る」から「焼く」へと変化したのです。
現在も営業を続ける数少ない戦前からの「鳥屋」、「玉ひで」の7代目主人山田耕路も、次のように証言します。
“しゃも鍋屋、まあ、しゃもを使わずにふつうの鶏を出してれば鶏鍋屋だけれども、戦前まではずいぶんあったんです”(岩崎信也『食べもの屋の昭和』)
山田氏によると、「煮る」から「焼く」へと外食店が変化した理由は、鶏肉の変化にあったそうです。
“それが戦後、しゃもはなくなる、ブロイラーで鶏がまずくなって、鍋屋がどんどん廃業して。やきとり屋に取って代わられちゃった感じですね”
「玉ひで」では伝統的に闘鶏用のニワトリ=シャモを使用していますが、戦前のすき焼きに使用していた主な鶏肉は親鳥、つまり卵を産まなくなった鶏卵用の老いたニワトリでした。
この親鳥、肉質は硬いのですが旨味が強いという特徴があります。その旨味を生かし、中華料理店やラーメン店ではスープの素材として重宝されています。
親鳥と同じく、シャモもまた肉質は硬いのですが旨味は強い。この、親鳥やシャモに適した調理法が、鍋で煮込むすき焼きなのです。
硬い親鳥やシャモを薄切りにして、醤油を使った割下で煮る。硬い肉は適度に柔らかくなり、醤油の強い味にも負けない旨味が鍋の中に溶け出す。すき焼きとは、親鳥やシャモに最適化された調理法だったのです。
ところが、1960年~1970年代にアメリカから導入されたニワトリ=ブロイラーが、その値段の安さで親鳥やシャモを鶏肉市場から駆逐していきました。
ブロイラーとは、少ない飼料で早く成長するように品種改良されたニワトリ。短期間で大きくなるため値段は安く、その身は柔らかいのですが、一方で親鳥やシャモに比較すると旨味が少ないという欠点があります。
旨味の強い親鳥やシャモに最適化された料理=すき焼きにブロイラーは向かなかったのです。
しかしブロイラーはけっして「まずい」わけではありません。すき焼きという調理法には向いていないというだけです。
ブロイラーはもともと、アメリカでの調理法に最適化された品種。加熱しても柔らかさを失わない肉質は、焼く、揚げる料理に適していました。すなわちローストチキンやフライドチキンです。
ブロイラーはフライドチキンに適していた(写真: 花咲かずなり / PIXTA)
すき焼きに変わって、ブロイラーに適した「焼く、揚げる」鶏肉料理が1960~1970年代以降盛んとなりました。外食産業における焼鳥と、家庭料理としての唐揚げです。
それまで非常に高価であったローストターキーにかわって、1960年代にはブロイラーを使った安価なローストチキンがクリスマスの主役となります。
1970年に日本に進出したケンタッキーフライドチキン。当初なかなか普及しなかったフライドチキンですが、1974年にローストチキンに便乗する形で「ケンタッキークリスマス」を開始すると、一気に普及していきました。
ブロイラーの普及が焼鳥やクリスマスに与えたインパクトの詳細については、拙著『焼鳥の戦前史』を参照してください。
日本の伝統的な牛肉、和牛に最も適した料理法も、すき焼きでした。東京では1900年前後に、従来の味噌味に変わり、醤油と味醂の割下を使った現在のすき焼き(当時の名前は牛鍋)が成立します(拙著『牛丼の戦前史』参照)。
ところが1950~1960年代に、和牛に大きな変化が起こります。
それまでの和牛は、農耕や運搬に利用されていた「使役牛」を食肉用に流用していました。数年間田畑を耕して働いた後に、若干の肥育期間を経て肉用として出荷していたのです。
ところが、1950~1960年代にトラクターなどの農業機械が普及し始めたため、使役牛はその姿を消していきます。和牛は使役牛の流用ではなく、最初から食肉用として飼育されるようになっていきます。
当然のことながら飼育コストは高くなり、和牛は現在のような高価な牛肉となっていきました。そして高級となった和牛に対して、相対的に競争力を増したのが輸入牛肉です。
1971年のドルショック以降、1ドル=360円だった円はドルに対し高くなり続け、アメリカなどからの輸入牛肉の値段は安くなっていきました。1990年代以降は関税も引き下げられ、ますます輸入牛肉は普及していきました。
アメリカやオーストラリアの牛肉は、ステーキ、バーベキュー、ハンバーガーのパティなどの焼く料理に適しています。こうして輸入牛肉が普及するのにともない、焼肉店が増えていったのです。
値段だけではありません。伝統的な使役牛としての和牛と、1950~60年代以降の食肉専用に飼育された和牛では、その肉質も異なっていたようなのです。
浅草の老舗「米久」の4代目主人丸山海南夫は、和牛の肉質の変化について次のように述べています。
“仕入れた肉は、まず寝かせます。二週間とか、冬場になると二ヶ月くらい、成形もしないで置いておくわけです。そして、肉が熟成してやわらかくなって、ちょうど使い頃になったところではじめて、成形します。そうすると、その頃には肉の周りはカビだらけになっている。ただしひと皮むけば、カビの付いた部分を落としてしまえば、中はきれいな、食べ頃の肉になっている。”
“でもね、そういう肉は昔の肉でね。いまの牛はそうやって寝かせておいて、いざ切ってみると、下手すると脂の部分なんかにカビが入り込んでいたりする。肉の中にです。そうなると、いくら掃除したって使いものになりません。腐った臭いが残っちゃいますから。どうしてそうなるのかというと、いまの牛は極端にいうと、無菌状態で育っているからなんです。肉のために必要な菌まで殺しちゃってる。それでうまい牛が減ってきているんです。”(岩崎信也『食べもの屋の昭和』)
「無菌」なのかどうかについてはさておき、かつての使役牛の筋肉質の肉と、サシを重視する現在の和牛の肉では、熟成の仕方が変わってきているようなのです。
すき焼き店が衰退した一因には、この肉質の変化、熟成の仕方の変化があったのかもしれません。
(近代食文化研究会 : 食文化史研究家)